【その1】 とにかく学生は普段と変わりなく学校に通い、サラリーマンはネクタイを締めアタッシュ・ケースを下げ、フセインのでかい肖像画の下を歩き会社に向かう。 そしてユーフラテス川が私の泊まっているパレスティン・メリディアンホテルの前をゆったりと流れている。バクダッドの寒さは本当に東京の今と似ていて、やはり外に出るにはダウンが必要だ。時折雪も降るらしいのが中東の石油国家イラクの今なのだ。 この日(2月17日)の私は何とかホテルで見張っている公安の鋭い目をかすめ、一人この人類史最古の歴史を持つ川のほとりにたたずんでいた。
チグリスの冷たい風に吹かれながら、一番初めに私の頭をよぎったものは、何とも言いようのない“安堵感”と本当に「とにかく良かった!」という沸々と全身から湧き上がってくる静かな感情だった。そして次の瞬間思ったことはやはり「俺はついている!」と痛切に感じたことだった。それは最低でも我々がこのイラクの首都バクダットの滞在中の期間の2月一杯での「アメリカのイラク攻撃はない」だろうという信頼できる情報を得たことであった。 ◆もしアメリカの攻撃が始まり、フセインが亡命したら……
私が初めて見た“中東の真珠アンマン”の街はとてもきれいな町だった。イラクの隣の国ゆえもっと騒然とした街を予想していたのだが、難民も軍隊の姿も見ることもなく、静かに我々の第一日目の夜は明けていった。ここアンマンは、この10数年の石油王国イラクへの世界の経済制裁のおかげで、一躍大経済発展を遂げたという。この地はイラクに物資を輸送する一大基地となっているのだそうだ。 私はイラクへの荷造りをしながらふっと突然のように「俺は人間の盾になって死んじゃうのはいやだ〜!」と心の内では思ったが、やはりみんなの前では言葉には出せないでいた。 アンマンからバクダッドまでは車で1,000キロの道のりだ。現在の状況では飛行機は飛んでいない様子だった。これでは車をチャーターして国境を越えるしか方法はないのだ。我々は2時間がかりでバクダッドに行ってくれる車を探した。そしてその数時間後、我々を乗せた9台のヒップアップ・トラックは列をなして高速道路を常時160キロのスピードで走り抜けたのだった。その光景は実に壮観だった。途中すれ違い、あるいは追い抜く車のほとんどはイラクからの石油を満載した大型タンクローリーだ。 アンマンを出立してすぐに、外を流れる延々と続く砂漠の光景にはすぐに飽きて、私は浅い眠りについた。底なしの不安とこれから起こるだろう未知への好奇心に私の意識は長い間どことなくさまよっていた。そしてヨルダンのボーダーを超え、1時間ほど走ると突然のように言いようのない恐怖が私を襲った。それはこの“冒険反戦旅行(?)”の前日、フセイン・イラク大統領の「伝記」を読んだのがまずかったと後悔したのだった。この伝記本によれば、私が今訪れようとしてる石油の国イラクの大統領フセインは、埋蔵量
世界2位の石油利権と言ったアメを各部族の長にばらまきながら、フセインの政治的対立者の暗殺と「密告」で国民を恐怖に陥れることによって権力を奪取していった男なのだということだ。そしてこの20年間もの期間、フセインは独裁政治の中で君臨しているのだ。 たぶんフセイン独裁政権のバース党は崩壊し、それまでフセインに抑圧、弾圧されてきたクルド人を始め反政府勢力は決起し復讐するに違いない。もちろん国内は荒れ放題になるだろうことは間違いないように予想できた。 我々の現在の状況は、フセイン政府の保護を受けながらイラクに入ろうとしているのだ。言うなればフセインの招待客なのだ。とするならばもし、フセイン体制が崩壊すれば一体誰がフセインの手先と思われている我々を守ってくれるのだろうか?
まして我々が日本を発つ前の日外務省はイラクへの渡航禁止勧告を出している。そうなると日本政府の救助もあまり期待できないかもしれない。まして日本全権イラク大使は臆病にもバクダッドからとっくにアンマンに避難している情けない野郎だ。となると、我々はまた陸路1,000キロを通
り抜け、国外に脱出するしか方法はないのではないだろうか? そんな状況下の中、“我々全員が安全に日本に帰ることが可能なのか?”という言いようもない不安に陥ってしまったのだ。 ◆なぜ日本人はこれほどまでに無関心なのか
1月中旬のある日、「平野さん、イラクに行かないか?」と新右翼一水会代表・木村三浩さんから言われたときに私は軽い気持ちで「あ、まぁ、うん、いいよ、イラクには前から行ってみたかったんだ。古代遺跡のバビロンやチグリス・ユーフラテス川も見たいし、12年前の湾岸戦争の傷跡も見たいしな」と不用意に答えてしまった。確かに世界の強国アメリカに脅されている現在のイラク情勢は相当やばい所に来ているのはわかっていたが、まさか本当にアメリカがこの時期に戦争を本気でやろうとするとは全く予想もしていなかった訳だった。 しかしさりとて私の意識は「フセイン独裁政権を支える気持ちは毛頭ない」が、北朝鮮も3年前に行ってその現実をしっかりこの目で見てきたし(このときは北朝鮮の自由市場をカメラに収めて、愛国おばさんに捕まり、2日間ホテルに軟禁されたのだったが)、アメリカが声高く唱える“悪の枢軸”のもう一方の国イラクを是非とも自分の目で見て、ちゃんと自分なりの判断を下してみたかったのだ。そして私の最終的なイラク行きを決意させたのは、2003年1月18日の国際的な“反戦デモ”の日であった。 この日世界中の国民がアメリカのイラク攻撃計画に反対して全世界で反戦デモをしていた。アメリカ合衆国では50万以上の人々が「戦争反対」を叫び、ヨーロッパやオセアニア、アジア各国でも数万人の戦争反対のデモが繰り広げられていた。 しかし、その中でも最悪な日本はすでにアメリカの要請によりイージス艦や給油艦をペルシャ湾に派遣し、沖縄からは毎日戦闘機が飛び立ち、実質アメリカの戦争準備計画に参加しているこの時の東京での反戦デモは5,000人をちょっと上回る程度の参加者しかいなかったのに私は愕然としていた。 「戦争に反対すること、今アメリカが押し進めようとしている愚かな戦争行為を止めよう!」という、こんな誰でも賛同できる意志表示になぜ日本の人々は無関心でいられるのだろうか? ましてこの意思表示の主催者は既成の政党や労働組合でもない。この主催者たちはデモなんかほとんどやったことのない若い青年たちなのに? 一体なぜなんだろう。北朝鮮パッシングには熱心なマスコミもこの若者たちの意思表示はあまり熱心に取り上げようともしないのはなぜなんだろう……といった疑問はいろいろ膨らんでいったのだ。
私の意識は、義勇軍やゲリラとしてイラクに行くのではなくて、あくまでもアメリカにこの戦争をやめさせる為には「自分は一体何ができるのか?」と考えたとき、現場のイラクに行って何かできることを探してみるのが一番いい方法と思え、そう心に決めたのだった。 当然のように、この行為計画は何にもしないよりいいに決まっているはずだと思った。日本でのただだらだらとしたまるっきり緊張感のない反戦デモに参加するより意義もあるし、おもしろいに決まっていると思った。確かにフセインは好きではないけれど、戦争で一番被害を受けるイラクの民衆のために、まだ見知らぬ イラクの友人のためにとにかくイラクに行って、そこで自分には何ができるのかちゃんと考えてみようと思っただけのことなのだ。 世界の主要都市では「戦争反対」の何万人にも及ぶデモが繰り広げられているのに、日本では1,000人レベルの人しかデモに参加しないのがとても残念でたまらないと思った。この情けない風潮は20数年前の全共闘の反体制運動の敗北を契機に、特に若い連中を中心に“政治や社会問題”にちゃんと向き合い、討論し、発言することがダサイことだという論理が主流となってきたことによるのだが、このニヒリズムが日本では20数年間続いたことにより、より悪くなってしまった現在があって、現実の日本がもう救えないほどの状態になっているのではないかと思うのだ。これはその昔、日本があの無謀な戦争に突入していったときと同じような気がするのだ。いざ戦争に巻き込まれてからでは本当に遅いということを、我々は過去の日本の歴史からちゃんと学ぶべきであると思うのだが……。 ◆誰もが避けて通れない戦争と平和をめぐる問題
戦争と平和をめぐる問題は、誰もが避けて通れない問題だと思う。 2月19日イラク、バクダッド、パレスチナ・ホテルにて 【その2】
昨日は一日中ホテルで寝ていたが、午後2時頃ふっと外を見ると、ほとんど周りが見えないくらい真っ暗ではないか? ◆ひしひしと感じた暗黒独裁の傷跡
では、街の民衆はこの“反戦デモ”に大挙して参加し、応援するかと言ったらまるでそんなこともなく、最後までデモの人数は増えず、全く寂しいデモになってしまった。 2日目のキャンドル・デモが天候不順の為中止になったのも、あまりにも参加者が少ない為なのだろうとの声が聞こえた。 会議の中で一番の大量動員したのはイラクの次に日本人の集団(たぶん100人ぐらい)だったろう。ヨーロッパの反戦活動家もそれなりにいたが、アラブ各国の集団にはほとんど会えなかったのはどういう訳なのだろうか? では一般のイラク人はどうかと言うと、この『反戦会議』に対してはほとんど無視か、白けているとしか思えなかった。 ただ、この国にも「強制収容所」はあるし、もっと酷いことにフセイン親族が個別 の、いわゆるプライベートの「強制収容所」をたくさん持っているということを聞き、やっぱりな〜と思った。 一体俺はこの国に何しに来たんだろう…って思いながらいろいろ取材するのだが、この国を探れば探るほど、20年も続いた暗黒独裁の傷跡がひしひしと感じられた。 ◆戦争を前にしての悲壮感も高揚感も見受けられず それに酒なしは辛いし、女も数えるほどしかいないのには参ったが、木村バース党員が貴賓席にいて我々を見張っていて、なかなか会場から逃げ出す訳にはいかなかった。 我々が最初にバグダッドに着いたときは一切の個人自由行動には公安が付いて来たが、だんだん外国人が増えるに従って公安もルーズになって、何とか街に一人でも出られるようになった。 街の表情は“本当にこれから戦争が始まる国なのか?”というばかりに白けていて、どこにでもある戦争前の民衆の高揚感など全く感じられない雰囲気にややとまどいもしたが、そこはアラブ社会の特異性か街を歩けば「ハロー、ミスター」という声が至るところから掛かる。 「おい、おい、戦争はどうなっているんだ!?」っていうこらい人々は、これから始まる戦争に、あるいはサダムの唱える“反米”に同調していない風に見受けられる。 新聞を見ても(アラブ語で写真しかわからないが)各国で行われている“反戦デモ”の写 真ばかりで、イラク国民はその他の情報を与えられず安心しているのだろうか? 戦争を前にしての悲壮感も高揚感も見かけられない。私もとても「サダム万歳!」とは言えず、では街の人たちはサダムを信頼しているのかと言えば、とてもそうは思えないのだ。 イラクからの報告はこれが最後になりそうですが、なにぶんネットがなかなか繋がらないので読み返さないでの報告になり申し訳ない。 明日は朝5時出発で、17時間のアンマンまでのバスの旅になる。 バグダッドにて |
トップページに戻る |