おじさんの眼 第71回
ロフト・トリビアの泉〜
さてあなたは“へぇ〜”を何回言えるかな?

 なんとも“還暦”まであと半年になって、例年より2週間以上早い春一番の強風と窓から燦々と差し込む淡い太陽を肌に感じながら、走馬灯のように幻が浮かんでは消える過去の色々な出来事を懐かしむ時間が多くなった。
 本誌2月号のBOφWY対談『伝説を目撃した男たち』でBOφWY育ての親の土屋さん(ユイミュージック取締役/アースルーフファクトリー代表)とロフト社長の小林さんとの対談記事を読んでいて、確かにレッチリやビョ―クを知らなくても「この俺も長年ロフト(ロック?)に関わってきていろいろな伝説を目撃してきたよな〜」とどこかで自慢したくなった(汗)。今年になって購入した新型の宇宙ステーション型パソコン(MAC OSX10.2)から流れてくる雑多な音楽を聴きながら、「俺だってお宝秘話はたくさんあるぞ〜」って年甲斐もなく主張したくなって、ロック(?)業界からほとんど忘れ去られている自分を鑑みるにつけ、もうず〜っと昔の話だけれどロフトで起こった数々の名シーンのことをちょっとだけ書きたくなってきた。
 なにぶんロフトもまだ音楽商売をやっている関係もあり、そうは秘密の“裏話”を書くことができない(たとえば誰と誰がやったとかのシモネタ・笑)のが残念だが、みんなから愛されるじじいの立場を堅持しつつ、鼻つまみ者にならない程度に書いてみようと思った。

極不良バンド、BOφWYは最後の私の音楽仕事だった?
 かの有名なBOφWYがその名を〈暴威〉と名乗っていたのはみんなもご承知の通 りで、1981年の初頭、あのビーイングの長戸大幸氏から「この凄い不良バンドをなんとかできるのはロフトさんしかない」という要請を受けて、わたしゃ彼らのデビューから引き受けることになった。その頃の新宿ロフトは、名実ともに新宿ロフトの看板である“石橋 凌のARB”“大江慎也のルースターズ”“仲野 茂のアナーキー”“陣内孝則のロッカーズ”といったいわゆるニュー・ウェイブの時代があって、イギリスのパンク・ムーブメントに触発されるかのように日本でもパンクより最先端でより過激な刺激的な時代にシフトする転換期でもあったような気がする。
 その年の8月には、全国からパンク・バンドが総結集した日本のロックの歴史を変えるような凄いパンク・ムーブメント『FLIGHT 7DAYS〜インディペンデント レコードレーベル・フェスティバル』が新宿ロフトで開催された年でもあった。まぁ、この頃の新宿ロフトのブッキングは私がやっていたこともあり、そのラインナップは私のテーマであった“雑多な運動者と雑多な表現者の塊”という訳で、ポリシーなんかまるでなく、ただ私好みの音楽家たちをブッキングしていたに過ぎなかった。
 '81年5月のBOφWY初ワンマンの時の新宿ロフトのスケジュール(『ROCK is LOFT』ロフトブックス刊)を見ると、宇崎竜童や白竜さんあり、憂歌団、森田童子、フールズ(これも凄い不良バンドだった)の2デイズ…等々、まさにめちゃめちゃ雑多なのだ。
 このBOφWYの初ワンマン(お客は20人程度だったと思う)までいろいろあって、当時こんな不良バンドはまるっきりレコード会社から相手にもされなかった訳だが、私としてはいわゆる無名バンドが突然ワンマン・デビューというのも困るので、「一度だけロフトの新人デーに出演してほしい」と要請をして新人デーにBOφWYを突っ込んだはいいが、その日に一悶着が起こった。
 当日はリハーサル時間が押していて、氷室京介氏が当時の新宿ロフト店長・長沢幹夫氏(現在、下北ロフト社長)に向かって「おっせーな、どうなっているんだ! くそ〜」ってテーブルを叩いて怒鳴っていて(他の新人バンドはビックリしていたという)、長沢氏が「もうちょっと待って下さい」と言ったところ、「なんだてめい(群馬訛り・笑)は…」と喧嘩になってしまった。たぶん氷室氏は長沢氏がロフト店長だったとは知らなかったのだろうけど、無名の新人バンドのボーカルが新宿ロフトの店長に喧嘩を売るという前代未聞の事態になった。私もこの不良バンドを責任を持ってフォローするというビーイングとの約束もあり、本当に困った経験があるのだ。
 まぁ、このバンドはもうメチャメチャで、私も何回か付き合った“大手レコード会社へのプレゼンテーション”にはメンバー全員が1時間以上遅刻したりして、結局はどこのレコード会社もアルバム・リリースには二の足を踏んでしまい、とにかくビーイングも手を焼いていたバンドだった。やっと出せたファースト・アルバムもレコード会社はまるっきり乗らず、わずか半年あまりでビーイングはこのバンドから手を引くことになった。
 だが、ド新人から出発したBOφWYはそれでもロフトのギグでは徐々にその動員を伸ばしていった。私はその頃、氷室のボーカルもまことのドラムももちろん好きであったが、やはり圧巻だったのはただ背が高いだけかと思っていた布袋寅泰のギターの華麗さというかエフェクターの飛ばし方にぶっ飛んでしまっていた。客はほとんど入らない、プロダクションは手を引くという何の展望のないこのバンドに、“布袋のギターを楽しむ”という点で結構はまっていた時期もあったのだ。それ以降は土屋氏がBOφWYの面 倒を見るようになって毎月着実に動員は伸びていき、私にとっても新しいロフトの流れを作るための将来を期待できるバンドの一つであった訳だ。
 しかし、その後私はニューヨーク・ニューヨーク/イメージダウンの余韻を引きずりながら、ライブハウス経営にも限界を感じて…いや、そんなかっこいいもんじゃなくて、仕事するのがただ面 倒くさくなって無期限放浪の世界制覇の旅(約10年間)に出てしまい、BOφWYの大ブレイクを全く知ることなく孤独な旅をし続けていた。もちろんARBの解散も狂熱のバンド・ブームすら知ることなしにいた。

大酒飲みのトップは高田 渡だ!
 真っ白なパソコンマック、好きだな…。小さな球形のスピーカーから高田 渡の「自衛隊に入ろう」が流れてくる。「おっ、反戦フォークだ!」 …あれからもう何年になるのだろうか? 1973年、まだライブハウスなんて言葉すらない時代、東京でロックやフォークの常打ち小屋が全くない時代に西荻窪に初めてライブのできる店を作った(ロフト2号店=西荻窪ロフト)。この時代は70年代初頭の史上最大の野外イベント『全日本フォークジャンボリー』(通 称・中津川フォークジャンボリー)と70年安保闘争や学園闘争等の余韻がず〜っと引きずられていて、いわゆる“政治の季節”の延長の時代であった。また、若者は旧世代の価値観を否定し、寺山修司の「書を捨て街に出よう」といった行動派ラジカリズム(急進的)に、いわゆるプロテスト・フォーク(反体制?)に酔いしれていた時代でもあった。
 その西荻窪ロフトで、オープンしてすぐにフォーク界の大御所・高田 渡のライブをやった。彼は大の酒好きだから、もちろん酒を飲みながら歌う。当時、メジャーな陽水や拓郎は別 として、日本のフォーク界は岡林信康や高石友也、友部正人と並んでこの高田 渡のライブに満員の客が詰めかけた。その頃の西荻ロフトには控え室もなく、音響はアップライトのピアノとコンデンサー・マイク2本のみ、照明は裸電球に銀紙をくるむだけというものだったが、そんなことに文句を言う表現者は誰一人いなかった。ただライブをやれる空間があるだけでみんな嬉しかったのだ。
 ライブが始まった。渡が満員の観客の前でギターを“じゃら〜ん”と鳴らし、静まりかえった観客は渡の次のフレーズを真剣に待っている。…だが、いつまで経っても次のステップがないのだ。時間は3分、5分と経つが、音は一向に鳴らないし顔を上げる素振りもない。満員の客がザワツキはじめた。当時音響を自ら担当していた私は、満員の客に「ちょっと様子を見に行った方がいいですよ」と促されてステージに乗って渡を見たら、奴はギターを抱えたまますやすやと寝ているではないか? 仕方なく私は「どうしたの? 寝ちゃ〜ダメだよ!」って渡の背中をぽ〜んと叩いた。その瞬間、渡は前のめりになってゲボ〜っと汚物をステージ一面 に吐き出し、その汚物にまみれた床に崩れ落ちた。そしてヘロヘロになりながらまた寝てしまった。今の時代だったらそんなこと許されないことだが、そのライブはそのまま中止になってしまった。
 しかし、やはりフォークの元祖だけあって、お客の誰もが文句も言わず、聞こえてくるのは「高田さんの体が心配です」というなんとも温かいメッセージがほとんどで、店側ではチャージ(300円)を返却したが、でも誰も「お金返せ!」と言わなかったのだ。

サザンオールスターズは下北沢ロフトの店員バンドだった
 無名の頃のサザンオールスターズの“根城”は、荻窪ロフトに次いで1975年に誕生した下北沢ロフトだった。私の自意識としては、「もし下北ロフトがなかったら、サザンは今の地位 に、いやバンド自体がなかっただろう」と今も思っている。ギターのター坊やパーカッションの毛ガニ(その後結婚した彼の奥さんもロフトで知り合った人だ)はロフトの正規のアルバイトだったし、時折あの桑田佳祐さんが客にコーヒーやビールを配ったりしていたのだ。
 だが痛恨の一番の問題は、私たちスタッフの誰もがこれほどまでにサザンがブレイクすると思わなかったことだ(サザンを発掘した当時ビクターの高垣氏[現スピードスターレコード常務取締役]とその熱意に乗ったアミューズ会長の大里氏を除いて…)。しかしその頃の私の店の経営方針は、どんなに客が入らなくともヘタクソでも、店員バンドに月一回は必ずステージを保証していた。また店員バンドには夜中に店が終わってから店で無料の練習をさせてやるといった約束をし、その代わりに若き音楽家たちを安いバイト代でこき使うというあこぎなことをやっていた訳だ。
 まぁとにかく、サザンの下北ライブは本当に客が入らなかった。もし客がどんどん入るようだったら、私たちもこのバンドに注目したに違いないのだが…。当時まだ新宿ロフトが出来る前だったロフトは、ライブハウスの覇権を「渋谷屋根裏」と争っていた。私は当時、サザンの連中を一度だけどやしつけたことがあった。なんと、サザンのスケジュールが渋谷屋根裏の昼間のバンドとして毎月アップされているではないか? 私は連中に「無節操なことはやめろ! 渋谷屋根裏では昼間やってロフトでは夜というのは、ロフトのプライドが許さない!」と怒ったのだ。

いつもカウンターの隅で泥酔していた世界の坂本龍一
 またまたメジャーな話ばかりで申し訳ないが、やはり私にとって忘れられないのは坂本龍一だ。“世界のサカモト”になってしまった今でこそ全く交流はないが(世の中こんなもんだよ)、その昔、私が脱サラして初めて出した烏山ロフト(1971年オープン、京王線千歳烏山にて7坪のジャズスナック)の大常連の一人だった。
 当時坂本龍一は芸大の大学院の学生で、全共闘運動の傍ら銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で空しく(?)ピアノを弾いていた。烏山ロフトはレコード枚数も少なくなんとも悲惨な店だったが、すぐ近くに桐朋音楽大学があってそこの女子学生がたくさん来ていて、坂本にも居心地は良かったに違いない。その小さな店には最後の全共闘の二木啓孝さん(日刊ゲンダイ)や、かの気鋭ジャーナリストの若き生江有二氏もいて、毎晩のようにつるんでぐだぐだと酒を飲んでいた。
 坂本は毎晩夜遅くに現れては、桐朋音大生のレポートや作曲なんかをサントリー白のボトル一本と引き換えに酒を飲みながらスラスラと書いていて、それを当てにする女子音大生が列を作る有り様で、いいとこのお嬢さんの桐朋音大生の人気の的だった。

 ふむ、ここまで書いていて、オリンピック開会式の前奏をやった坂本龍一や布袋寅泰、国民的バンドのサザンが出てきてなんとも気持ち悪いくらい、なんか自慢話に聞こえてしまうのが若干不安だが、なんとかお許し願いたい。

ロフトプラスワン席亭 平野 悠


追記:BOφWYのことを書いちゃった記念として(笑)、BOφWY×ロフトのコラボレートTシャツを抽選で3名の方にプレゼントします。このコラムに対する忌憚のないご意見・ご感想を添えて、下記の宛先までご送付下さい。〆切は3月31日(水)当日消印有効です。 発表は発送をもってかえさせていただきます。
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