<エピローグ>
 あの世界の歴史を一瞬にして変えたと言われるニューヨーク・ツインタワーの崩壊に象徴される9.11以降、世界は日本も含めて実にきな臭い状態になった。
 過去世界中を歩いてきた元祖バックパカーの私としては、どうもあのブッシュ大統領や小泉首相の言う「悪の枢軸テロ国家…イラク、イラン、北朝鮮」という国が気になって仕方がなかった。
“悪の枢軸”である北朝鮮は3年前、元赤軍派の塩見孝也氏と「よど号」の小西さんの招待で行ってきたし、昨年2月はアメリカの先制攻撃直前のバグダッド(一水会・木村三浩さんの呼びかけたバグダッドで開かれた国際反戦会議)にも行って「人間の盾」になり損ねてきたし、9.11直後のニューヨークにも行って、ニューヨークの崩壊したツインタワーの現場に立って、アメリカのそれは巨大な“悲しみと怒り”を自己の存在自身で実感してみた。
 そして昨年5月、私は四国歩きお遍路88か所(1,220キロ、私の足で48日間かかった)のお寺を行き来し(同行2人=弘法大師空海さんと一緒という意味)、愚直にただひたすらお遍路道を歩くという行為の中で“人間の生と死”について色々と考えてきたつもりだった(かっこいい〜!・笑)  さて、私にとって残るは最後、“悪の枢軸国家=イラン”に行って悠久なるペルシャをこの目で確かめてくるしかないと必然的に思った。これは自分にとって「意地と最後まで己が持ち続けたい好奇心の問題」なのだと思った。
 このイスラム原理主義の国シーア派の本拠、世界石油資本が狙うホメイニ革命後のイラン(人口6,500万、面 積は日本の4、5倍、石油埋蔵量は世界4位、天然ガスは世界2位)の状況を見ないと、若干だけどフラストレーションが溜まって、何かやり残したことっていう感じで気になって仕方がなかった。そして今年私も60歳の還暦を迎える年になってしまった。大胆に動けるのもう“今”しかないとどこかしらからの声が聞こえた。だから断固挑戦することに決めた。
 季節の変わり目には必ず体の調子が悪いのを知りつつ、初めはリビアのカダフィー大佐(政権委譲を自分の子供にさせるためアメリカに屈服した)のそばに行ってからイランに入り、それから体調と相談してボーダー(イラン、イラク国境)が開いていればトライするつもりだった。しかしとにかく私の体調は万全でなく、テヘラン(イランの首都)に飛んでから体調が許す可能な限り行動しようと思った。

夜のバムの町。電気は結構通っていた。

<出発──イラン・イスラム共和国という国>
 3月1日。春の小雪の降りしきる中、私はロフトシネマの宮城カメラマン(27歳、巨漢、いびき凄し、外国旅行経験は修学旅行でしか行ったことがない)という旅の初心者を連れてゆく羽目になってしまったが、とにかく一応2週間の予定で成田を飛び立った。
 私が初めて訪れたこの歴史あるペルシャの国は、多くのアラブの国と同じイスラム(シーア派)の国だが、「アラブ人系ではなくドイツ、アーリァ系の白人国家だ」と胸を張って彼らが言うのにはビックリした。だから、パレスチナ問題やイスラエルの脅威に多くの市民があまり興味を示さないのは何かとても印象的だった。ただ、多くの市民が「今度はアメリカやイギリスがこの国の油を取りに攻めて来る」と思っていて、誰もがアメリカ文化に憧れながらアメリカが嫌いだった。しかしイラン人の日本人に対する好意はもの凄く、「日本人は平気で出稼ぎで日本にやって来るイラン人を差別 している!」という私の観念は見事に違っていて、日本人である私(ほとんど日本人には見られなかったが・笑)はなぜか誇り高かった。
 だが私みたいな俗な者はやはり厳格なイスラムの国をどうしても好きになれない。特に原理主義の国は宗教的規則が厳しく、緑なし(砂漠ばかり)、酒なし、女なし(風俗なんかない。でもイランの女性は実に綺麗だ)、クラブやライブハウス(生の音楽が聞こえる所が少ない?)、ギャンブルまでなく、町を歩く女性の肌で見えるのは顔だけだし、髪の毛すら見ることができないのだ。では市民は夜なんか何をしているのかと言うと、多分子作りか水たばこを吸うかで、大きなソフトクリームを頬張っているいい成人の男の姿は、滑稽を通 り過ぎて何か悲しくなってくるのだ。食べ物の違いも含めて「うわ〜この国に生まれないで良かった!」って思ってしまうのは文化の違いも然ることながら、やはり私は傲慢でえらそ〜なのだろうか?  この国の宗教(イスラム原理主義)や庶民の暮らし、政治的環境や種々のインタビューなんかは次回以降に書くつもりだが、総論的に言えば、私が訪れた「悪の枢軸3か国」はまさにどの国も例外なく“独裁”と“秘密警察国家”であり、市民は秘密警察と密告に脅えた生活を強いられていることは間違いないと思えた。
 このシリーズの「イラン・バックパッカーの旅」の第1回は、昨年末起こったイラン・バム地方の大地震の驚異の事実からレポートしようかと思う。

この老人が宿の主人。この2つのテントが宿の全て。

<衝撃の大地震のバムの町から の報告>
 ブルーの摩訶不思議な幾何学模様の大寺院、サファビー王朝(世界遺産)のあるエスファハーンから南北約600メートルの城壁の町(シルクロードの要塞アルゲバム)に朝早くバスで着いた。バスがバムの停留所に着いた途端、若干の余震があってちょっと慌てた。エスタファーンからバスで13時間、その行程はほとんどが砂漠(砂漠と言っても日本人が想像する綺麗な砂丘なんか一つもなく、ただの瓦礫の荒野であった)で、バムに着いてタクシーに乗ってゲストハウスに向かう車中で初めて、この町を襲った大地震(2003年12月26日、M6.3、人口24万人の内12万人が被災し、3分の1の人が死んだ)の被害の凄さを実感した。
 イラクやアフガン戦争の陰に隠れて、世界から忘れ去られてしまっている感のあるこの古代遺跡の町、まして今この国はアメリカのもの凄い圧力と戦っている中、私たちは幸運にも生き残った人々の生活を垣間見た。
 それは見事に、何とも形容しがたくいわゆる廃墟マニアが喜ぶくらい、この町は瓦礫の山でしかなくなってしまっている。鉄筋が入っていないレンガを積み上げただけの建物は、無惨にもほとんどその元の形すら残っていなかった。多分流言だとは思うが、「この町は2,500年もの間地震がなかった。なぜ起こったのか? それはイラン政府がこの近くで地下核実験をやったから、地殻が動いて地震が起こったのだ」と住民がたどたどしい英語でこっそり説明してくれた。確かにバムの遺跡は2,500年間ちゃんとこの町に崩壊もせずあったし、2,500年間もの間この町には地震というものがなかったのだと言うところからこの流言流布にはどこか説得力があった。
 この町の状態はまだほとんど手がつけられないでいるといった感じに見受けられた。それはまるで東京大空襲のように、廃墟の瓦礫の山に立つと遠くが見渡せた。金持ちは他の町に逃げ、貧乏人とこの町を愛する人たちだけが、瓦礫の山を避けて道路上にテントを張って住み、赤十字や外国からの援助だけの生活をしている。
 日本で起こったあの阪神淡路大震災、あるいはニューヨーク・ツインタワー崩壊後の、被災者に対しての大規模援助風景(日本では何万人ものボランティアややくざ組織まで援助に動いた)は見られず、私たちがテレビ等で見たイラン復興の精力的な援助の光景とは違っていて、その援助体制はほとんど見ることができず、住民はもう2か月以上経つというのにそのショックから回復できず、うつろに埃だらけの何もかもなくなった瓦礫の山を見て立ち尽くす毎日なのだ。
 我々が宿泊したゲストハウス「アクバルゲストハウス」の部屋はテントの中だった。このゲストハウスの主人は(妹2人を亡くした)いつも涙を一杯に溜め、私たちを「ようこそ、バムに!」と言って笑顔で迎えてはくれたが、その姿が月光に照らし出されて佇んでいて、その孤独な表情は私をさらに悲しくさせた。
 昼は暑く夜は零下になる砂漠特有の気候の中で、夜は寝るまで外にいるしかなかった。「20ものベットがあったゲストハウスだったのに…」と主人がポツリと言った。「このテントはこのゲストハウスを愛してくれたヨーロッパの有志が送ってくれたんだよ」と主人は嬉しそうに言った。 「私はこの町を愛している。元の町に戻るにはあと17〜8年かかるだろう、それまで生きていられるかどうか?」と64歳の老人は言い、「イラン政府は何をしているんだ!」と私が言ったところ、「政府もいろいろ忙しいんだろう」と悲しそうに言った。

イランの女学生。こうして近くで撮らせくれるのは珍しい。

<襲撃……次の日さらにショックは私を襲った>
 私たちががら〜んとした瓦礫の大通りを歩いていると、突然難民の子供たちに襲われた。一緒にいた宮城カメラマンは取り囲まれて財布をスラレそうになり、その子供たち(何人かの青年もいた)に石を投げられ、その礫は私の右足の腿付近を直撃した。通 りかかった自動車の運転手が「早く俺の車に乗れ! 逃げろ!」と言って助けてくれようとしたが、私はそれを断って痛い足を引きずりながらただ頑張って正面 を向いて歩いた。自分が情けなかった。
 恐怖はなかった。「なにくそ、俺は過去世界の隅々まで回ってきたパッカ―で、どんな困難なことでも乗り切ってきたのだ!」という自負がそうさせたのかもしれない。その足の痛さは、観光気分でこの町を訪れ、遠慮容赦なく写 真を向けビデオを撮っている私に対しての、報いなのだと思った。 「ヘイ!ミスター、ハロー金をくれ」の無遠慮な言い草に腹が立った私は、しっつこく付きまとう子供たちを無視した。最後には情けないことに日本語で「うるさい! チョロ!」と言ってしまった暴言の挙句の結果なのだ。
 何もできずにいる私はこの町にいるのが辛かった。真っ青な青い空とホコリの形だけの町の中で、せめてこの町にお金を落とすぐらいしか協力のしようがないのだと思った。
 帰りにゲストハウスの主人に「いくらですか?」と泊まり代と食事代を訊いた。 「アップ・ツウ・ユウ」(あなたに任せるよ)と主人は言い、また私は恥ずかしくなった。
 私たちは逃げるようにバムの町を後にし、バスで13時間かけてシーラーズ(世界遺産のある町)に行き、そこから17時間かけて喧噪の排気ガスの町・テヘランに舞い戻ってきた(ある聖職者とのインタビューの約束があった)。  バムの町を離れる時、バスの中で英語の解るボランティアの女性を介してあるおばあさんが「あの大地震の時、日本の援助隊の人に大変お世話になった。ありがとうと伝えてくれ」と言い、向日葵(ひまわり)の種をくれた。

ロフトプラスワン席亭 平野 悠
●おじさんHPはこちら www.loft-prj.co.jp/OJISAN/


イランの人は皆、人懐っこくって優しくって驚いた
LOFT CINEMA ミヤギツヨシ

ブッシュに悪の枢軸って言われた国だ。
今回、イランへ行くことが決まった時、 「ブッシュに悪の枢軸って言われた国だ。イラクの隣の。10年くらい前、上野に沢山いたよなー、偽造テレカ売ってる不良イラン人。当時はポケベル全盛だったから、彼氏彼女いる奴はみんな買ってたな。10枚だか20枚だか30枚だかで1000円くらいだったよなー。もしかしたらあの人たちに会えるか? 会えたら当時の裏話きかせてもらいたいな。」という程度のことを最初に考えた。
 で、ネットで調べてみたら、ガチガチのイスラム原理主義国だとある。旅行ガイド書にも、ガチガチのイスラム原理主義国だとある。 「あー、それが嫌であの不良たちは日本に来ていたのか?  で、結局イランに戻ったのか? あ、でもまだ渋谷とかには居るか。まぁでも多分そんなんじゃ日本に嫌な思い出しかなさそうだから、街歩いてる日本人らしき野郎に声をかけるなんてことはしないかもなー。」とか考えていた。
 で、世界遺産の遺跡が有ってその他にもいろんな遺跡が有るとか、世界遺産のモスクも有って他にもどこそこに有名なモスクが有ってとかそんなことは、特に何も調べなかった。観光より異文化交流や体験をしたほうが楽しそうだと思ったので。だいたいそんな感じで出発した。

祭りで歌っていた男衆 テント
はしゃぐ警察官 燃えるテント祭りのやまば
サッカー場で会った子供 水タバコを吸っている女性

首都テヘランに着いた翌日
首都テヘランに着いた翌日、街に出てみると店は全て閉じていて人はほとんど歩いていない。なんか変な雰囲気。てくてく歩いて行くうちに、どうやら今日は何かのお祭らしい(1)、とわかってきた。  さらに道を歩いて行くと、市場近くの交差点に人が集まり、その中心にテントが建っている。これからそこで何かが始まるのだろう、ということはわかった。

テント周りの人混みの中(2)待っていると、老いも若きも揃いも揃って周りの人たちがいろいろ話しかけてくる。ほとんどはペルシャ語なのでわからない。でも中には英語で話しかけてくる人がいたので、昨日の夜に日本から来たばかりだ等、話したりする。
 「ほら、ちょっと、ここだと良く見えるよ。」 と、わざわざ自分の前に隙間を作りそこへぼくを招き入れてくれる人がいたりして、なんだかみんな、とても人懐っこくて物凄く親切だ。
 そんなこんなで待っていると、
 「日本人ですか?」
と、日本語で話しかけてくる人がいる。10年前に1年間だけ日本で暮らしていたという人だった。
 で、さらに何かが始まるのを待つ。  だんだんと皆が興奮してくるのがわかる。とても良い臭い(多分薔薇)のする水を皆に降りかけて回る人や、掛け声を上げる人、それに合わせて声を上げる周りの人々、人混みを割って歩いて行く民族衣装のような物を着ている人、興奮する人たちを落ち着かせようとする警察官。イランのことをろくに調べもせず来たため、何が何だかさっぱりわからず、ただただ、人々が興奮していく中に居続ける。そのうち警察官もはしゃぎ始める(3)。

 どんどん盛り上がってくる。
 日本語話すおじさんは、 「イランの人、良い人もいるし悪い人もいる。十人十色だから気を付けて。」と言ってくれ、ぼくをしっかり守ってくれている。

 で、突然テントが燃やされて、祭終了(4)。
 「あー、終わった終わった」 って空気に成って、散っていった。日本語話すおじさんは、ぼくをホテルまでバイクで送ってくれた。

イランの都市をいくつか回った
イランの都市をいくつか回ったが、どこの人たちも非常に人懐っこく、そして親切だった。やたらと感じが良かった。街を歩くと、皆が笑顔で「やあやあ」と声をかけてくる(5)。地震で壊滅したままのバムであってもそうだった。東京ではちょっと考えられないことだが、老若男女皆とりあえず「何だか外国人が歩いているから声をかけてみよう」ってな感じでどんどん声をかけてくる。で、英語が話せる人は英語で、日本語が話せる人は日本語で、気軽に会話してくれる。これは人見知りをするぼくにとっては、とても楽しくとても嬉しいことだった。  この経験から、日本に帰り道端で困っている外国人をみかけたら先ずは話しかけよう、と考えるようになった。

ガチガチのイスラム原理主義の国という印象は……
で、ガチガチのイスラム原理主義の国という印象は受けなかった。女性は髪の毛を見せないようにしている、というくらいで、それすらもテヘランではけっこう適当だった。コーランもあまり聞かなかったし、定時にお祈りしている人もほんの少ししか見なかった。街中で手をつないで歩くカップルは日本と同じ様にいるし、ポケモンやディズニー等のキャラクターグッズも普通 に売っている。ケルマーンという街で10数時間シーラーズ行きのバス待ちをしている最中、英語で話しかけてきたぼくと同い年の人は、  「シーラーズの女性は、イランで最も美しい。どうだ日本人、シーラーズに愛人作らないか? 紹介するぞ。どうだ、欲しくないか? シーラーズの女性は本当に綺麗だぞ。どうする?」(6) と冗談交じりに薦めてきた。あぁ、それは良いかも、とは考えたけれども、仮にその話が進んでいったらちょっと面 倒臭いことに成るかもしれないからよしておこう、とも考え、断った。  多分この国は今少しずつ俗っぽく成ってきているんだろうな、という感じがした。

実際に行かなければ想像すらしなかった
今回の旅は、初ペルシャ語圏、初イスラム教圏、初安宿、初異文化家庭訪問、初被災地、初偽警察官等々、初めての事尽くしで、非常に良い経験と勉強に成った。あぁ、やっぱり百聞は一見に如かずだ、とつくづく思った。  イランの人たちが、こんなにも親切だってこと(*)は、実際に行かなければ想像すらしなかったろうし、あぁ、コミュニケーションさえ取れれば、人間何処であっても生きていけるものかもしれない、との考えを持つに至った。 そして今回、仕事という名目は一応付いていたにしても、2週間もの間会社を空け、上司同僚そして関係各所の方々には少なからぬ 迷惑をかけたに違いないのですが、おかげさまでとても良い経験ができました。すいません、これからこの経験を糧にして仕事していきますので許してください。

* 帰りの飛行機で一緒になった人から聞いた話では、男女差がけっこう有るらしい。女子だと男子以上に物凄く親切にされることが有る反面 、痴漢等の性的嫌がらせに遭うことも有るとのこと。

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