野垂れ死にの思想……
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▲新宿西口ロフト跡地にはにょきにょきとお洒落な高層ビルが。なんか可愛くない建物だな。 |
この夏、61歳にして私は重大な決心をし、一人暮らしを始めた。全てを投げ捨てたい衝動に駆られたのだ。この年にして果たして私は本当に「決起=家出」が出来るのだろうか? という好奇心もあった。「もういつ何時おっ死んでも全く不思議でない年になったことをどういう形で自分なりに受け止めるのか?」と思考・模索し続けていた。私は、自分に近い将来必ずやってくる自己の「死に様」をイメージしてみた。俯瞰で世間様を眺めると、昔からの家族制度や共同体が崩壊してしまった現実がそこにあった。なんかみんなバラバラなのだ。下の世話や痴呆状態になってまで家族に面倒見て貰って畳の上で死ぬのは断固拒否したい。「葬式無用・戒名無用・散骨」はあの白洲次郎の有名な遺言だ。長らくのテーマであった「野垂れ死ぬ」にはどうしたらいいのか? 私はそれが「野垂れ死に」になるかどうかわからないが、「養老院での静かな死」と最悪の場合の「ホスピス」治療をまず考えてみた。それで、この「死に様」が一番の落としどころなのかと思うに至った。
そして最後はやはり「どうするロフト……」なのだ。「売るか? 廃業か? 続けるか?」という三択になり、いろいろな葛藤があったが、「ロフトは続ける」ということになった。そうすると私は何らかの形でこの会社に私の理想とかロマンとか、私の精神的な「遺伝子」をほんの少しでもいいから残したいと思うようになった。
私はこの10年あまり、会社の会議は一切出たことがなかった。ただひたすら「興味」があることだけを飽きるまでやり、食い散らかして後は若い奴に譲っていた。しかし各種の会議に出始めるといろいろな物が見え始め、私はジジイの年輪と「したたかさ」を持って若い連中といろいろやり合ううちに明日への活力がみなぎってくるのを感じ始めていた。フットワークを軽くするとは素晴らしいことだった。季節は冬に向かう頃、薄暮の中で久しぶりにまだ「生きたい」と思った。
我輩はアメショー(2カ月)に振り回されている……
突き刺すような秋の空の下、小さな住宅街の公園の、まあるいジャングルジムのてっぺんにぽつんと三毛猫が遠くを見ていた。そばには飼い主であろう、点滴の袋を下げた学者風の老人がいて、分厚い、字のぎっしり詰まった横文字の本を広げていた。私はちょっとその老人に挨拶して、若干世間話をしながら「何が面白くってそんなところにいるのか」と聞いてみた。「もうすぐ冬がやって来るよ。今日は暖かいな、でもすぐに冷たい雨が降る」って老人は私の質問には触れず意味不明に答えた。老人は、本当に久しぶりに笑ったという様な素敵な笑顔を私に向けてくれた。ただそれだけの風景で私はネコを飼いたくなった。
その昔、動物学者の千石正一さんが、「私は爬虫類学者といわれているが、実はネコが一番好きで、ネコ語が話せるんですよ」とプラスワンのステージで言っていたのを思い出した。
「私の家にネコが2匹いるんですけど、奴らは絶対私の膝の上やベッドには載らないんですよ。どうしたらネコに好かれますかね? だって毎日のネコ缶なんか私の給料から買っているのに、全然感謝されていないのは悔しいですよ」と私。「そんな権利を主張する平野さんはネコに好かれるタイプではないので無理です」と言い切られてしまった。「そこをなんとか教えて下さいよ。あんたネコ語が話せるんでしょ?」「う〜ん、そうですね、ネコと二人だけで暮らしたら膝の上に来るかも知れないな。私も今ネコと二人だけなんだけど、先日私が一週間ばかり病気して寝込んでいたら、うちのネコ、どこからか生の魚をくわえてきて、さあ、食べろって言うんですよ」と自慢話が始まったのだった。
平野悠(孤老)と新しい仲間
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2+?人の米子。赤いタイトスカートの子は先代米子で、集団就職で東京にやって来て、スーパーの店長に段ボールの隅で犯されて、平野お助け寺に保護された。二代目米子はまだ生まれて2カ月。お米に困らないように米子の名前を引き継いだ |
11月6日、高田馬場トリックスターで行われた「鈴木邦男vs切通理作vs塩見孝也」のイベントで、猫キチの雨宮処凛さん(作家)とやはり猫のことで話し込んだ。「ねえ〜平野さん知ってる? Sさん猫飼い始めたんだよ。本人は恥ずかしがって知らんぷりして、名前も教えてくれないんですよ。おっかしいでしょ」と言い出した。会場を出て打ち上げの居酒屋に向かう途中、親子連れの猫が3匹いた。「平野さん、ほら〜見て! 猫いるよ。一匹貰ってったら? 早く、今なら捕まえられるから」と処凛。「あのな〜、それって泥棒だろ。そんなこと出来ないよ」と私。「そんなことないよ。あれは野良だから……」「でもね〜」って話している内に、猫の親子は暗闇に姿を消した。
それから私は無性にネコが欲しくなった。この一週間、猫探しをしていてなんとか和猫で里親になろうと思っていろいろ探した。確かに「里親募集」というホームページはたくさんあったけど、なんともいろいろ条件が厳しい。「1−貰いたい人はお宅が猫を飼える条件を満たしているかどうか家をチェックします。 2−毎月の飼育報告(写真付き)は義務です。3−ワクチンとかのすでにかかった費用を負担してください。4−アンケートに書き込んでください。5−飼い主の年齢制限(50歳まで)。」なんていうのがずらり……。なんかみんな偉そう。昔は貰ってくれるだけで「感謝感激」だったのに、時代は変わったなって思った。
下痢ネコとの格闘記
それで里親になろうという勢いがなくなってしまって迷っていたのだが、今も独身のSさんが猫を飼い始めたと聞いた次の日、わたしゃ猫屋に行って、生後2カ月のアメリカンショートヘアを買ってしまった。
その夜、北風の吹きすさぶ中、ネコを自転車の荷台に載せて家に連れ帰った。子猫は怯えてしまって部屋の隅から出てこない。その晩はついにほとんど触る事も出来ずあきらめた。次の日は朝8時に起きて「猫の離乳食」とやらに挑戦(こんな時間に起きたのは久しぶりだ)。緊張のためか子猫は激しい下痢を起こしていて、部屋中猫のビチビチうんこだらけ。ウェットティッシュを持って逃げる子猫のお尻を拭き回る。戦争だ。「あのな〜、俺も一人、君も一人……ここで出会ったが最後、一生の付き合いになるんだからね、仲良くやろうね……」って静かに彼女に言い聞かせて、後ろ髪を引かれるように家を出た。彼女の名前は生涯お米(食物)に困らないように「米子」にした。
次の日からはそれなりに元気になって、毎朝8時に猫に顔をぺろぺろ舐められ顔の上に座られる。「起床だ!」「早くメシにしろ!」って催促されて私は毅然とベッドの布団を蹴り上げる。お湯を沸かして10〜20分暖め、カリカリをふやかす。 粉ミルクとブドウ糖をお湯でかき混ぜてミルクをあげる。
毎日のように深夜まで飲んでいた酒を減らし、なんとか0時頃までには家に帰らないといけないという義務感が私の意識を凌駕するようになった。深夜帰路に向かう自転車をこぐ力が入る。風を切る。冷たい手。コンビニで手袋とマフラーを購入した。恋人に会いに行く気分だ。いつも40〜50分はかけている銭湯も20分は短縮した。「いや〜今わたしゃ、毎日子供の離乳食を作っているし早く家に帰らないと……」って友人に言うと、「平野、60にもなって子供作ったのか? それは凄い、お前らしいな……。で、子供は男か女か?」「うん、まだ2カ月なんで大変なんだ」「そうか、何かプレゼントしなければな」って友人は言った。「ところでお前は昔パイプカットしたんじゃないのか? またパイプ管をほどいたのか?」って聞かれて「絶句!!!!」した。「実は、生後2カ月の猫を飼い始めたんだ……」と言うと、友人は持っていたグラスを思わず落としてしまった。
その夜、また猫の夢を見た。「もし、この子に何かあったらどうしよう?」という脅迫観念の中で目が覚める。「果たして私はこの子をちゃんと育てられるのか?」 と思うと無性に怖い。生き物を育てるってやはり怖い。
第10回「新宿ロフト風雲録−2 1976〜80年」
ウッドストックの悪夢
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63年8月、ワシントンで行われた「反戦集会」。ディランの「風にふかれて」が大合唱された |
アメリカでロックが産声を上げて以来、1969年に開催された「ウッドストック」と、ローリングストーンズの「サンフランシスコ無料コンサート」は、世界中の音楽ファンから多大な関心を集めた。しかし「対抗文化」としての「ロック幻想」は60年代で終焉したと多くの音楽専門家は言う。現代でも多くの若者に受け継がれているこれらのイベントへの幻想や伝説や憧れの意味は、ベトナム戦争に反対し自分たちの力で戦争を止めようとするところにあった。この「平和と音楽の祭典」は、側面では戦争阻止、徴兵カード焼き捨て、大学封鎖等の実力闘争を含みながら、時の権力、ニクソン政権と一戦を交えようとするものだった。
しかし悲しいかな、ロックミュージシャン達は「ヒッピー文化の象徴とされる愛と平和」を唱えたが、そのゴールはドラッグ、アルコール依存に行き着くものだった。「花束とギター」で「平和を下さい」と叫んでも何もなしえない事を若者達は知り、虚無感を抱え挫折し理想の地を求めて世界中に散って行った。この音楽と反戦運動がジョイントする過程で、多くの戦場や学園で若者が死んだ。さらには有名人気ミュージシャンの相次ぐドラッグでの死もあった。「社会の変革と自己の否定」を掲げたその主張は見るも無惨な形で圧倒的な権力の前に敗北の歴史を重ねて行った。そして主張を失ったロックは、例外なく巨大資本に呑み込まれてゆくただの「産業」になり果てるのだ。
私は以上のような「歴史の真実」にはそれなりに賛成だが、まだ燦然と輝く様に登場したロックは終わったとは思っていなかった。だがそれを証明するには80年代に台頭した、既成の概念をぶち破る破天荒な「パンクムーブメント」まで待たねばならないと但し書きを入れておきたい。
「失うものを持たない年寄りは、束縛を受けている若者にかわってすすんで声をあげるべきだ」−−アルバート・アインシュタイン−−
70年代の日本のフォーク・ロックの叛乱
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第3回全日本フォークジャンボリー |
1960〜70年代、日本でも多くのフォークやロックのイベントは行われていた。この時代のイベントは「反商業主義」「社会の変革・批判」を掲げていたものが多かった。60年代後半より関西フォークが中心になり一つのブームになって行った。69年の「アングラ音楽祭」、1970年に行われた「関西フォークキャンプ」、71年には福岡風太・阿部登の「春一番コンサート」があった。同年の第3回全日本フォークジャンボリーには2万5000人の観客動員があったが、運営に批判的な参加者がステージを占拠する事件等があり、このアマチュアが運営したビックイベントも姿を消すことになる。反商業主義、あるいはベトナム戦争や安保闘争などといった社会批判を含んだ対抗文化としての関西フォークは70年代に入ると衰退し始め、メッセージ性は社会的なものから個人的なものに変わって行った。
関東でも71年、成田空港反対闘争の三里塚青年行動隊の主催による「日本幻野祭」(頭脳警察、山下洋輔トリオが出演)や、福島県で行われた日本ロック史上最大規模のイベントとなった「ワン・ステップ・フェステバル」が開催された。いわゆる大スポンサーなど付かず、基本的にはファンが中心となって企画・運営を行っていたのだ。これは日本のロック、フォーク史にとってはとても重要な転換期ともいえる。70年代に入ってロックやフォークはニューミュージック(別名産業フォーク・ロック)と陳腐な名称で呼ばれるようになり、75年には吉田拓郎とかぐや姫の「つま恋コンサート」が行われ5万人を集める事になる。陽水、拓郎などのメジャーフォークは巨大なスポンサーと組むことになり、反商業主義や社会性のあるメッセージはいわゆる姿を消し、産業フォーク・ロックの軟弱路線に表現者も業界もシフトしてゆくのだ。+?
日本ロックについてこう思う−いちライブハウスからのメッセージ
70年代はじめに「日本語ロック論争」(前号で書いた)があって、私達ロックに関わる者はそれなりに盛り上がった。それは簡単に言ってしまえば、「はっぴいえんど」の作品を認めるかどうかだった。
はっぴいえんどから続く外国音楽を日本文化(?)と癒合させての音楽を追求する表現者達は、次々と新しいニュアンスのポップスを排出していった。キャラメル・ママやティン・パン・アレ−(細野晴臣)、ナイアガラ(大瀧詠一)、荒井由美、シュガーベイブ(山下達郎)、吉田美奈子、あがた森魚、矢野顕子、ムーンライダース、南佳孝、桑名正博……。さらには「あんな音楽はロックではない……」と中村とうようさんの怒りを買ったセンチメンタル・シティ・ロマンスがあった。私達「ライブハウスロフト」は、はっぴいえんど系を中心に番組を組んでいるわけで、当時のロフトレギュラーバンド、センチメンタル・シティ・ロマンスへの攻撃に関して、黙っているわけにはいかなかったのだった。
76年2月、新宿ロフトがオープンする半年前、ロフトは中村とうようさんの攻撃にあったミュージシャンの擁護に立ち上がった。「おっかしいよ、とうようさん!」なのだ。私達は『NMM(ニューミュージックマガジン)』(現・『ミュージックマガジン』)誌始め、当時の音楽誌全紙に広告枠を買い取って「意見広告」を載せた。これまたいちライブハウスとしては今では全く考えられないことをやったものである。銀行から150万円を借金して中村とうようさんに「ロック論争」を挑んだ。当時のとうようさんは洋楽指向(?)で日本のライブハウスなんかには目もくれていなかったのだろうか、反論する価値もないと思ったのか、反論さえくれず結果的には「完全無視」された。なんともえら〜い人なのである。ちょっと長いが、日本のロック史としても史上初めていちライブハウスが果敢に天下の音楽評論家さんに挑んだ「論文」をここで全文紹介しようと思う。
日本のロックについてこう思う
いちライブハウスよりのメッセージ
ある街角で、これから開かれるロックコンサートのポスターの上に、別のやはりこれから開かれるロックコンサートのポスターが重ねて貼られているのを、最近目にした。
NMM誌75年11月号の、中村とうよう氏による「日本のロックについてこう思う」はそれを思い出させる。
センチメンタル・シティ・ロマンスという、まだ新人グループの、それもデビューアルバムを題材にしての中村氏の文章は矛盾に満ちたものである。
例えば、「ホンモノのロックをやってる連中に、レコード会社がそんな大金を出すわけがないし、出そうという申し出があっても、ホントのロック・ミュージシャンなら断わるに違いない、という考えもあろう。」という文章がある。
ビートルズやストーンズは大金持ちだ。グレイス・スリックは真赤なスポーツカーを乗り廻しているし、エルトン・ジョンやディープ・パープルに至っては自家用飛行機をさえ持っている。ディラン又しかりである。
では、彼らはホントウのロック・ミュージシャンではないのだろうか?
同じく引用をさせてもらうならば、「ジャンルの境界線にこだわるのではなく、音楽家としての態度の違いと、それが反映した音楽のもつ衝撃力の違いとを、ぼくたちは問題にしなければならないのだ。」ということであり、更に、「われわれが問題にすべきなのは、音楽そのものである。音楽をとおして、そこに表れた音楽家の考え方や生き方に共感したり反発したりすればいいのである。」ということであると思う。
個々の矛盾を突っつくのは本意ではないのでこのくらいにしよう。
いつの間にか”ライブハウス”などという言葉が出現し、一種のブームにさえなっている。しかし私たちは、そんな言葉が出て来る以前、時には演奏を聞きに来る人が2、3人しかいないという状況の中でも、謂ゆる”ライブハウス”活動を続けてきた。
又もや引用をさせてもらうと、「ロックだフォークだと区別して線を引く」のではなく、「自分の信じるオトに体を張ってコツコツと努力を重ねてきた」ミュージシャンにその演奏活動の場を提供することによって共に活動してきたと自負している。それは、単に<ロフト>というある”ライブハウス”に限ったことではなく、たぶん他の”ライブハウス”も同じだと思う。
そして、そう+?したミュージシャンが、”ライブハウス”活動で食べていくことなんか程遠いことを知っている私たちは、別に億万長者になんてならなくても何とか食べていける様になって欲しいと思うのが本当の所でもある。
実際、陽水や拓郎が”ライブハウス”に出ているなんて聞かないが、細野晴臣や、特にセンチメンタル・シティ・ロマンスなんて、レコードが出るずっと前から”ライブハウス”活動をやってきているのである。
「聞くほうの体に訴えるものは何もない。」かどうかは聞いた人ひとりひとりが感ずれば良いことであると思う。
《青少年に読ませたくない書物はこの中にお入れ下さい》という箱があちこちの駅にあるが、ロックに関するこういった発想というのはやめにしてもらいたいものだ。
センチあり、内田裕也あり、細野晴臣あり、クリエイションありでいいではないか。
NMM誌11月号中村氏の、「という考え方もあろう」とか、「という意見もある」という語尾に表われる歯切れの悪い文章の中に、私たちにも、同誌12月号の小倉エージ氏によるかぼそい反論の最後「批判の対象、それらの言及については、冷静さを持って巧みに計算された何がしかの配慮がなされての矛盾をかかえたもののようである」と思える。
未だほとんど食べていくことも困難な日本のロック状況に、更なる論争と発展を期待して、いち”ライブハウス”よりのメッセージと致します。
新宿ロフト始動! 新宿にロフトを作ることにした
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▲べ平連(ベトナムに平和を市民連合)の先頭に立つ小田実(作家)さん。 |
私は世田ヶ谷に生まれたせいか、高校も大学も就職先も新宿を通過していた。すなわち私にとっては新宿が一番愛着のある街であった。雑多な文化が混在する街がどこの街より大好きだった。だがこの時点で私は新宿への進出はまだ早いと思っていた。当初私は、下北沢の次の店舗増殖作戦は高田馬場を考えていた。丁度、高田馬場の西友の地下に100坪近い地下物件を見つけ、当時全盛を極めていたキティミュージックに話を持ちかけ一緒にライブハウスを経営しようとの作戦に出た。しかし仮契約はしたものの、ビルのオーナーが荻窪ロフトを視察に訪れた丁度その日は確か「外道」のライブで、周辺には100台近くの暴走族が結集して何やら不穏な雰囲気を作り出していたのだ。仮契約は意図も簡単に破棄された。
しかし皮肉なことに銀行融資は順調だった。76年夏、「どこにも負けない本格的ライブハウス」を新宿に作る決心をした私は、精力的に動き回ることになった。ただ新宿の街を徘徊し地下物件を探し歩いた。いくら新宿が好きでも、やはり天下の「歌舞伎町」の中に入って店舗を構える勇気はなかった。そして新宿西口の小滝橋通りの外れに、レストランが潰れた跡の65坪の物件を探し当てた。今でこそ小滝橋通りはいろいろ賑やかだが、当時は夜になると人通りなどほとんどなく閑散としている地域であった。巷には「ロフトが200人収容の大型ライブハウスを新宿に作るそうだ」といった噂を流し、この新宿進出作戦を安易に延期出来ないように外堀を埋めつつ計画を進行させることにした。(以下次号に続く)
ロフト席亭 平野 悠
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