第145回 ROOF TOP 2010年4月号掲載
おじさんの眼・北海道放浪編
「はぐれもの紀行 ─厳冬の北海道終着駅制覇の旅─ その2」

『放浪宿ガイド』編集者の挑発にのって、なんとも無茶な一人旅に出た老人・平野悠(65歳)。後半は、北方領土と目と鼻の先、日本最東端の終着駅・根室から、相変わらず辺境、極寒の地を転々とし、次第に北の果て・稚内を目指すのだが……。

2月12日/根室〜釧路〜摩周

 早起きして朝8時の列車に乗り、2時間あまりかけて根室から釧路に戻る。同じコースを戻るというのは旅人にとっては苦痛でしかないが、今回の終着駅の旅では、どうしてもそうせざるを得ない。
 根室は、北方領土が日本に返って来れば一大漁業基地になるのだろうが、今はただの寂れた過疎の港町に過ぎなかった。釧路〜根室間の列車も一両編成。マッチ箱をぴょこんと横にした感じが、レトロでなかなかいい。この箱形電気鉄道をキハ系45型というらしい。雪の中をゆっくり、ガタコト、ガタコト走っている。  今日は摩周湖と屈斜路湖の近く、弟子屈町にある「鱒や」というログハウスの宿を訪ねるつもりだ。過去に何度か泊まっているし、オーナーの橘さんのことも良く知っている。サハラ砂漠をピックアップトラックの荷台に乗って横断した私も、この年での真冬の強行軍にはちょいと疲れた。ここに2日ほど滞在し、ゆっくり雪の大自然の中で温泉に浸かりながら疲れをとろうと思う。
 列車の中でうとうとしていると、橘さんから電話が入った。「今、釧路の病院に来ているんですが、平野さん、何時に釧路に着きますか? 僕の車で宿まで行かれますか?」と言ってくれた。私は遠慮なく、橘さんの好意に甘えることとした。早く温泉に入って疲れをとりたいし、橘さんの奥さんの顔が見たいと思った(上品で気品のある、そう、私好みの熟女予備軍(?)なのだ・笑)
 宿に着くと、橘さんが「これから今ハマっているモモンガ撮影に行くので、ついでに川湯温泉まで送りましょう」と言ってくれる。300円を払って、川湯温泉ホテルの湯に浸かる。橘さんが薦めてくれた露天風呂は最高だった。しかも私以外誰もおらず、完全貸切状態。硫黄の強烈な臭いに包まれながら、至福のひとときを過ごした。  この夜の鱒やの客は5人。私はこの宿に来るのはこれで3回目だ。橘さんは実は、もう35年近くも前、私が経営していたライブスポット「荻窪ロフト」の常連だった。  今はなき荻窪ロフトは、「本格的ロックが演奏出来る空間」を標榜していた。飲食店の一角ということではなく、いわゆる音楽自体をメインに楽しめるライブハウスというものは、東京にはほぼなかった時代なのだ。彼は高校生の癖にロフトに来ていた。
 この頃の荻窪ロフトの主な出演者は、ティン・パン・アレー・セッション、山下洋輔トリオなんかだった。はっぴいえんど、松任谷由実、松任谷正隆、シュガーベイブ、ムーンライダースなんかも出演していた。日本のロック、ニューミュージックの草創期だった。

女将に送られ、2日間を過ごした鱒やを去る

 橘さんとそんな昔の話に花が咲く。お互いに若かった。私は、橘さんが通う都立荻窪高校の父兄会に呼び出されたことがあった。「うちの生徒が、授業サボっておたくの店に出入りしている。なんとかならないか」と、詰問に近い状態だった。私はその時、彼らにこう答えた。「私の店では生演奏の他に、ロックやジャズの音楽をいい音で流し、みんなに聴いてもらっている。私は、それがたとえ幼稚園の生徒でも、ロックやジャズが聴きたいと言えば、喜んで入れる。あなた方のほとんどは、ロックやジャズをまともに聞いたことがないし、良さがわからないのでしょう。単なる“不良の音楽”だと思っているのであれば、これはとても日本の音楽文化を語る上で寂しい話だ」とまくし立て、そこにいる父兄を煙に巻いたことが思い起こされた。私もまだ20代後半だった。この夜、私はしたたかに酔った。いつ寝たのかも覚えていない。


2月13日/摩周

 ログハウスの庭にある、大きな木の下にしつらえた餌場には、何種類もの鳥達がやって来て、ヒマワリの種をしきりについばんでいる。そんな光景を朝からぼんやりと見ている。ほかにすることはないし、する気にもならない。本さえも読む気にもなれず。「摩周湖観光でもする?」と橘さんに聞かれたが、「いや〜、何年か前の真冬にも見たし、いいよ。ここでぽけ〜っとしているさ」と、丁重にお断りした。

旭川にて、まだまだこの旅を終わるわけにはかないと、決意を新たにする

 摩周湖と屈斜路湖のほぼ同じ位近くにこの宿はあり、目の前は釧路川が流れている。釣り、カメラ、自転車、バードウォッチングと、橘さんのアウトドアの趣味は多彩だ。そもそも、東京で生まれ、仕事をしていたのが、北海道にハマり、1994年に宿を建て、移り住んだのだ。
 夜、少しだけ酒を飲みながら橘さんと話す。彼は私の今回の計画に非常に興味を示してくれ、あれこれネットで検索をし始めた。彼自身、一年のうち数カ月は、宿を閉めて旅に出る人でもあるのだ。
 残る終着駅は、夕張、新千歳空港、増毛、新十津川、そして稚内の5駅だ。ここから稚内に行くのは、一日では無理だろう。途中で旭川に泊まり、翌日に稚内を制覇した上で徐々に南下。最後は新千歳空港から東京に帰るつもりだった。が、橘さんがあれこれ調べてくれた結果、そのコースだと相当な無駄がある。先に夕張と新千歳空港を回り、稚内まで北上する方がいいという。さらに彼は、私にこう言った。
「平野さん、何かおかしいと思っていたんですけど、この計画の終着駅には函館が入っていませんよね。これでは完全制覇にはならない」「えっ。函館は青森からつながっているから違うと思っていたけど」「ほら、函館ってちょこんと出ているでしょ。これ間違いなく終着駅ですよ」そう言いながら、彼は画面上の路線図を指差すのだった。確かに、剃り残した一本のヒゲみたいに、函館本線から一駅だけ飛び出している。
「参ったな。これじゃ、また一から計画し直しだ。しかも、函館と稚内って北海道の南と北の端じゃないか……」私は頭を抱えた。
「手伝いましょう」と言って、橘さんはまた、キーボードをカチカチやり始めた。「やはりこのまま稚内まで制覇して、それから一挙に函館まで行くのが、一番いいかもしれないな〜」「そうですか。しかしあと6日間かかるということは、血圧のクスリがきれてしまう……」「そんなの、どこかの医者に処方してもらえばいいでしょ。問題は宿ですね。他の駅はなんとかなると思うけど、新十津川って宿なんかあるのかな……」
 それを聞いて、私はすっかり落ち込んでしまった。世界放浪時代、宿を探すためだけに、一日中歩き回ったこともあるし、駅に泊まったことだってある。が、その頃はまだ30〜40代だった。真冬の雪国で、この歳で泊まるところがないといのは、とてつもなく不安に駆られる。
 「やっぱり函館、行かないとダメかな。稚内から飛行機で東京に、と思っていたのに……」「だって平野さん、東京に帰ったら残念に思うよ。きっと……」「もうなにも考える気がしない。寝る」と私は部屋に戻った。


新夕張駅前広場。雪降るこんな所に情報の一つもなく一人取り残されたらどうする? 凄いでしょ

2月14日/摩周〜釧路〜新得〜新夕張〜夕張

 橘さんが作ってくれた予定表だと、今夜はあの破産した町・夕張泊まりだ。鱒やを午後に出た。この時間に出発ということは、また、最終電車で夕張に着く。どっちにしても一日数本しかない列車なので、あまり気にしても仕方がない。
 摩周から釧路に出、釧路からは特急に乗り換え、新得という駅に降りた。ここで2時間の待ち合わせだ。新得は日本有数のそばの産地だ。駅前のそば屋で食す。やはりおいしい。
 さてビックリしたのは、新得からの列車を、再び乗り換えのため新夕張駅で降りた時からだった。あたりは暗い。激しい雪がしんしんとホームに吹きつけている。下車したのは私一人。急行列車北斗8号は、私だけをホームに残して去って行く。
 ホームの階段を降り、待合室に行った。またも2時間弱の待ち合わせだ。驚いたことに待合室の切符売り場も閉まっている。凄い。ここまでひとりぽっちを感じたのは初めてだ。冷たく消えたストーブがあるだけで、とにかく誰もいない。急行が停まる駅なのに、人間のいる気配すらない。
 あせって駅舎から駅前広場に出た。タクシー一台すらいない。もちろん人もいない。向こうに国道らしきものが見え、コンビニの明かりが見えたが、ほとんど車も走っていない。しかも雪が横殴りに吹雪いていて、外には長くいられないのだった。
 そして、その後2時間、その駅には本当に私独りしかいなかった。待合室は冷え冷えとしていた。このまま次の列車が来なかったらどうしよう? と思った。
 列車は定刻通りにやって来た。夕張駅行き最終列車だ。乗り込むのは私一人で、運転手以外、誰も乗っていない。とても現実のこととは思えなかった。でも「これは、『銀河鉄道999』に出てくる、帽子を目深にかぶった小柄な真っ黒なおじさんが運転している夢の中の列車なんじゃないか? そう、これは夢の世界なんだ」「俺は今、銀河鉄道に乗って、あてどもない旅に出ている」と思ったら、なんだか少年のように嬉しく、感無量になった。吹きつける雪の窓ガラスに映る、年老いた、ゆがんだ顔の自分とじっと対面し続けた。「俺も歳を取った。そしてまだ、旅をしているんだ……」

誰もいない駅に「銀河鉄道999」は私だけを拾いにやって来た

 吹雪に包まれた見知らぬ駅で、独りぽつんと凍えながら2時間も待ちぼうけをくらい、またもやひとりぽっちで列車に乗っている。まるで私を迎えるためだけにやって来てくれたみたいな、この列車のシートは本当に暖かかった。それから夕張にたどりつくまでの数駅の間、何人かの乗客が乗り降りしたらしい。眠ってしまった間に、夕張駅に着いていた。
「この駅、泊まるところありますか?」と、切符を受け取るワンマンカーの運転手に聞いた。「そこにでっかいホテルがありますけど……」と、運転手は山裾を指さして言った。立派な造りのホテルが燦然と輝いていた。数年前にサミットが開かれた、洞爺湖のウィンザーホテルみたいだった。真上はスキー場のゲレンデだ。夜間照明が煌々とついているが、誰も滑ってはいない。
 街を30分ほど歩いて旅館を探したが、見つからなかった。私は仕方なく、その豪華すぎるホテルのフロントへ行った。
「今晩一晩、泊まりたいのですが」「お一人様、シングルですね。朝食込みで1万8900円です」私は唖然とした。「それはひどい、高すぎますよ。東京のホテルオークラでもそんな取らないですよ」「ただ今シーズン中ですので……」「シーズンっていってもほとんど客がいないじゃないの。そんな高いホテル代払えないよ。どうしよう? 帰るにも帰れない」私は、困った顔を作って見せた。
「それでは、ここから車で5分ばかりの所に別館があります。そこなら朝食込みで8900円程で泊まれますが……」「それもひどく高いな。この辺、他に旅館とかないの?」「はい、清水沢の方まで行かねばありません」
 結局、別館の方に泊まることになった。迎えが来るまでその馬鹿でかいホテル内を探索してみると、ハングルと中国語の世界だった。日本人はほぼ泊まっていないのだ。  別館でも、従業員とちょっと話をした。「このホテルはもう夕張市経営ではないんですよね?」「そうです。でも持ち主は夕張市でして、私どもは経営を委託されているのです」「偉く高いけど経営出来ているんですか?」「それは大変ですよ。元々あんなホテル建てること自体無理があった」「夕張市の今後はどうなるんでしょうかね……」「いや〜そう言われても……」「でも、夕張って見るところもたくさんあるんでしょ。メロン城とか石炭博物館とか。石炭ラーメンというのもあったし」と、適当によいしょする。
「でもねえ。素人が考えることなんかうまくいくはずがありありませんよ。わざわざ見に行くところではないです。夕張市としては、巨大ホテルとメロン城に全てを賭けたんでしょうかね。それが失敗し腐って……」と、批判的な発言が続いたのにはさらに驚いた。「でもさ、その政治家を選んだのはあんた達だろ〜」と、言ってやりたいのをこらえるのに必死だった。


終着夕張駅。右上に見えるのは豪華ホテルだ

2月15日/夕張〜千歳

 昨日とは一転、晴れたので夕張の駅周辺を探索したが、誰もいない真っ白なストリートは、新雪の上を歩くのが楽しかった。でも寒い。町中の至る所に映画の看板があるのはとてもよかった。“映画の町”っていう感じだった。
 今日はどうしても、医者に行って血圧の薬をもらわないと困る。一日数本しかない列車で清水沢駅に向かい、梁詰診療所に向かう。何度かテレビで見たことのある「地域に奉仕する医院」だ。老人の医者が、じいさんばあさんと楽しそうに喋っている。街には人がほとんどいないのに、ここはたくさんの老人達がいた。帰り際、看護婦の気遣いの言葉が身にしみた。「一人旅をなさっているんですね。素敵ですね。くれぐれも血圧に気をつけて良い旅をして下さいね。これ記念品です」と言って、この医院のタオルをもらった。
 次の列車まで2時間半待ちだ。清水沢の街をあれこれ探索するがなにもない。20分で終わってしまった。駅前のタクシー運転手に聞いてみた。「今から2時間近く列車待ちなんだけど、メロン城や石炭博物館をタクシーで回ったら幾ら位かかるんですか?」「いや〜。お客さんやめた方がいいよ。1万円じゃきかないし。タクシー使って行くようなところじゃないよ」と、申し訳なさそうに言われた。昨日のホテル従業員といい、このタクシー運転手といい、「おいおい、ここの住民の頭はどうなっているのかな?」と思った。
 仕方なく駅の待合室で、ほとんど暖まらないストーブの前に座った。ふとみると、じ〜っと、一人のおじいさんが私のことを見つめている。待合室には私と彼しかいない。 「おじいさん、誰か待っているの?」ちょっと話を振ってみた。「うん……ばあさんが帰って来る」ぽつんと老人はつぶやいた。「そう、次の電車で奥さんが帰って来るんだ」「釧路の病院から帰って来る」「それは良かったですね」「いつも待っている。東京に行った子供も帰って来る。それ待っている」「そう、お子さんも孫を連れて帰って来るんだ」「そうだ。帰って来るんだ。孫連れて。それ待っている」
 二人きりの待合室で、老人のその遠くを見ながらのうるんだ目を見ていると、何かもの悲しくなり、なぜか私の目頭も熱くなった。ぜひともこのおじいさんが待っている奥さんを見てみたい、という気持ちになった。
 しばらくして待合室の扉が開き、おばあさんが入って来た。しばし沈黙の後、「あらあら、おじいさんまたここにいるのね。また明日、迎えに来ようね」と語りかけ、おじいさんの手を取った。「すみませんね〜。何かご迷惑でも……」「いえ、そんなこと全くありませんよ。大丈夫です」と私は答えると、二人は待合室から消えた。  北海道の典型的な過疎の町で、自治体自体が事実上の財政破綻してしまった夕張市。こういった老人達はもう、行政サービスがどんなに悪くなろうとも移転する場所がないのだ。若者は、将来のなくなった町を捨て出て行く。年寄りを残して。夕張市を食い物にした政治家やゼネコン、無能な市長や市の職員に私は腹が立ってきた。

夕張市は映画の街だ。ストリートはとても素敵だよ

 清水沢から2時間ちょっとかかって、石勝線の終着駅・新千歳空港駅を目指す。実に楽な行程だった。空港駅にはまっすぐ向かわずに、まずは手前の千歳駅に降りてみた。始めて降りる駅の周辺探索は楽しいが、外に出るとえらく寒い。マクドナルドがあったのでコーヒーを飲む。寒いので外に出る気にならない。疲れているな、と思った。
 駅に引き返して再び列車に乗り、新千歳空港駅に着く。ホテルを探すのもめんどくさいので、空港のホテル案内所で探してもらったら、空港内にビジネスホテルがあった。思い切ってそこに泊まることにした。朝食付きで8900円。意外と安かった。
 しかし、何が楽しくってこんな近代的な「空港駅」に降りて泊まらねばならないのか? 「こんなの東京都心のホテルと同じじゃないか?」と思ったが、身体の疲れを癒すには、もうあまり動く気にはならない。ただ、不思議と「疲れた。もうやめようか」とは思わなかった。Twitterやブログでこの旅の報告をしていて、それなりに多くの人がこの私の「挑戦」を見守ってくれているわけで、そう無様に途中放棄する訳にはいかないのだ。なんだかわからないが「決意」を新たにする。
 空港内のホテルに泊まるのは初めてだ。窓の外から滑走路が見えた。雪の中の空港は真っ青な滑走ラインが引かれていた。美しい。飛行機が次々に離発着するのが間近で見える。騒音は部屋まで来ない。快適な洋室だ。シャワーも浴びず眠りに入った。


新千歳空港ビルの中のホテルから雪降る飛行場が見わたせる

2月16日/千歳〜函館

 新千歳駅から一挙に函館まで南下した。地図で見ると遠いと思うが、特急に乗ると3時間あまりで北海道の南の玄関口・函館に着いてしまう。
 市場をふらついた後、ふと駅前にあるビジネスホテル、東横インに入ってみた。このビジネスホテルチェーンは、何年か前に、法律で決められている身障者用の施設をインチキしていたことで非難を浴びた。私もそれ以降泊まることは敬遠していた。値段はなんと3800円。おにぎりとみそ汁の朝食と、夜食のカレーまでついてこの値段だ。立地も従業員の対応も、シングル部屋も申し分がなかった。
 部屋に落ち着くと、函館の地で温泉に入りたくなった。しかし、私が気になった花の湯温泉は郊外にある。バスを探すが一日数本しかない。仕方なくタクシーで行った。往復5000円もかかった。風呂代は370円。花の湯はスーパー銭湯並の設備を整えていて、さらにオーナーが植木屋とかで、庭の露天風呂が見事だった。夜、Twitterで教わった「金寿司本店」にて本場の寿司を食らう。ニシンがおいしい。今年は豊漁だそうだ。


2月17日/函館〜札幌〜新十津川〜滝川

 函館を朝9時に発つ。札幌にお昼に着いた。札幌で4時間近くの待ち時間がある。札幌から新十津川まで向かうには、途中乗り換えで一日3本しかない。
0  待ち時間を利用して、下着や靴下を買いに行くことにする。下着や靴下を何日も変えていないのだ。かつてのバックパッカー時代なら、洗濯が面倒で下着をはかなかったりしたが、なにしろ寒い。汗はほとんどかかないから良いけれども、ちょっと気持ち悪くなってきた。でも、旅の途中で洗濯している余裕はない。札幌のユニクロで下着類を3点ずつ買った。ヒートテックの下着は売り切れ。街は昨夜降った雪で真っ白になっていた。これほど真っ白な札幌は初めて見た。
 16時30分札幌発。新十津川に向かうには、石狩当別という駅で乗り換える。石狩当別までの車窓は普通の都会の風景だったが、乗り換えると様相が一変したのに驚いた。しかも、穏やかな天候が猛吹雪となった。乗客3人。キハ系箱形列車は終着駅に向かってひたすら車輪を回し続ける。道央の広大な大雪原の風景が素晴らしい。
 しかし終着駅が近づくにつれてまた、嫌な予感がした。重い雲は全てを真っ白にして吹雪いている。どんどん暗くなる。停まる駅はどんどん寂れてゆく。駅がまるっきり雪に埋もれていて、駅舎が見えないところまであった。
 私は携帯電話で、新十津川駅周辺のホテルや旅館を探すことにした。駅周辺には3軒の宿屋があった。だが電話してみると、一軒は休業、そして後2軒は満室だという。「そんなバカな!」こんな山奥の田舎で旅館が満室だなんて考えられない。なんでも、ダム工事の関係者が泊まっているとのこと。焦った私は、停車のすきに運転手に相談に行った。
「すみません、旅人なんですけど、今夜、新十津川駅近くで泊まるつもりが、どこも満員なんです。どうしたら……」「うーん、この列車は新十津川で折り返してまた札幌まで帰るから、それに乗るしかないかね」「駅員もタクシーも駅前にはいないんですか?」「ああ」何度もこのパターンを経験していたので、ビックリしない気構えは出来ていた。やっぱり、と思った。「新十津川の繁華街は駅からちょっと離れているし」「もし、この吹雪で街に誰もいなくて、タクシーもいなかったら凍え死にますね」ジョークのつもりで言ったのだが、反応はなかった。「函館本線の滝川駅は新十津川駅から近いと聞いたのですが、バスはありますかね」「いや、もうこの時間はないと思うな。あっても、この雪だし走らないかも知れない」
 それにしても、今回の旅で結構感じたことだが、冬の北海道の人々にはほとんど笑いがなく、何か暗い。一人旅をしていて、住民から話しかけられることは滅多にない。たとえ雪が降っていなくとも、空は重くどんよりとしていて恐ろしく寒く、感性を麻痺させる。寒いということは、何か人の心を卑屈にさせるのかもしれない。
 席に戻った私は、今度は周辺のタクシー会社を検索して探し出し、列車の到着時間に新十津川駅前に来てくれるように頼んだ。「参ったな! 滝川駅に行くということは、終着駅から離れてしまう。これでは完全制覇にはならない。なんとか駅周辺で泊まりたいけれど……」と焦るが、事態はもうどうにもならないところまで来てしまっていた。

おいおい、雪が解けるまでこのままかね(豊富駅近くで)

 タクシーの運転手は能弁だった。「今、年度末で、この辺の旅館はダムの関係者がたくさん泊まり込んでいるから無理かな。滝川は大きな町で、ビジネスホテルも何軒もあるから大丈夫だと思うよ」「政権も変わったし、ダム建設なんて終わったんでないの?」「そんなことしたら、この土地の者の仕事がなくなってしまうよ」
 タクシーは雪道を走り抜け、滝川の街に着いた。一軒目の、うらぶれた情けないビジネスホテルに空きがあった。タクシーの運転手にお礼を言い、やはり建物同様にうらぶれたフロントのおじさんに聞いてみた。「この辺、お風呂屋さんはありますかね? スーパー銭湯でもいい」「この街には風呂屋はありません。昔はあったけどね。でも、このホテル、部屋にお風呂はありますけど」「いや、ユニットバスは嫌いなんで……」と言い残し、私は狭いシングルルームに入った。
 夕食は、札幌のコンビニで買ったおにぎりと冷え切ったお茶。一人しょんぼりしながら、低い薄汚れた天井を眺め、ため息をついた。今日も疲れた、と思った。睡眠剤を口に放り込み、そのまま歯も磨かずに寝床に入った。

2月18日/滝川〜旭川〜留萌〜増毛

 滝川から旭川に向かう。約1時間。今日は増毛に行く。増毛には、8年前に泊まったことがあるバックパッカー宿がある。が、万一「冬期休業」の可能性を考え、宿に電話し予約を入れておいた。「夕食は、どこかで食べて来て下さい」と言われた。
 良い天気に誘われ、気分を変えるため、旭山動物園まで行く気になった。旭川駅からバスに40分位揺られ、開園の10時半より1時間近く早く着いてしまったのだが、ゲート前にはもう長い行列が出来ていた。寒さに凍えながら行列に並ぶ。「別にペンギンの行列なんか見てもしようがないよ」と思ったが、一番人気の「ペンギン達のお散歩」をやはり見てしまう。豪快なのはシロクマの遊泳だった。「ふむ、これが人気の秘密か?」と思った。日本人ばかりではなく、中国人や韓国人の団体がゾロゾロいた。

旭山動物園のシロクマ君の豪快な遊泳。迫力はあるが寒い。毛皮が欲しい

 動物園を早々に引き上げ、旭川の一流ホテルの喫茶店で時間をつぶし、16時30分、旭川発の増毛行きに乗る。最終列車だ。乗客は留萌で全員が降り、また車中は私一人になった。暗く重く、荒れた日本海が見えてきた。18時50分、増毛駅着。この終着駅にも駅員がいない。駅前にも誰もいない。この光景にも慣れた。ワンマンカーの運転手が時計に目をやり、「出発シンコ〜」と一人ごとのように言った。さっきまで乗っていた列車が雪の中に消えて行くのを、私は心穏やかに見送った。
 駅前から宿までの風景は素晴らしかった。レトロな漁業関係の倉庫が、深い雪の中に並んでいる。「この街すてきだな」と、歩きながら思った。もちろん通りは誰もいなかった。
 今夜の宿の客は私一人だった。オーナーは私のことを全く覚えていなかった。「この辺に銭湯か温泉ありませんか?」といつものように聞く。「ここから30〜40分歩いたところに、ホテルの温泉があります。行くなら車で送りますけど」「いえ、歩きます」「雪は降っているし道は凍っているし、大変ですよ」「歩くの好きですから」「では途中で困ったら電話下さい。車で迎えに行きます」「ありがとうございます」「ちょっと寒いかもしれませんが、夜は湯たんぽを使って寝てください」
 古い倉庫を改造した宿だから仕方がないのだろうが、すきま風が通りやすく、全体が冷え冷えとしていた。部屋には古い石油ストーブが赤く燃えているのだが、あまり暖まらない。石油の嫌な臭いが部屋に充満している。トイレは寒い廊下を渡って、階下まで降りて行かねばならない。「参ったな……。とにかく早く温泉に入って来よう」と思った。
 日のとっぷりと暮れた外に出、右手に日本海の荒波を見ながら、誰もおらず、時折自動車が走るだけの道をひたすら歩いた。温泉代500円。別に特筆するような温泉ではない。帰り道、林の中でキツネとあった。「凄い、感動だ!」と思ったなんだかあの寒い部屋に帰る気がしなかった。
 この宿は、夜にオーナーと客との「親睦会」をやっている。今夜の客は私一人だし……」と思っていた矢先に、オーナーからお呼びがかかった。「いや、僕一人だし、お構いなく」と言ったのだが、「まあまあでも、この宿の……」というので、重い腰を上げ、談話室に行った。
「明日は稚内に行くつもりなんですが、旭川まで来た道を引き返すのはちょっとつまらないので、サロベツ原野をバスで渡ろうと思うのですが」と、一杯450円のビールを飲みながら聞いた。「この時期、バスって走っているのかな?」「この地図では路線が引いてありますけど……」「ちょっとネットで調べてみます」
 しばらくして、「明日、朝7時45分のバスで留萌まで行けば、そこから幌延経由で豊富までのバスが、一本だけありそうですね」という答えが返ってきた。
「それは面白そうですね。日本海を延々と見ながらですね」「でもその後、宗谷本線の豊富駅で、稚内行きの列車は4時間待ちですけど」「待つのはなれています。挑戦します」と私は張り切って言う。「列車で旭川経由の稚内行きの方が、安全で楽なはずですけどね」と彼は忠告してくれたが、私の決意は固まっていた。
 調べものが一段落すると宿主は、「では恒例なんですが、一曲聞いて下さい」と、酒も飲まずに言う。以前に来た時と全く変わっていない。「このオーナーは、ただギターを奏でて人に自分の唄を聞かせたいだけじゃん。久しぶりの客だから張り切っているんだろうな」と思ったら、皮肉が言いたくなった。「私、長いこと音楽関係の仕事をしています。それでも歌いますか?」しかしオーナーは平然としてギターのチューニングを始め、「では吉田拓郎の『旅人』を歌います」と告げた。これには思わず笑ってしまった。普通なら、リクエストくらい私に聞いても良さそうなのに。まあ、悪気はない。
「俺、吉田拓郎って嫌いなんだけど……」と、また皮肉を言うがやはり通じていない。ただ人前で歌いたくって仕方がない人なのだろう。次はビートルズのナンバーが続く。疲れているせいか、ひどいギターと声に聞こえて、焼酎がまずく感じてしまう。「お手前、なかなかのもので。ありがとうございました」とお世辞を言い、私は早々に部屋に引き上げた。

増毛駅から、客は誰も乗っていない電車が折り返して去って行った

2月19日/増毛〜留萌〜羽幌〜豊富〜稚内

 朝、「食事ですよ」という声で目が覚めた。外は深々と雪が降っている。談話室にゆくと、私一人分の朝食が用意されていた。宿主が「平野さん、私、仕事に行きますので見送りは出来ませんが、よい旅を!」と言い残し出掛けて行った。会計は昨夜に済ませてある。誰もいない宿で一人朝食を食べ、ザックをかついで宿を出た。「今日が最後の行軍である。銀世界のサロベツ原野縦断だ」と思ったら、ちょっと緊張した。
 増毛〜留萌〜羽幌までの2時間は、それなりに病院通いのお客さんもいたし、雪は降っていたがそれほどではなかった。羽幌を過ぎるあたりから、天候がさらに崩れ、ブリザードになった。この時点で客は私一人。「萌えっ子バス」という愛称のついた、バイオディーゼル燃料で走るバスは、日本海沿岸を北へとひた走る。途中、運転手がなにやら無線で「この天気で走れますか? どうぞ〜」なんて話していた。まさか「バスはもう走れません。ここで降りてください」とは言わないと思うが……。ここはアフリカの奥地ではないのだから。
 どこまで行っても吹雪はおさまらず、期待していた雪の利尻富士の景観を見るどころではない。バスが目的地まで行けるかどうか。地面も空も雪に覆われた一本道、対向車はほとんどない。バスは真っ白な世界をただただ走る。ワイパーにすぐに雪が積もる。この真っ白な光景をバスは、たった一人の客を乗せ奮闘している。
 昨日は「挑戦してみます」なんて大見得をきってみたものの、このバスの終点の豊富駅で4時間、稚内行きの列車を待たねばならないことが、次第に不安になってきた。まさか無人駅ではないだろう? どこかに寒さをしのぐ場所くらいあるよな? と、神に祈るような気持ちになってくる。思い切って運転中のドライバーに聞いてみた。「運転中すみません。豊富まで行ってそれから宗谷本線で稚内まで行くので、豊富駅で4時間の待ち合わせなんですが、暖をとる場所はありますよね」
 運転手は驚いた顔をした。「お客さん、豊富温泉に行くのかと……。何でまたこのバスに乗ったのかね?」そういえば、留萌からずーっと同じこの運転手だった。「いや〜、真冬のサロベツ原野を縦断したくて……」「夏は花とか海がキレイで観光客も多いんだが、こんな真冬にバスに乗る人は珍しい。大丈夫、豊富には駅舎の中に喫茶店がある。そこで待てばいい」と言ってくれた。今回の旅の中で一番勇気をもらった言葉だった。この運転手に感謝状をあげたいくらいだった。私はさっきまでの不安はなくなり、とても元気になった。「でも凄いですね、この雪。ありがとうございました」とお礼を言い、席に戻った。

サロベツ原野。日本海の荒波と風に立ち向かうエコ風力発電

 サロベツ原野を縦断するこの路線バスは、冬場は一日一本しか運行していない。4時間あまり、宗谷本線豊富駅に向かうのは、ワンマンカー運転手と私だけ。私はただ、真っ白な大地と、どこまでも灰色の日本海と、重たくよどんだ空をぼんやり見ている。強い北風に吹かれた風力発電の羽根が、ビュンビュンと激しく回転している。
 12時半頃、バスは豊富駅に着いた。駅前には「ようこそ豊富温泉に」とアーチがかかっている。4時間もあるなら、うまく行けば温泉に浸かれるかも、と思い、バスの降り際に、「4時間で豊富温泉に入って帰って来れますか?」と運転手に聞いてみた。「ちょっと遠いから無理だな〜」と、気のない返事だけが返って来て、運転手はどこかに消えた。
「おい! ちょっと待てよ。あの吹雪の中、たった二人だけであのサロベツ原野を4時間もかかって乗り越えてきた仲じゃないか? もう少し親切、というか連帯感を持っていいんでないの?」と思ったが、もう運転手の姿は私の視界から消えていた。
 駅舎に入ってみると、なんと駅員がいた。「凄い」と、思わずつぶやいた。駅の隣には、申しわけ程度の喫茶店が営業していた。数名の客がいた店内は暖かかった。彼らは列車を待つ人達ではなく、この土地に住んで憩いに来ている風だった。
 私が席に着いても、全く無視されっぱなしだった。店員も、注文を取りにきやしない。みんなが注目しているテレビでは、バンクーバーオリンピックが映し出されていた。フィギュアの日本人選手の靴紐が切れたのどうの騒いでいる。私が、雪の中、4時間もかけてここまでやって来て、暖かいコーヒー一杯をどれほど待ち望んでいたか? 「注文ぐらい取りに来いよ!」と怒鳴ってやりたかったが、それよりも、こんな日本の最北端近くまで来ても、人々は東京と同じ、オリンピックのテレビにしがみついている光景の方が何か不思議な気がした。この画面の中の騒動が一段落するまでは、コーヒーが飲めないことを覚悟した。
 待ち時間4時間は長い。荷物を喫茶店に置かせてもらって街を一周するが、なんにもなかった。なんと喫茶店は駅にあるだけだ。駅前探索は10分で終わった。喫茶店のおばさんに、やはり「豊富温泉に行ける時間はありますかね?」と聞いても、「う〜ん」と言ったまま何も返ってこない。不思議だ。とにかく冬の旅人に北海道人は優しくない。私はもうコミュニケーションをとることすらあきらめた。
 豊富から稚内までは4駅である。稚内は以前、礼文島を旅したときに立ち寄っている。ホテルがちゃんとあることは知っていたので、今夜の泊まるところは安心している。今晩は最後の宿泊地だし、一番高いホテルに泊まってやろうと思った。列車を待つ時間はひたすらノートPCに向かい、字を埋めていた。

 夕方、豊富駅から列車に乗り、稚内には1時間足らずで到着した。駅構内の観光案内所で、旅の疲れを一挙に取れそうな高級ホテルを探してもらった。「温泉があって、稚内港が見わたせて、料理がおいしいところ」と、思いきりワガママな注文をした。
 港が見下ろせるホテルに投宿。10階に温泉露天風呂がある。雪が激しく乱舞し、露天風呂を照らす照明が怪しく私を映し出す。ついに終着駅制覇の旅もこの稚内で終わる。「よくやった」と、独り、自分を誉める雪の中。疲れた。疲労困憊。65歳、老人パッカー一人。

日本最北端の市・稚内の夜景。なんか昭和の香りがするいい街だな

2月20日/稚内〜東京

 目覚めると、時計の針はもう10時を回っていた。カーテンを開けると、北国のまぶしい太陽が差し込んできた。今日は飛行機に乗って、約2週間も私を苦しめた北の大地とおさらばする。もうこれで、疲労や不安、寒さや孤独に震えることもないのだ。
 昼過ぎに稚内空港を飛び立った飛行機は、わずか2時間足らずで羽田に着いた。

エピローグ

 さて私は、「無茶」ということを含めて積極的な旅を選んだわけだ。私は北海道が大好きだ。多くの北海道出身の連中が「随分無茶な旅をしましたね」と言ってくれた。それがたとえ地獄に通じる道であっても、どこかで全うしたいという意識が全身を支配していたような気がしている。
 苦難の道は弱者の無難な道とは違う。旅には規則はない。「観光」と「旅」の違いは、まさにそこにあると思っている。命を落としてまで観光する奴はいない。また、旅とは探検家の行程とも違う。綿密な計画や準備は必要ない。今回の北海道の旅は、確かに60歳を過ぎた私にとっては辛い旅であった。
 私たちが旅に求めるもの、それはシステム化された自分の人生に対しての反逆なのだろう。最後に、私の好きな言葉を記して終わろうと思う。

「人は書斎で自分の実存を体験できない。行動して、自分の存在と深く関わる重大な選択の前に立たされて、初めて実存を体験する」(19世紀の大哲学者・キルケゴール)

このペンギンに癒されて、編集の期間もなんとか乗り切れました(Rooftop:やまだ)

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→