「鉄オタ」の次は「バスオタ」への道!?
先月・先々月号と書き続けていた「厳冬の北海道終着駅制覇の旅」の興奮が、まだ覚めていない。あれからもう1カ月経った。世に潜む鉄道オタクでさえも、私がやった今回の旅に、少しだけど驚いてくれる。「道内の終着駅完全制覇はそれほど珍しくないけれど、真冬で、それも最終列車で行って、アポなしでその終着駅で泊まるなんて。多分そんなことをやりきった鉄道オタクは相当少ないはず。ましてや、年を食った、鉄オタでもない平野さんが制覇したのがスゴい。原稿も旅のリアリティが伝わって面白かったですよ」と、各方面から誉められた(笑)。
私の古くからの友達で、よねざわいずみちゃんという、元・共産趣味者で鉄オタがいる。ある事件があって、4〜5年近く疎遠だった。その彼女が「ぜひ、平野さんの北海道の旅の話を聞きたい」と、私の掲示板のオフ会にやって来た。彼女の名前は漢字で書くと「米沢泉美」で、日本全国の鉄道の駅名で、「米」「沢」「泉」「美」を含む、すべての駅を乗下車制覇したそうだ(ちなみに、「泉」の字が必ず付く温泉名の駅も入れると、全国で366駅もある)。
酒席でひとしきり今回の旅について語った後、私は、彼女に次のテーマを伝えた。
「それでね、次は“日本縦断路線バスの旅”を考えているんだ。まずは長崎あたりを出発点にして、路線バスだけを乗り継いで最北端・稚内まで行ってみたいんだ。どうかな」「またそれも凄いですね。平野さんのことだから、多分まったく計画性がなく、その場の判断だけで今回の北海道の様にやるつもりでしょ(笑)。でもそれだと、ほとんど無理に近いと思う。もしやるんだったら、私がTwitterで全面フォローします」と言われた。
「これってどのくらいの日にちがかかるんだろうか? 第一、路線バスだけをつないで、日本縦断なんてできるんだろうか? 例えば、新宿から路線バスだけを使って横浜まで行くのさえ大変なのに……」
「え〜と、新宿から横浜に直接向かう路線バスはないですね。多摩川を越えなきゃいけないし……。都会でも大変なんだから、バスの本数が少ない地方だと、時間は相当かかるな〜」と、同席していた誰かが言った。
「もちろん、その路線バスの切れたところから次のバス停まで歩いて行かねばならない場面はたくさんあるだろうな。でも、もしこれをやったら、平野さんバスオタの中でもヒーローになれますよ」といずみちゃんが言う。「う〜ん、挑戦してみようかな? 歩くことには熟練しているし……」マッコリの酔いも手伝って、私の気持ちは大胆になっていたが……。
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我が師匠・米沢泉美。またどこぞの駅を制覇して喜んでいる。まさに鉄オタ……
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浅川マキさんのお別れ会「浅川マキがサヨナラを云う日」。ジャズの名門・新宿PIT INNにて
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夜が明けたら……浅川マキさんの死
今年の初め、歌手・浅川マキさんが死んだ。1月17日のことだった。その彼女のお別れ会があるというので、3月4日、新宿PIT INNに足を向けた。
私がマキさんを知ったのは、もう30数年以上前の事だ。マキさんとはゴールデン街で何度か飲んだことがある。その頃はもう、あれほど高揚した学園闘争も下火になり、連合赤軍の同士殺しリンチ事件もあって、重苦しい、暑い夏が続いていた時代だった。
当時、浅川マキは「アングラの女王」と呼ばれていて、知る人ぞ知る人気があった。
私が72年に初めて作った店、ジャズ喫茶・烏山ロフトのエンディング曲は、マキさんの『カモメ』だった。小さな夜明け前の店にこの曲がかかると、みんな帰り支度をした。「もう、東の空は明けて来たよ〜。店閉めるよ〜」と、私は食器を洗いながらみんなに告げ、誰もいなくなった店で、私はこの日最後のレコードの針をあげ、今日の売り上げの計算をし店の外に一人出る。
28歳、バツイチ……若かった。かみさんとの悲しい離婚と、その後の子供の取り合いに疲れきっていた時代だ。「もちろん俺が悪かったんだけどさ、本当に彼女は私一人を残して、新しい男の所に行ってしまった。愛していたのに……今でもさ」。
私が中央線の西荻窪に、当時東京では絶滅してしまっていた「ライブスポット」を作った理由の一つとして、浅川マキをライブで観たいというのがあった。当時(1973年)の私にとってのスターは、浅川マキ、高田渡、友部正人、そして山下洋輔トリオだった。
ちょっと大げさに言えば、彼らの演奏を観たいから店を構えた。無理をして生ピアノも大型スピーカーも買った。私は、マキさんと彼女のマネージャーに会いに行った。新宿のゴールデン街で、二人は私を待っていてくれた。彼女は、「そう〜、平野さん、ライブができる店を作ったんだ〜。いいよ、やるよ」と快く言ってくれた。次の週、マキさんとマネージャーが店を見に来てくれた。
マキさんは、歌う前にたくさんのタバコを吸った。「そうなのよ、こうやってノドをタバコで荒らして、かすれ声を出さないとハスキーボイスにはならないのよ」って言っていた。彼女は努力の人だ。いつか、尊敬するビリー・ホリデイになるんだ、と言っていた。マキさんのライブの日、とにかくお客はたくさん入った。私が本格的なライブ空間を作って、初めての大入り満員のステージだった。
彼女はそれからも何回かロフトで歌ってくれた。そしてあれから長い年月が経った。浅川マキさんの周囲には、いつもたくさんの優秀な音楽家がいて、バックバンドを勤めていた。山下洋輔、中村誠一、渋谷毅、向井磁春、板橋文夫……そう、彼女はいつだって、自分の音楽を本当に大切にしていた。
私はいつか、もう一度だけでいいから浅川マキをロフトでやろうと思っていた。昨年、なぜかそんな思いが通じて、浅川マキさんから人づてにメッセージが届いた。「平野さん、今、私、仕事が少ないのよ。ロフトでもやらしてよ」という、不確かだがそんなメッセージだった。ついにそれも実現せずに彼女は逝ってしまった。
ご冥福を祈ります。
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春爛漫、いい日旅立ち。ひつじ雲を探しに、仕事とかしがらみとかぶっ飛ばして遠くに出よう!! 神代植物園で色とりどりの花に囲まれる。桜はあまり綺麗じゃなかったな
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やっとうららかな春爛漫の様相になってきた。桜の花はもうほとんど散ったが、私が住む世田谷の住宅地の路地は、どこに行ってももう色とりどりの花だらけだ。春はいい。微笑するしかない。道行く女性はそれぞれがキラキラ輝いている。猫もひなたぼっこ。出し抜けに友人宅を訪問しても暖かい笑顔に会える。
今月の米子
太ったな〜。精悍さがなくなった。米子、アメショー、4歳、メス。普通の野良猫の寿命は4〜5年とか。飼い猫はキャットフードのおかげで最近は14〜15年まで生きるという
ロフト35年史戦記・21世紀編
第51回
新宿LOFT 30th Anniversary(2005〜2006年)
ロフトがロックのライブハウスとして誕生してから早30年を過ぎた。ロックは誰にでも出来る。楽譜が読めなくっても、楽器がうまく弾けなくってもだ。アマチュアでもプロでも、音楽の才能の差で規定することなく、誰でも参加できて日常的に発信している空間が、町中にあるロックのライブハウスだと私は思っている。
「バンドやろうぜ」という言葉はあっても「クラシックやろうぜ」とは誰も言わない。「今やクラシック音楽やジャズと共に人畜無害な観賞用音楽になってしまった」と、現在のロックのあり方をどれだけ嘆こうとも、ロックミュージックは時代の最先端で進化し続けている。新宿の地下室に根を張った小さなライブハウス新宿LOFT。2006年、その新宿LOFTは30周年を迎えたのだった。
新宿LOFT前史──はじめはロック居酒屋だった
その頃、Naked Loftもできたばかりだったし、相変わらず私の興味は「トークライブ」の方に向いていた。そんな自分に、ロフト30周年のことが書けるはずがない。しかし「ロフト35年史戦記」と銘打っている以上、スルーすることはできないし……。
そんなことをつらつら考えていたら、事務所にロフト現社長の小林茂明氏と、このロック業界に長いスマイリー原島氏がいたので捕まえた。
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2006.02.06 セッション
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新宿厚生年金、武道館、そして……
平野「振り返ってみると、ロフトは節目節目で大々的なイベントをやっているよね。『俺は○周年とかは興味ないんだよ』って常々言っているんだけど(笑)。新宿LOFT10周年は1986年6月1日に、新宿厚生年金会館大ホールでやったのか。俺はその時日本にはいなかったけど。シーナ&ザ・ロケッツ、ルースターズ、BOφWY、ゼルダ、パーソンズ、宙也&De+LAXか。原島がヴォーカルをやっていたアクシデンツの名前もある。その前の10日間でも、西口新宿LOFTでハートビーツとかケラ、ミチロウ、リザードなんかが出演しているな」
原島「新宿LOFT10周年の頃は、まさに日本のロックがようやっと市民権を取れた時代だったね。決定的だったのはやはり、ロックだけでなく、パンクまでもをポップスの地位にまで押し上げたBOφWYのブレイク。一挙に日本の音楽シーンに巨大な痕跡を残した」
小林「この頃は、まだ俺は食えないロック好きの一アルバイトだったから、何の発言権もなかったな。楽屋でケータリングかなんかやっていたような気がする」
平野「その頃のスタッフ、実は今のロフトには誰もいないんだよね。次の新宿LOFT20周年は、武道館を借り切って12時間ぶっ通しのライブ、参加ミュージシャン150名、1万枚のチケットが15分で売り切れ。って、結構すごいことだよね。正確には1996年が20周年だけど、武道館は翌97年7月24日か」
原島「90年代に入ると、ロックは日本の音楽状況の中では完全に認知されて、イカ天、ホコ天ブームがあり一つの社会現象にもなっていった。90年代後半になると、市民権を得たロックが大きく分散化されていった。その頃から2000年代前半にかけて、ロックは一番先が読めない時代に突入するんだ」
平野「それってどういうこと? インディーズ時代に入ったということ?」
原島「バブルの熱狂が終わって、日本経済が沈み込み始めたのと平行して、ミリオンセラー連発の時代も過去の話に。PCなどの技術も一気に革新して、誰でも安価に自分のCDが出せる時代になったのも大きいよね」
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2006.04.11 Zi:LiE-YA
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2006.04.16 サヨコオトナラ
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もはやドームでやるしかない!?
平野「2005年春頃に、小林からロフト30周年について相談されたんだよね」
小林「実は新宿LOFTは来年、30周年を迎えます。どうしましょう?」
平野「本当にお前は記念事業が好きだな。そんなのただめんどくさいだけじゃないか? あのな〜、“老舗”とか“登竜門”だとか、『そんなのしゃらくせ〜』っていうのがロックの基本だろ?」
小林「また、お古いことを。まさか、何もやらないわけにはいきませんよ。ロフトとロックは、今や歴史なんですよ」
平野「俺は今、プラスワンに続いてトーク中心のNaked Loftまでできて、とてもじゃないが音楽のことはほとんど関心がない。ま、よきにはからえ、ってことだ」
小林「……で、ですね。10周年は新宿厚生年金会館、20周年は武道館で12時間ライブ。それで、今回さらにスケールアップするのであれば、ドームか、どこか球場でも借りてやるしかないと……」
平野「基本的に俺は何も手伝えないし、そういうイベントに興味もない。って答えたんだよな」
小林(笑)
平野「でも、あの野音の新宿LOFT立ち退き抗議イベントや、武道館をやりきった小林さんだし、ひょっとしたら……、っと思っていたけど。やろうと思えばできた?」
小林「そうですね。できたと思いますよ。でも、悠さんとは意識は違うけど、ロフトと直接縁のない、ドームやスタジアムでやることにロマンを感じられなかったんですよね。厚生年金は新宿だし、武道館や野音は一応、“ロックの聖地”的なイメージがありましたからね」
平野「それで、歌舞伎町にある新宿LOFTのすぐそば、新宿コマ劇場を何日か借りてやるのが一番面白いかも、ということになったと」
小林「そうなんですが、これも予算が合わなかったのと、全席椅子席だったり、規制が多すぎて断念した。予定調和ではない、突然何か起こりそうな雰囲気はないから、ロックの会場としては不向きだったんですね」
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2006.06.04 BOWWOW
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2006.06.06 森若香織
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一年間かけて30年間のロックの歴史を見せてやる!
平野「まあ、祭りってどこか破天荒な演出が必要だよな」
小林「それで、ロフトの若いスタッフや店長に相談したんですよ。そうしたら、『1年間ぶっ通しで新宿LOFTでやりたい』という意見が出てきた。それも、30年前から現在に至るまで、いろんなバンドのライブを、って」
原島「俺はこの企画のブレーンとして入っていたんだけど、30年間の日本のロックシーンをリアルに感じられるラインナップを1年かけて見せるといったって、とても難しいんだよ。オープンの頃なんて、悠さんしか知らないバンドもたくさんあったし、解散したバンドなんて数しれずだし。現在の連絡先もわからなかったり、中には亡くなってしまっているミュージシャンだっているしね」
小林「結局、2006年1月から12月まで、毎月10日ほどを“ROCK OF AGES 2006”と題して、新旧さまざまなライブを組んだ。新宿LOFT以前の、西荻窪、荻窪、下北沢ロフトの出演者群は、自分ですらほとんど触れる機会はなかったから、そういう古き良き時代のミュージシャンにも、30周年を機にアプローチしてみたかったんだよね」
平野「今、30周年スケジュールを見直しているんだけど、凄いな。今の若い連中は知らないバンドも多いだろうけれど……」
小林「それから大手レコード会社に呼びかけて、コンピレーションアルバムを作ることになった。メジャー5社が参加してくれて、5社から5タイトル10枚のCDを発売することになった。全150曲を一挙にリリースしたんですよ」
平野「これも凄いな」
原島「CDデザインは横尾忠則さんですよ。この人以外考えられなかった」
小林「さらに『ROCK IS LOFT 1976-2006』(ぴあ)という30周年記念本も出した」
平野「どうも、こういう記事って何か自慢話ばかりしているようで気色が悪いな。それでこの事業は成功したの?」
小林「ひどいことを聞きますね(笑)。この日のために再結成してくれたバンドなんかもたくさんあったから、それはなかなか意味があったと思う。ただ、まるまる一年間、昔のバンドを中心にスケジュールを組むことで、新しいバンドを発掘する仕事がおろそかにもなったかもしれない。でも、当時のロフト店長を始め、現場スタッフなんて、ロフトができた頃はほとんどがまだ生まれていなかったわけで、昔のバンドに触れ合うことによって勉強になったのは間違いない。途中からは、新旧取り混ぜというか、今、ロフトあたりのライブハウスで頑張っているバンドと、昔のバンドの対バンも積極的に組んで行って、お互いが触発出来るようにしたりもして」
平野「まあ、こんなことができるのは夢のようだな──」
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2006.07.03 曽我部恵一BAND
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2006.07.03 遠藤賢司&カレーライス
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2006.09.07 フラワーカンパニーズ
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実は長年、トークにしか興味がなかった私が再びロックに目覚めたのは、2006年のロフト30周年記念イベントと、フジロックやエゾロック(ライジングサン)などの野外フェスがきっかけだった。それまで聞いたこともなかった、サンボマスター、怒髪天、銀杏BOYZ、フラワーカンパニーズ、ゆらゆら帝国、曽我部恵一BANDなど、一連の「爆音バンド群(このネーミングは私が勝手につけた)」と出会ったのが大きい。彼らのライブを見て、「おっと、時代は変わった」と痛感したのだった。
『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/
ロフト席亭 平野 悠
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