第146回 ROOF TOP 2010年6月号掲載
「おじさんのIT革命」

時代の変化について行けないということは老いぼれを意味する?

 なんということか? この歳にして新時代のIT革命(今さら「IT革命」とは、なんと古いことよ・笑)の流れの中にどっぷり浸かってしまっている。
 それは今年3月末に、長い間使っていた携帯電話をiPhoneに変えたのが始まりだった。初めてこの「スマートフォン」と呼ばれる次世代型携帯電話を使ってみて、やはりぶっ飛んだ。「凄いな。これってまるで、電話機能がついた小型携帯パソコンではないか」と驚いた。音もいい、画質もなかなかだ。
 そしてさらに私は、今流行のTwitterに見事にはまってしまった。毎日Twitterをやるために、パソコンやiPhoneに5〜6時間も向かい合っていた。頑張って、ちょっと内容の濃いことを書くと、一瞬にして「このツィート(つぶやき)が面白い」と多くの人がRT(リツイート ※他のユーザーの投稿を再投稿すること)してくれる。瞬く間に、私の記事を読んでくれるフォロワーは2000人近くになった。
 さらに、第三弾はiPadだ。アメリカの留学先から長期休暇で日本に帰ってくる息子に、「買って来てくれ」と頼んでおいたのが手に入ったのだ。またこれが凄いと思った。アメリカでも品薄で、ニューヨークで30分も並んでやっと買えたそうだ。
 さらには、自分が使っているパソコン2台(ノートとデスクトップ)を、まとめてMACの最新鋭機に買い替えることになった。そして「私のIT革命」は、Ustreamとニコニコ動画の生中継システムにまで至ったのだった。


まだ日本発売前のiPadを手にして喜ぶ平野さん

Twitterの魅力と問題とは?

 雑誌やテレビの特集でもしょっちゅう取り上げられているし、誰もがTwitterで盛り上がっていることは知ってはいても、私はあまり興味はなかった。自分には管理人の「おじさんとの語らい」というBBS(掲示板)があり、もう10数年続けていて愛着がある。この板では、過去何度も論争があり、一日のアクセスが2000を超えた日も何回もあった。私の板を愛する多くの人たちが支えてくれて現在がある。
 ブログは自身が何か魅力ある文章とテーマを見つけないと誰も読んでくれない。また、ブログにはコメント欄があるけれど、どこか一人ぼっちの感じが否めない。ブログを書く側も、愛想を持ってコメント返しをしてやらないと読者はどんどん減少して行ってしまう。
 今、悲惨なのはmixiのブログだ。一時「mixi疲れ」という言葉まで出てきたりもしたが、今や、あれほど隆盛を極めたmixiは、Twitterにその王座を奪われてしまった感がある。
 さて、世界的に爆発的流行しているTwitterの魅力とはなんだろう。Twitterは、セレブや政治家、マスメディア、ブランドまで巻き込んで、今や一大情報発信基地になっている。例えば、誰もが鳩山首相やタモリのつぶやきを知ることができたりする。ちなみに外国では、一部の政治家にはTwitter専用班が何人も控えていて、一日何十万というアクセス(そのほとんどが苦情)に逐一対応しているそうだ。
 Twitterには、発信できる文字数が140字以内という制約がある。mixiは、参加するのに「招待」が必要だったり、共通の趣味などを持つ「マイミクシィ」を増やすのがひとつの楽しみだったりと、基本的関係性が「お友達」だった。対してTwitterの場合、関係性は薄く気軽なものだ。mixiの「マイミク申請」のように、相手から関係性を強要されることはない。それでいて、誰かが自分をフォローしてくれている、という安心感、みたいなものはある。このフラットな関係性こそが魅力なのだろう。
 しかし、Twitterをやり続けていると、いつしか情報の洪水の中に入り込み、本当に必要な情報が取り出せなかったリもする。さらに、自分がフォローされたからといっても、別に相手をフォローする義務はない。厄介なのは、「フォロー」の人数だけを競うアホな輩が増えてきていること。当然ながら、Twitterはフォロー、非フォローを争うゲームではない。発信する内容の問題は重要だ。関係性が希薄なはずなのに「今娘が保育園から帰るなう」なんていう発信が多い。そういうときはフォローを外せばいい。


MAC OS X10.6.3、iPhone、MacBook Airの新製品を手に入れて喜ぶ平野さん。合計50万近くの投資だ。つらい

誰でもできる世界へ向けた動画生中継

 5月16日(日)に新宿のNaked Loftで、「ポスト噂の真相プレゼンツ 普天間移設問題と沖縄」(出演:岡留安則(元『噂の眞相』編集長)/保坂展人(元社民党衆議院議員)/宮台慎司(社会学者))というイベントが開かれた。
 この日、Naked LoftはこのイベントをUstreamとニコニコ動画で生中継した。会場は、立ち見まで入れても定員が約60人。さらにこの問題に関心ある約3万人弱の人々が、インターネットを通じて生中継を見てくれていた。この興奮を、保坂展人さんはイベント終了後にこう語っていた。
「ロフトのイベントは、実は、私的には最も疲れるイベントです。ビールを飲みながら息を凝らして聞き入るお客さんが目の前にいる。しかも昨晩は、さらにカメラの向こうに3万人ですよ。地上波テレビのスタジオより、ずっとプレッシャーがあります」
 これはまさに、フリーの時代の典型ともいえるイベントになった。99%の無料客(=無料動画での視聴者)に対して、1%以下の有料客(=ライブ会場にお金を払って足を運んでくれた人々)が、このシステムを支えているということになる。
 このように、「基本的に無料でサービスを提供しつつ、付加価値のあるさらに高度なサービスについては、有料とする」というようなシステムを、「フリーミアム(フリー+プレミアムの造語)」と呼ぶらしい。Nakedの例で言うと、番組自体は無料でweb上で見られる。しかし、ライブ会場で直接目のあたりにしたければ、入場料なり飲食代がかかる、というわけだ。
 そして、Ustreamとニコニコ動画のライブ中継(=放映)は、パソコン一台とビデオカメラだけあれば誰でも、全世界の人々に自由に発信できる。これは凄い、と思った。
 母の日(5/9)を越えるともう夏だ。気温も湿度も天気も夏まっしぐらだ。赤い自転車に乗り、リュックとカメラを持って風情ある街々を徘徊する。途中、ちゃんと眼を凝らしながら移動すれば、不思議で楽しい光景はたくさん見つかるはずだ。初夏の風に吹かれて、私はただひたすらにペダルを漕ぐ。春先はなんでこんなに女が綺麗に見えるんだろうか? 20年若くなりたいな。そうしたら大きな恋をしたい。老いらくの恋ってなんかかっこ悪い。


5/16(日)に行われたNaked Loftでのイベント風景。Ustreamでのアクセス数は3万弱を記録。60名の有料観客が3万人の無料視聴者を支える。「フリーミアム」、ライブハウス経営者としてはなかなか悩ましい仕組みだ

今月の米子

夏に向かうにつれて、猫はとても臭くなる。体毛もふんだんに抜ける。我が家には4匹の猫がいて、家中、猫の糞尿の匂いがあふれ、毛が空中に舞う。そして猫はワガママだ。だが、猫をうっとうしいと思ったことがないのが不思議だ。どうです! アメショー、メス、4歳。凛々しいでしょ





ロフト35年史戦記・21世紀編
第51回
ライブハウスのスターは誰だ!?
新宿LOFT 30th Anniversary vol.02(2006年)

 先月号のこの連載でも書いた通り、2006年の1年間ぶっ通しで、新宿ロフトでの「ライブステージで30年間を振り返る」という新宿LOFT30周年の企画は、今考えてもなかなか壮観だった。30周年を迎える新宿LOFTとしては今の若いスタッフやロックを愛する全ての老若男女に日本のロックの歴史にも触れてもらいたいという意識もあった。1年間でこの事業に参加してくれたのは総計300バンド近くになるはず。私事のツイッターで「ライブハウスのスターは誰」というシリーズを続けていて、それが評判が良かったのでそこからの抜粋も入れてみた。だから今月は、30thのステージ写真を見ながら、それぞれのバンドについての私観を語りたい。何しろ何十年も前の話もあるので、記憶違いもあると思う。そのあたりはご了承を(当時の現場にいた方は、間違いや追加情報などを指摘してもらえると嬉しい)。

2006.03.09 AUTO-MOD

 ヴィジュアル・ロックの元祖、AUTO-MODのジュネだ。日本のパンク創世記の1981年にAUTO-MODは結成された。その華麗なステージは、日本の先駆的な大人のロック好きや数多くの女性を魅了した。特に、BOφWYの布袋寅泰がギターで、高橋まことがドラムで参加した時のAUTO-MODは時空間を越えていて、もう単なるヴィジュアル・ロックの領域をはるかに越えていた。
 一旦解散したものの、未だにこのバンドは「日本のヴィジュアル・バンドの元祖は俺たちだ!
リスペクトせよ!」って(?)しぶとく生き残っていて、その華麗なステージを見せてくれている。


2006.11.04 THE STAR CLUB

 日本のパンクの大御所・名古屋のTHE STAR CLUB。1977年結成だからもう30年以上も続いているのか。凄いな。もはや生ける伝説と言うべきボーカルのヒカゲは、武勇伝に事欠かない。
 この日本にパンクの在り方を根づかせた彼の功績はとてつもなく大きいと思う。そして、バンド名に込められた“誰でもみんなスターになれるんだ!”というアティテュードはライブハウスを活動基盤とする後進のバンドたちにどれだけ勇気づけたことか。DIY精神を武器に、今も第一線をひた走る彼らの後ろ姿に学ぶべきものは今も多い。


2006.12.10 PERSONZ

 PERSONZのボーカルのJILLは、高校時代からロフトのパンクのライブには必ずと言っていいほど遊びに来ていた。こっそり楽屋口から入ったりして、当時のロフト系パンク・ミュージシャンから可愛がられていたな。彼女はその時代からアマチュア・バンドを作っていたようだ。
 彼女がPERSONZを作る経過は、ほとんど新宿LOFTと同体だった。PERSONZはARBオフイスに入り、1987年のメジャー・デビュー後に大ブレイク。1989年、4枚目のアルバム『DREAMERS ONLY』でオリコン1位を獲得。JILLは女性シンガーとして圧倒的な評価を受けた。


2006.03.09 センチメンタル・シティ・ロマンス

 名古屋から躍り出てきたセンチは、日本でも一番バランスのいいバンドだった。とにかく一人一人がうまかった。だから売れたソロ・シンガーからバック・バンドへ引っ張りだこになって、副業の方が忙しくなってしまったのではないだろうか?(推測だが)
 センチの華麗な都会風ロックにハマり込んだ音楽関係者は多い。その筆頭は「春一番」を主催していた福岡風太さんだ。あのロック業界の重鎮・音楽プロデューサーの牧村憲一さんもハマっていた。
 そんなセンスのいいバンドが、ロフトと長い関係を続けたのも不思議なことだった。でもなかなか売れなかった。ムーンライダースとセンチは、とにかく音のバランスが良く、どこまでも安心して聴けるバンドであった。


2006.03.13 金子マリ

 70年代後半の下北沢ロフトの女性スターは大橋純子と金子マリだった。この店は、下北沢を一挙に演劇と並んでロックの街に変身させた震源地と言って良いだろう。金子マリのお母さんの経営する「喫茶マリ」が下北沢ロフトのすぐ側にあって、マリさんのステージにはいつも割烹着姿の母上の姿がいた。


2006.10.11 サエキけんぞう(パール兄弟)

 荻窪ロフトに足繁く通って、時にはこっそり「無断録音」していたのがサエキけんぞう氏だ。サエキさんは「荻窪ロフトは音質が良かった」と今も言ってくれる。荻窪のスピーカーは大瀧詠一さんの設計と言われていている(自分で憶えていない・笑)。フィリップスの38センチのフルレンジを4発並べただけだったけど。サエキさんは『さよなら!セブンティーズ』(クリタ舎/2007年)という著書で、この頃のことを語っている。


2006.03.12 MARINO


2006.03.09 44MAGNUM


2006.06.08 TENSAW


2006.07.08 EARTHSHAKER


 80年代前半の日本のライブハウス・シーンでは、ヘビメタに勢いがあった。特に関西方面でだ。ロフトは「関西殴り込みギグ」を展開。44MAGNUM、MARINO、EARTHSHAKERが御三家。東京勢で迎撃するは、バウワウ、TENSAW、カルメン・マキ's 5X。しかしこのヘビメタブームは、新興パンクの怒濤の様な進撃にそれほど長くは続かなかった。


2006.03.10 De+LAX

 アレルギーの天才ボーカルだった宙也が結成したDe+LAXに、BOφWY解散直後の高橋まことが加入してメジャー・デビューを果たした。やはりまことは天才と組むと圧倒的な存在感を放つ。BOφWYの時もそうだったように、自称太鼓たたきおやじは天才を支えるのがうまい天才だ。


2006.10.25 ROCK'N'ROLL GYPSIES

 ルースターズはボーカルの大江慎也が去りし後に、ギターの花田がボーカルを引き継いだ(その時点で“THE ROOSTERS”から“THE ROOSTERZ”と表記を変更)。花田がメイン・ボーカルをやる事自体、往年のルースターズ・ファンである私には信じられないことだった。だが、それまで大江の陰に隠れて支えていた花田がそこでどか〜んと飛躍した。ルースターズの解散後、2001年に始動したロックンロール・ジプシーズでの花田はもはや貫禄たっぷりで、今年で50歳を迎える彼が唄い奏でるブルースは、いよいよ凄味を増している。


2006.02.10 鈴木慶一

 1977年のムーンライダースは、それまで間借りしていたあるイラストレーターの事務所を追い出されて困っていた。それでロフトの新宿の事務所に転がり込んできた。このままではバンドを解散するしかないという危機的な状況だった(?)。ロフトの事務所で机と電話一つで仕事が始まり、数ヶ月後にコマーシャル・ソングでブレイク。見る見るうちにお金持ちバンドになっていって、半年後には「どうもお世話になりました」と去って行った。


2006.08.02 スピッツ

 ついに大メジャーの人気バンドになったスピッツがやっと歌舞伎町ロフトに出てくれた。そう言えばスピッツのインディーズ時代はロフトレーベルから『ヒバリのこころ』というレコードを出している。私はこの時代日本にいなくって、そんなこと何も知らないで帰って来ると、スピッツのモノクロポスターとレコードが何百枚と事務所にあったのを平気で処分していた。(今思えば何ともったいないことを)。


2006.03.11 NOTALIN'S

 なんとも初期のどパンク時代の寵児である。デビュー当時は突然「ストリーキング」をやって週刊誌から追いかけられたり、ステージで全裸になってハンドマイクでがなり立てたり、一方では思想家・吉本隆明と対談したり、とにかくアクティブだった。


2006.01.17 カルメン・マキ

 カルメン・マキは、もともとは寺山修司主宰の劇団・天井桟敷の劇団員。1969年、17歳で寺山作詞の「時には母のない子のように」でデビュー。いきなり大ヒット。その後、70年代以降はバンドを従えハードロック路線に。イイ女がハードロックをやるだなんて、当時としてはとても貴重な存在だった。


2006.01.17 パンタ

 超過激派的なイメージのあるパンタだが、実はパンタ自身はとても温厚で優しい人なのだ。だから革命とかは関係なく、素晴らしい歌や曲をたくさん作っている。パンタは酒を飲まないので、他のパンクなミュージシャンとは交流が無かったようだ。アメリカのイラク攻撃が迫る頃、パンタと私たちはイラク戦争阻止の人間の盾になりに行った。パンタの楽曲はそれから凄く進化したと言われている。『オリーブの樹の下で』は、明らかに重信メイ(日本赤軍・重信房子の子供)やアラブで闘っているパレスチナの人々を意識している。


PHOTO BY:鈴木公平 / オオワタリヨウコ / 今田 壮 / アカセユキ / 荒木智絵



『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→