全国的な猛暑になった。夏バテの真っ最中であった8月の10日前後だったか? なんの因果か北海道のコンサートイベンター・WESSが誇る日本最大級の野外イベント、ライジングサンロックフェスのラインナップを見てぶっ飛んだ。特に2日目。真っ昼間の12時半からの矢沢永吉ーエレファントカシマシー山下達郎ー斉藤和義ーBEAT CRUSADERS(9月4日で解散)ーASIAN KUNG-FU GENERATION……。さらにはムーンライダースや向井秀徳やソウルフラワーユニオン、曽我部恵一、相対性理論、THE BACK HORN、ニューロティカまで出演しているのだ。「これは行くしかない! 特に野外での山下達郎がどうしても見たい」と思った。
8月10日で66歳になった。フジロックに参加するスタッフの面々にも、「もう野外ロックフェスは歳だしいいよ」と言っていたばかりなのに、私の身体に火がついてしまった。「北海道は涼しいはずだ!」という固定観念を捨てきれずに、のこのこ参加を決めたのだった。以下は私の、“エゾロック”ことライジングサンへの参加の記録である。
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台風一過、北の大地は夜も暖かく過ごしやすかった
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北海道までの交通手段は全て満席!
突然に参戦を決めたため、急いでフェス事務局に取材申請をした。次に交通手段の確保に入る。夏の北海道に行くくらいどうにでもなるとタカをくくっていた。さらに私には、シニア料金でどんな航空会社でも日本中どこでも1万円で飛行機に乗れるという特権がある。ただし、条件としては「空席があったときだけ」だ。そこが問題だった。
今回のエゾロックは、お盆の真っ最中、日本中が帰省ラッシュの民族大移動の中で行われるのだ。一週間を既に切った時点で、飛行機の空席なんかあるはずがない。それどころか列車、フェリーも全て満席。ホントに現地に行くまでの交通手段がほとんどなかった。
残された手段は、渋滞を覚悟して自家用車で東北自動車道を突っ走るか、もしくは新幹線の自由席で青森県の八戸まで3時間かけて行き、八戸もしくは青森からフェリーで北海道にわたる方法しかない。
私は後者をとることにした。しかし席がなく数時間立ちっ放しということもありそうだ。だから私の介護者(笑)として、フリーライターの吉留大貴氏を誘った。しかしその後、頑張ってネットであれこれ探すと、なんと八戸までの深夜バスの臨時便に、空席を見つけたのだった。
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こんな光景も野外では普通になった。ロックは次代にちゃんと受け継がれて行くのだ
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冬の北海道終着駅の旅を思い出した
吉留と二人で8月11日深夜新宿発、翌11時30分八戸着のバスに乗った。もちろん満員。八戸まで6000円は格安だったが、バスはひどい車体だった。いつ炎上してもおかしくないくらいぼろっちい。トイレは無いし肘掛けもない。街を走っている路線バスの方がまだましだと思えるほどだった。
さらには、帰省ラッシュのまっただ中にぶつかり、新宿から荒川を越えるまでだけで3時間近くもかかった。クーラーは効いているが、足下にはエンジンの回転熱がじわじわ伝わってくる。最悪だ。途中、東北自動車道でも渋滞。運転手が「あと2時間でトイレタイムです」と言っても、渋滞で倍以上の時間がかかる。
14時間かかってやっと八戸につき、すぐに八戸ー函館間の列車に飛び乗ったが、この自由席がまた超満員。5時間以上、列車の中で立ちつくす以外なかった。
夕刻、函館の東横インに投宿。ここでも最悪な事態になった。なんと、私がネットでようやく探し当てたホテルの予約が、セミダブルのベッド一つだったのだ。
どうも「素敵なカップルベッド」を予約したらしい(笑)。フロントもゲイカップルだと思ったのか、怪訝な表情をしていた。二人で絶句し、フロントにかけあったが他の部屋は全部満室。結局は吉留が床に寝る羽目になった。
翌8月13日、フェス初日だ。函館駅前のバスターミナルで、札幌行きのバスの空席が2つだけ見つかった。列車で4時間立ちっぱなしになるよりバスで座って行ける方がいいと、バスに乗り込む。5時間かかって札幌に着いた。もうフェスに参加する前から私の身体はヘロヘロになってしまっていた。
私は、お盆の東京がほとんど空になる時期に民族大移動に加わるのは、ほとんど初めての体験だ。今更ながら疲れ切って、「二度とお盆の時期には動かない」と思った。東京から札幌まで、結局移動だけで24時間以上かかったことになる。今年初めにLOFT BOOKSの『放浪宿ガイド』の編集・今田に乗せられて出かけた、「北海道終着駅の旅」の悪夢再現か? と思うほどめげた。
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なんと悲しいことに、多くのステージは取材でも写真撮影が禁止。多分このくらいならいいんでしょうか? ステージは想像ください……。Charと奥田民生(うひひひ)。もし写真禁止なら次回のエゾは来れないかも?
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ライブ初体験の聖飢魔Uは……
札幌のホテルには16時頃着いた。空は晴れ上がっている。ライブなんか面倒だし、私の目当てはとにかく2日目だ。ホテルの近くはかの有名なススキノ歓楽街がある。寝るか、抜くか、観るか、と相当迷ったが、やはりフェス会場に向かった。連れの吉留はとっくに会場に向かっていた。
会場のコンデションは、前日の台風による大雨の影響でぬかるみだらけだった。ゴアテックスの登山靴を履いてきて良かった。まるで田植えに来ているみたいだ。
18時からのマキシマム・ザ・ホルモンを観たかったが間に合わず、キノコホテルかCharか迷ったが、やはりCharを一番最初に見た。
Charの軽いファンキーなサウンドを聴いていると、なんとアンコールにはあのムサイ酔っぱらったサラリーマンのような奥田民生が出てきた。ビートルズの「Come Together」のカバーは、若いロックファンが多いせいか観衆も興奮もせず、あっけなく終わたように見えた。
次の時間帯は実に迷うところだった。聖飢魔Uか、the pillowsか、向井秀徳かだ。結局、聖飢魔Uはライブ初体験だから、デーモンとやらを見ることにした。KISSばりのメイクと言葉(殺せ、殺す、我が輩は……)のパーフォマンスとヘビメタサウンドが、なんだか時代にマッチしてないと思えた。デーモンのボーカルは凄く、バンドの演奏もダイナミックで好きな人は楽しめるのだろうし、吉留は「フェスの大舞台には誰もが知っているバンドが必要」と言うが、私にとっては苛立って疲れるライブでしかなかった。
時刻は22時近くなっていた。次のスチャラダパーも観たかったが帰りのバスがなくなると思い、札幌市街のホテルに引き返す。疲れて何もする気がしない。シャワーも浴びずコンビニのおにぎりだけ食べて眠剤を口に放り込み、明日の最終日を睨んでベットに入った。
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ライジングが終わって翌日も飛行機が取れず、札幌市内を歩いていたら突然電話が鳴った。山下達郎バンドのスタッフが集まっていて、難波弘之(key)氏や伊藤広規氏から中央公園のビヤガーデンにいるから来ないか? って誘われた。残念ながら達郎さんはいなかったな。
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矢沢、エレカシ、ZAZEN BOYS
翌日。12時半のトップバッターは矢沢永吉。その後、エレカシー山下達郎ー斉藤和義ービークルと続くラインナップは圧巻なはずだ。メインステージから動けないと思った。
快晴。地面のぬかるみは、昨日より大分改善されている。矢沢永吉は、私にとっては初体験だ。同じ時刻「グループ魂」がアーステントでやっているのが恨めしい。
「今日は久しぶりの野外。それも朝12時半からだ。だからね、矢沢、今日はちょっと早く起きて発声練習をしていたんだよ」と、にこやかに語る矢沢永吉がいい。
そう言えば私は、矢沢のステージはキャロルの日比谷野音のフィルムぐらいしか観ていない。もっとつっぱった偉そうな高慢ちきなブクブク太った中年男を想像していたが、これがまるっきり違っていたのに驚かされた。体つきはスリムでボーカルは美しく、どこまでも透き通るくらいのびていて、無駄なMCも言わず、それはかっこ良くシンプルにステージに立っていたのは意外だった。
へー矢沢ってこうだったんだ。素晴らしくかっこいい。が、何か新しいロックンロールに挑戦して、ボロボロになってのステージをやってやるという気構えはない、とみた。当然ながら60歳まで歌手として生き残れるってことは、こうやってスタイリッシュでかっこ良くステージを転がすことなんだ、と改めて思った。
さて次は私の期待するエレカシだ。ZAZEN BOYSを振り切ってまでエレカシのステージを期待した。しかし甘かった。
私の知っているエレカシは、2000年前後の下北沢SHELTERでやっていた頃のエレカシだ。創造と破壊、決して後ろを振り向かないその挑戦に私は感動していた。エレカシ凄い! という確固たる固定観念があった。しかし私にとってのエレカシの今回のライブは、期待が大きかったあまりか、気絶しそうなくらいつまらなかった。これじゃーまるでJ-POPじゃないかと。数年前、やはりエゾロックのメインステージで聴いた元イエロー・モンキーの吉井和哉のステージに対する落胆と似ていると思った。あのエレカシはどこに行った! と心の中で叫んでいた。もちろん途中で離脱。急ぎZAZENの会場に向かった。
向井のバンドは喜びに満ちあふれていた。新しいことに果敢に挑戦しているのが見事だった。アンサンブルが今までにない様相をしていた。次は何をやり出すんだろう? といった期待がどんどんふくらんでいくライブだった。
私の少ないボキャブラリーでは、現在の向井、そして今後の彼らの向かおうとしている音楽世界を表現出来ないのがもどかしい。ただ、私が今ロックに求める何かを一番示しているのが、ZAZEN BOYSなのかも知れない。やはり奴は天才だと思った。
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ロック解放区に官憲介入! 大麻狩りか(笑)!
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29年ぶりの野外ステージに山下達郎ついに立つ!
日が傾きはじめた16時半。私は「俺はこれを見に来たんだ」とばかり、疲れた身体を引きずって前列4列目に立ちつくしていた。それから約1時間、山下達郎バンドのステージを観た。
先に結論から言ってしまうと、やはり彼は今回29年振りの野外ライブに挑戦して良かったと思う。というのは、還暦がすぐそこまで来た達郎さんが、このステージを契機として何か新しいことをやりそうな気がするのだ。
「俺のフィールドは自分の生の声が届くところまでだ」と言い続けていた山下達郎にとって、これまで長いこと愛し続けて来た「中野サンプラザ」と「大阪フェスティバルホール」が、表現の場としては最適だったのだろう。しかし、近年中にその二つの場は取り壊されるという。自分をどこかで守り続けて来てくれた空間がなくなるということは、達郎さんにとっては一つの転機なのだと思った。
今回、山下達郎を野外フェス参加に決起させたもの。それまでの35年にわたる音楽生活。過去の自己との決別を決意した結果の、北海道・ライジングサンへの参加だと思うのだ。この決意の裏側には「いつまで歌えるのか?」(昨年の中野サンプラザでのMC)という焦り(というか自覚なのか?)が複雑に絡んでいると見た。
シュガーベイブの頃の、東大五月祭、夕焼け祭り(ステージに怒号と空き瓶まで投げ込まれる、荒れた、真剣勝負なライブ、ロフト時代での酸欠ライブ)。長いこと自分のフィールドでしか勝負出来ずにいた、自分を省みた結果が達郎さんの背中を押し、今回の29年ぶりの野外フェス出演に繋がったのだと思う。
「安全地帯からの離脱」から「新しい何かに向かう」山下達郎バンド。ライジングサンのメインステージの観客は、圧倒的に若い子が多く、初めて達郎さんのライブを体験するであろう聴衆で埋まっていた。達郎さんにとって、間違いなく今までのライブとは違っていたのだ。とにかく私が知っている──もう30年以上も前か、荻窪や下北沢ロフトの頃──の達郎さんは、とてもアナーキーな男だった。激情もした。政治的発言もしていた。
問題は、今の達郎さんが不特定多数の若い客を前にして、あるいは同時に行われている他のステージの模様の中で、何を思い、残り少ない音楽人生をどう構築しようと思ったかなのだと思う。
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会場で見たこのオブジェはどこかで会ったような気がするが?
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「これからが山下達郎の始まり」
29年振りの野外ライブ。当日のステージでのリハはない。マイクチェックぐらいでライブを始めなければならなかった山下達郎バンドは、それは中野サンプラザとはまるっきり違った環境であったに違いない。
最初の数曲はPAのバランスが悪く、ボーカルが良く聴こえない事態になった。しかしキーボードの難波弘之を中心とするこのバンドは、すぐに軌道修正した。モニターも問題だったのかも知れないが、どこかで張り切り過ぎた達郎さんの自慢の裏声がかすれた場面もあった。達郎さんと難波が思わず顔を見合わせる。しかしこれが、野外ライブの恐ろしさであると同時に予定調和のないライブの醍醐味なのだ。
29年ぶりの野外ライブの挑戦が終わって、色々な貴重な収穫はあったはずだ。その歌手という完璧さにおいては他に追従を許さなかった、山下達郎自身の衝撃は大変だったに違いない。
私は66歳になった。オンボロバスを乗り継いで24時間以上かけて北海道に行って、達郎さんの野外を観て、「これからが山下達郎の始まり」と直感した。それを何とかみんなに伝えたい一心で、この文章を書いている。
高校野球が終わるともう残暑だ。北海道から戻ったばかりの私は、
大腸にあるポリープの手術をした。「成長したガンがヤクザだとしたら、あんたのはチンピラだよ」と国立医療センターの医師から言われた。
私はなぜかすぐ帰る気にはなれず、病院の散歩道を汗をかきながら一周した。キラキラとまばゆいばかりの若い看護婦とすれ違った。この季節にはサルスベリのピンクの花が誇らしげに咲いていて、その遠くに病室で寝たきりの患者と目があった。その病室と私が運命の赤い糸で結ばれているように見えた。
今月の米子
囚われの我が家の4匹のネコ達。みんなブクブク太りやがって、本当にネコらは幸せなんだろうか?
『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/
ロフト席亭 平野 悠
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