復活27回目

2000年1.11プラスワン事件の真相!前編

 2000年1月11日 冬とは思えない柔らかい北風が心地よく町の路地を通 り抜け、新宿歌舞伎町から見る真っ赤な夕焼けが副都心の高層ビルのガラス面 に反射し、新宿一帯をオレンジ色に染め上げていく。
穏やかな真冬のまっただ中の大都会、歌舞伎町の中心コマ劇場の横の雑居ビルの地下2階に世界でも始めてのトークライブハウス「ロフトプラスワン」がある。
この日はどうにも私の気は重かった。何とかプラスワンに行かないでいい理由を考えていた矢先に一方の当事者である連合赤軍兵士の植垣さんから電話があり、「今日のトークの打ち合わせをしたい」という。
このトーク企画が持ち上がったのは昨年の11月であった。しかし12月12日の週間SPA!の鈴木邦男さんのコラム「夕刻のコペルニクス」にて植垣さんは全くあらぬ 事を書かれてしまったのだ。
当然植垣さんは怒り心頭。鈴木さんはそれが事実でなくっても「まあ、人間的に苦労された植垣さんだから笑い飛ばしてくれる」という気持ちで書かれたのであろうが、そうは問屋が降ろさない。
トークライブの前日、植垣さんの友人のSさんから「明日のイベントは出来る状況ではない」という話があった。「それは絶対困る。今やプラスワンはそれなりに全国区になっており、地方から参加する人も多い、確かに二人の関係は最悪だけれど、遠くからわざわざこのイベントを聞きに来る人達に対して、われわれも、当事者も責任がある。だから絶対中止はこまる」とつっぱる私。
鈴木邦男氏(56才)は20数年前から日本の新右翼運動(一水会)をやってきた人だ。マスコミインタビューや著書や雑誌コラムも多い。そのスタンスは政治、文学、映画演劇、格闘技となんとも巾が広い。本当によく勉強している。右翼といえば鈴木邦男と言った感じであって氏のあらゆる発言は日本の右翼の代表的なメッセージとして受け取られてしまって、他の行動右翼の人達の苛立と怒りは強い。いつか鈴木邦男を襲撃して制裁を加えてやろうと思っている連中もおおいと聞く。
戦闘的な行動右翼からすると一連の鈴木発言は許し難いと思い込んでいる決起盛んな連中は何人もいる。それは「君が代、国旗法案」のコメントでも、「みんなの投票で決めたら言いと思う」なんて保守的な右翼が本当に怒りそうな事を平気で言う。
植垣康博元連合赤軍兵士、(50才)1972年2月19日軽井沢は浅間山荘にて機動隊に包囲された連合赤軍兵士5名は10日間にわたり日本革命運動史上初の銃撃戦を展開した。これが世に言う「あさま山荘銃撃戦」である。この銃撃戦で警官2名が死んだ。この銃撃戦の数日前に植垣さんは逮捕されているわけだが、しかし後の一連の逮捕者の供述によって連赤の山岳拠点での「総括ー粛正」の事実が発覚し14遺体が次々に掘り起こされ、評価は一変して非難の嵐となった。
この「連赤事件」は当時の新左翼諸党派は大混乱に陥り、一定のシンパ層も一気に離れて行くことになり、日本の新左翼運動は事実上衰退の一途をたどることになる。なお、赤軍派議長塩見孝也氏は監獄におり、事実上の連合赤軍最高指導者森恒夫は1973年1月1日の元日数百枚の自己批判書を残して東京拘置所にて自殺する(興味ある方はトーキングロフト3世Vol.2、連合赤軍とは何だったのか?鈴木邦男、植垣トーク参照のこと)
そして、植垣さんは27年の刑務所生活を終えて出所する。出所してからの植垣さんは毎日毎日悔恨の日々の中、「この事件をちゃんと総括するべきは自分しかいない」とばかりに精力的に活動している、「二度と日本の革命運動でこういった間違いを犯してはならない!」ために。
約束場所の歌舞伎町の喫茶店ルノアールは閑散としていた。坊主頭にした植垣さんは実に、鈴木さんの記事に怒ると言うよりも「消耗と困惑」していた。
「こんな記事、私一人だったらまったく事実ではないのだから、笑いとばせるんだけど、、でも、今私は鳥取県の実家に身を寄せている身、SPA!は鳥取県でも売られていて、私の周りの人々はみんな読んでいる。本当に困った!」とぽつりと言う。
「とても、鈴木さんと民族問題をトークする気にはなれないのだが、、」と言ったまま、絶句してしまった。もう、こうなってはイベントどころではない。
私の意識は両氏の喧嘩だけではなくって、「もしかしたら、今日のイベントの最中に両氏をテロってしまおう」という連中がいるとの情報が乱れ飛んでいることだった。
何かとてつもない事が起こりそうな予感が走った。野次と怒号のイベントは覚悟(こんな事は過去プラスワンで何度もありなれているのだが、、)するとしても、暴力によるテロだけは何とか避けたかった。
「気持ちはわかりますが、今日のイベントを中止にするわけには行きません」と力を込めて言う私。
「それでは、今日の司会進行は平野さんやってくださいますか?それならやります。ただこの件はちゃんとみんなの前でやります。このスパ!の記事のコピーを来たお客さんに配りますけどいいですか?」と植垣さん。しばしの沈黙があって「仕方がないですね」と私は言い、私も腹をくくった。
ふっと今日鈴木さんが無断欠席すれば良いと思った。しかし鈴木さんがこの場を逃げるような人とは思えず、「今日の修羅場は私が仕切るしかない!」と暗澹たる気持ちで覚悟を決めるしかなかった。
私は長い間鈴木さんのファンであった。そして植垣さんには「本当に長い間お勤めごくろうさま」と言う気持ちが強かったし、この二人は私にとって大切であり、その仲違いの司会進行をやる羽目になってしまった自分を呪うしかないように思えた。
午後7時、歌舞伎町の雑踏に活気が戻る頃、プラスワンの客席は満員に膨れ上っていた。客の多くは今日の混乱を想定して緊張してあるいは面 白がって来店しているように思えた。トレンチコートを着た中年の客が多かった。公安警察らしき男達がいる。右翼もいる。鈴木さんがフィクションででっち上げたストリッパーのS子さんもきている。壇上の前は一水会の屈強な連中が演壇を防衛するように座っている。一方ではクリスマスツリー爆弾や明治公園爆弾事件の赤軍元被告の人達も来ている。会場はし〜んと静まり返っている。誰もが開演前の緊張を意識していた。
控室に行くと鈴木さんが一人しょんぼりしていた。たぶんジョークで書いたつもりがこんな大事になってしまったのを悔いているように見えた。
「鈴木さん、また河合塾の松原さん、突破者の宮崎学さんに続いて友達失ってしまいましたね」と水を向けてみた。「いいんですよ!僕はもう友達なんかいらないから、、」とまるで少年みたいなだだっ子鈴木邦男の顔があった。スパ!鈴木邦男担当の河井編集部員の顔がゆがみ、足が小刻みにゆれていた。
7時30分開演のビデオが流される。植垣さんは控え室に来ない。勿論鈴木さんとの打ち合わせもない。
ドラマは始まった。もう、誰もこの修羅場から逃げられない。
もうどうにでもなれ!とやけくそになった私は一人ステージに上がりマイクをとった。
〜以下ルーフトップ3月号おじさんの眼に続く〜
           ロフトプラスワン 席亭 平野悠

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