文化のうねりの中にあったガロの愛読者
──青林工藝舎を設立されて4年目に突入されましたが、長くはガロ編集部・青林堂にいらしたんですよね。ガロは昔からお好きだったんですか?
手塚能理子編集長(以下手塚) はい、20年以上前から愛読しておりました。ガロも大好きだったのですがガロ的な世界というんでしょうか、それも好きだったんです。私が青春を過ごした時代、60年代から70年代って凄く文化にうねりがあったと思うんです。ジャックス、はっぴいえんど、寺山修司、唐十郎、横尾忠則、つげ義春、白土三平さんなどなど、音楽、演劇、漫画、詩、小説が絡み合って相互に伸びやかになっていたという。そのまっただ中に遭遇することができたんですね。そのうねりにいるのが楽しい、ワクワクしていたんですが、そのうねりの中にガロもあったんです。まっただ中と言っても当時住んでいたのが宇都宮だったんで、書店にガロは一冊あるかないかの世界で……。ガロや音楽雑誌とかくまなく読んだりとかチラシを集めたりとか必至になって情報をかき集めてましたねぇ。
──私の場合なんですが、ガロがすごく窓的存在を担ってくれて、ライブとかイベントに行くようになったりってクチでした。
手塚 そうそう。クラスに一人いるかいないかって世間とズレを持っちゃう人とかが結構ガロとか好きになっちゃう。
──確かに。思い当たる節があります。
手塚 実はガロに出会う前から頻繁に音楽のイベントとか行っていたりしたんです。毎週、母親に交通費をもらって東京に出ていました。当時はライブじゃなくてコンサートって言っていたんですが。99円コンサートっていうのがはやっていて、100円から税金がかかっちゃうからなんですけど。吉田拓郎なんかもやっていて、それはもうよく行っていましたよ。でも行けなくてくやしかったのがウッドストックと中津川フォークジャンボリー!「あぁ、行きたかったなぁ……」って未だに思います。
──音楽詳しいですよね。今の音楽だと気になる人とかいますか?
手塚 いやいやそんなことないです。時代が止まってますから(笑)。……気になるって言ったら椎名林檎。彼女すごくおしいなぁっていつも思うの。彼女は融合した文化を引っ張る起爆剤になる人だったと思ってて。
──音楽から漫画へ意向したきかっけはなぜだったんですか?
手塚 年上の知人が「ガロってオモシロイよ」って教えてくれて、で書店で表紙を見たら『カムイ伝』で「時代劇の漫画かぁ」って程度で知っていたんですけど、その時は読まなかった。でもその後、林静一さんの『赤色エレジー』が始まって、「わ! これはもうオモシロイ!」って病みつきになったのが大きなきっかけですね。あと当時のミュージシャンのレコードジャケットで漫画家のイラストを起用したものが割とあったんですね。「この絵すごいなぁ、ああ漫画とかも書いてる人なんだ」って調べていったりして自然とその方向に流れていった感じです。当時の文化ってそういうふうに繋がってふくらんだ流れを持っていたんで、私だけじゃなくてそういうふうに音楽から漫画へまたその逆とかそういうふうにものを好きになっていった人は多いと思います。
編集長や編集部員はなく、ないというより話題にもしない
──それから入社されるわけですが、それはどんな経緯で?
手塚 はい。1979年にガロに入社したんですけど、もう22年前になりますねぇ。ガロに社員募集の記事が載ってたんです。それに応募したら、たまたま受かって。
──当時の編集部ってどんな感じだったんですか?
手塚 きっちり9時半出社の5時半終わりで、長井(勝一)さんが5時半になると「電気消すぞ〜」って入り口で待ってたり。
──そう言えば長井さんを「長井編集長」って呼んでるのをあまり聞かないですね。
手塚 そうですね。誰か編集長とか編集部員とかなくて、ないというより話題にもしない。なんかあったときすっと長井さんが出てきて、便宜上編集長を名乗って。だから長井編集長って呼んだこと編集部内ではあんまりないかもしれません。
食べ物に拘っていた長井さん
──見聞きする長井さんしか知りませんが、あまりお金のある編集部ではなかった当時、100円玉より5円玉や1円玉が多い袋を渡されて「みんなでコーラでも飲みなさい」って。何円か足りないんじゃないかなと思ったら、ぴったり人数分あったって話が私の中で印象が強いです。
手塚 そう、食べ物のことに関してはすごく拘っていましたねぇ、長井さんは。ある日お米をもらったんですけど、「じゃぁ、みんなで分けよう」ってことになって、お米を長井さんがきっちり湯飲みではかりはじめて、社員全員に分配したら、最後に残った長井さんのお米が少し均等じゃなくて、「俺のが足りない」ってうつむいたり。そういうふうに食べ物、日常的なことをみんなでワイワイやっていましたねぇ。
緊急時にはちゃんと編集部に帰ってくる長井さん
──長井さんとの一番印象的な思い出はなんですか?
手塚 う〜ん、たくさんありすぎてこれって一つに絞れないけど、エピソードを挙げるなら、京都の話がありますねぇ。
ある日、用があって京都へ行くって編集部を出ていったんです。そしたらちょうど出ていった時にソ連からの亡命事件があって……。それを長井さん勘違いして戦争が始まるって思ったらしくてすぐ編集部にトンボ帰り。「みんな大丈夫か?」って息せき切って入ってきて、私たちはぽかーんと「長井さんこそ、どうしたの?」って感じで。後で考えたら緊急時にはちゃんと編集部に帰ってくるんだなぁってしみじみ思いましたけどね。
青林堂クーデター事件〜青林工藝舎・設立
──長井さんが死去されて、新しい編集長と副編集長が就任してしばらくしてから青林堂でクーデターが起きましたよね。その時のことを少し聞いたのですが、編集部全員が青林堂をやめて、青林工藝舎を作られましたが当初、編集部全員がアルバイトしながら会社に勤めていたって。これはもう士気がかなり高くないとできないことですよね。
手塚 青林堂にいられなくなって、その直後は会社を新しく作るなんて思ってもみなかったんです。ましてや自分が社長になるなんて……。
このままで、無責任呼ばわりされたまま終わりたくない、漫画家さんに迷惑をかけたくないし、表現の場をやはり残したいって思っていましたら、周囲の方がすごく協力してくれて、本当にうれしかった。利益にもならないことに本当に無償で他人がお金を出してくれたりして……。もうこれはがんばらねばと思って。長井さんが生前、青林堂を退いた時に個人レベールみたいな部署「青林工芸舎」を作ったんです。ある日長井さん、ふっと私に言うんです。「おまえたち、なんかあったら、青林工芸舎の名前使っていいから」って。私は「なんかってなんですか。なんかあったら長井さん責任とって下さいよ」って笑いながら話したことがあったんです。でもやっぱりなんかあって……、名前を頂いたんです。青林工藝舎を興す時に、これから金銭的に厳しい状況が続くから、大変だから、別の道を歩もうと思っていたらそうしてくれと言ったんだけど、みんな残ってくれた。だからここまでこれたんだし、いろんな人の力を借りて興した会社をつぶすわけにいかないって、3年半石橋をたたいてやってきました。若くないしこの会社興すまでは社長業なんてのもやったことなかったですから、色んな本を読んでだりもしましたが。好きだからっていうのが一番強いかも。でもね本当は悩むヒマもなかったんで無我夢中で来たって感じですね。
災害があっても死ななそうな……
世の中に理解されにくいものを形にしていくことはできない
──最後の質問ですが手塚さんが一番大事するものはなんですか?
手塚 好きと思う心と、同じ心を持つ仲間。でももう一つあるんです。食べることを諦めない心とでもいうんでしょうか。食べるって必須条件じゃないですか生きる上で。夢だけじゃ食べていけないですから。最低限食べることを前提にして好きなことをする。
それから災害にあっても死ななそうなたくましい人(笑)。これは半分冗談のようで本気なんですけど、そういう図太さがないと世の中に理解されにくいものを形にしていくことはできないと思うんです。
でも死ぬ時はポックリいきたいですね。ドブにハマって頭ぶつけて打ち所悪くて、コロって。葬式とかで涙よりも笑いがおこるようなそんな死に方したいですね。でもそれまでは根気よく生きますよ。
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