長渕剛×平野悠




「今こそ歌の持つ力をもう一度見つめ直したい!」

雷に撃たれたような衝撃を覚えた「静かなるアフガン」
 なんの因果か(笑)、長渕 剛の「静かなるアフガン」を聴いてぶっ飛んだ。
 どんよりと重くたれ下がった雲と6月のコンクリート・ジャングル……新宿の街角の雑踏の中で、ほんの小さなレコード屋からそのメロディと歌詞はビルを吹き抜ける風に乗って流れてきた。
 70年代のメッセージ・フォークを彷彿させる独特な低音のうなりに似た長渕節が流れ、駅に向かう急ぎ足の群衆の流れに抗するように私一人の足がふと止まった。群衆(alone-together)の中で私の琴線〈きんせん〉に鋭く触れた。えっ、なんだって?……「海の向こうじゃ 戦争がおっ始まった/人が人を殺し合ってる/アメリカが育てたテロリスト……戦争に正義もくそもありゃしねぇ」と切れ切れに聴こえてくるメッセージに、雷に撃たれたような衝撃が私の全身を貫いた。こんな気になったのはジョン・レノンの「イマジン」以来か?  これって唄っているのは長渕じゃないか?(text:平野 悠)


団塊の世代の兄貴分たちと一緒に闘いたかった


平野 長渕さんの今回のシングル「静かなるアフガン」、これは僕にとって“何だこれはッ!?”っていう衝撃的なものだったんですよ。僕も音楽業界のことは少しは知ってるんで、例えばNHKとか大手の放送局では“絶対にこの曲をかけられないだろうな”と思ったんですよ。それが一番初めの僕の感想だったんです。大手の媒体やらお役人やらは「これはヤバイ!」って勝手に自主規制しちゃいますからね。じゃあ、“孤立無援なこの曲に対して僕は何ができるだろう?”と。で、長渕さんご本人とは関係なく、僕は僕なりにこの曲を支えてみたいと思ったんです。
長渕 はい(笑)。
平野 それで、ウチのロフトという店に出入りしてる音楽評論家の吉留(大貴)に「オイ、長渕に会わせろ!」と。そしたら色々と根回しをしてくれて、フォーライフの横田(利夫)さん[プロモーション本部]を紹介してもらって。それだけの話なんですよ、実は(笑)。こんな歌を作った奴に会ってみたいと…。長渕さんは全共闘世代っていうか、団塊の世代の一番最後の頃…つまり、何をやっても敗北感を味わう時代が青春だったと思うんです。僕は長渕さんより12歳年上なんで、ああいう政治的な季節に青春を送っていて、どっかで“勝ち組”なんですよね。デモをやれば1万人くらいすぐに集まったり、ロック、映画、演劇、ストリート、あらゆる場所で雑多な文化が花開いていた時代。日本のルネッサンス(夜明け)だった。高校でもストライキが確立したりね。そんな時代の洗礼を受けながら、プレッシャーはあったけれど、いつも新しい未来、新しい社会を想像し、夢見ることができた。でも、長渕さんの世代は何をやっても「そんなことは上の世代がもうやったよ。内ゲバ、リンチ殺人、最悪…それで社会は変わったの?」などと言われてしまう…。 長渕 そうですね。僕らの兄貴分の世代…仰るように団塊の世代の人たちが「時代を変えるんだ!」とか、社会の理不尽なものに対して反骨精神があったわけですよね。その中の一環として“歌”というものがあって、そこに魅了されたのは明らかな事実であり、僕が音楽をやり始めたきっかけです。僕らは世代的には“三無主義”(=無関心、無感動、無気力)の世代に入るんですけれども、僕がデビューしたての頃は《遅れてきたフォーク少年》っていうキャッチフレーズがやっぱりたくさん付きましたよ。だから今仰ったように、兄貴たちが敷いてきたレールがすでにあったものだから、「自分はそのレールの上に乗っかっていくだけか!?」っていう部分での敗北感というのかな。今振り返れば、デビューして10年くらいはその中で苦しんでたと思います。
平野 その話は僕も聞いたことあります。最初は随分と売れなくて、凄く苦しんでいたという…。
長渕 最初は僕も<照和>という福岡のライヴハウスで3年間やってましてね。その中で半分東京に足を突っ込んだり、また福岡に舞い戻ったりという生活をして。本格的にプロとしてデビューしてからは、僕の場合は他人から見れば意外と順風満帆にここまで来たように見受けられますけども、当の本人はそうでもないところがあってね。どうしても一等賞になれない、っていうのかな。何をやっても先人がやってしまっている。やれ誰それに似てるだの。また、客も一流でしたね。気にくわなきゃ「帰れ!」って野次を飛ばすんだから。確かにレールを敷いてくれたのは団塊の世代だ。僕の精神性というのは、そういう団塊の世代の兄貴分たちと一緒に闘いたかったわけです。それが次第に「なぜ闘わないの!?」って気持ちに変わってくるんですよね、ある時期から。しかも、彼らと近づけば近づく程。
平野 要するに昔はハッパを吸って「ピース、ピース!」って言ってたような奴らが、今は一生懸命ジョギングしたりして健康管理に勤しんでるわけでしょう?(笑) 「自分の身さえ守れれば全てOK!」って。昔は反体制運動を盛んにやってた連中が、今の日本の権力機構の中枢にいるんですよね。そういう世代に対して「お前ら一体今まで何をやってきたんだ!? 少しは自分の青春を思い返せよ!」という苛立ちがあったんでしょうかね?
長渕 本当に、彼らに近づけば近づく程失望していくことのほうが多いなぁ。“なんで一緒に怒らないんだろう!?”と。で、そこから飛び出して独立という道を選んだ。随分と遠回りした。そして今、フォーライフ ミュージックエンタテイメントの後藤由多加[代表取締役]とまた連帯を持って一緒にやろうということになった。果 たしてそれでどこまでやれるのかは判らない。しかし、その昔アンチ芸能だったオピニオン・リーダーの後藤由多加と、男をかけて、共に闘いたいんですよ。こういうことを言うと「生意気だ!」と怒られるかもしれないけど、バブルの崩壊をきっかけに、やれ人員削減だ何だでレコード業界の団塊の世代も、だいぶ勉強したんじゃないかと思うんです。
平野 うまく生きるっていう勉強を?
長渕 いや。バブルが崩壊してからの、“音楽ってものは何だったんだろう?”っていう自分たちの原点をもう一度確認できたということです。“我々が根ざしていたものは手売りでチケットをまいたり、自分の手を使って電信柱にポスターを貼ったりしたことではなかったのか?”というようなことです。
平野 そうだ! うん、その通り! ロックなんて歌謡曲に対するカウンター・カルチャー(対抗文化)なわけで、日本のロックの黎明期には、ロック好きは情報がなくって自分の足で探すしかなかったし、若い連中が好きなバンドのフライヤーを勝手に作って、ライヴハウスの前に列作ってチラシをまく。「私はこのバンドを支持します!」って…素晴らしい時代だった。そうやって日本のロックは大きくなっていったんだ。それまでは、ロックってただ“一部不良の音楽”って言われていたんだよね。それがいつの間にか巨大ビジネスになってメイン・カルチャーになってしまった。
長渕 歌って本来、何だったのか? 自分の言葉で、自分のメロディで、世にケンカをふっかけてきたんじゃなかったのか! 不良が文化を創ってきたという自負心をもう一度奮い立たせる時なんです。古き良き時代を振り返るいいチャンスなんです。凄くいい勉強を今は強いられているのではないかと思うんです。
平野 長渕さんみたいに東京ドームを何日も満杯にできる人が、そんなことを思うんですね。面 白いな。
長渕 東京ドームが満杯になるからこそ、思うんです。
平野 うん、長渕さんはまさにアウフヘーベン(止揚:過去の歴史の良いところはちゃんと残して新しい時代の1ページを作る)しているね。

自分の立ち位置、それは“日本”
平野 僕は日本のロックに絶望したというか、カウンター・カルチャーとしてのロックが凄い好きだったんですよ。「売れなきゃクソだ!」という発想がすべてを支配しているような音楽業界に対して僕は興味が全くなくなって、そんな中で長渕さんの「静かなるアフガン」に出会った。物凄く衝撃的でした。僕はあの昨年の9.11の直後に“とにかく現場を見なければダメだ!”と思って、ニューヨークへ飛んで行ったんです。そこに一週間ちょっと居て、何度も「グランドゼロ」に佇んで思ったのは、どんな理由があろうとも“やっぱりテロは許せない!”と。でも、いつの間にかそれが、アメリカの空爆もやむを得ないと思っちゃうんですよ。恐いですね。あのアメリカの巨大な怒りのエネルギーを現場で味わってしまって(註:私がマンハッタンにいた時は2〜3万人が殺されたと言われていた)、それで日本に帰ってきて“あれ〜アメリカってオカシイんじゃないか?”って初めて冷静になれたくらいなんです。僕はアフガンにも行ったことがあるんですけど、長渕さんは?
長渕 行ったことはないです。僕はテレビの映像の中でしか感じていません。あの事件があった時は丁度ツアー中でしてね、怒りを通 り越して、もう言い様も知れない無力感、虚しさで一杯になりました。そして、“こんな歌を唄っていていいのか?”“こんなコンサートをやっていていいのか?”と、今までそんなに危機感を持ってなかった自分がたまらなく恥ずかしくなりました。それで正直に書き上げたのがこの「静かなるアフガン」だったんです。結局、ニューヨークにもアフガンにも僕は行ってないし、今回のこの歌に関して「自分の立ち位 置が見えない!」っていう厳しいお叱りの言葉を受けたこともあったんです。その時、僕は即答しました。語気も強かったと思います。「その立ち位 置とは“日本”だ!」と。テレビで見てる戦争っていうのは、僕らにとって所詮は絵空事なんですね。向こうで起きている悲惨な出来事に対して、自分のこととして受け止めなくてはいけないのに、それができないんですよ。でも、「戦争はやっちゃいけないことなんだよ!」っていうのを敢えて僕はここで言わなきゃいけないと思ったし、言いたかったんです。だから、そのままストレートに書いたし、アフガンやニューヨークで起きたいろんな出来事を日本に、東京に、自分の根ざした地域、町にパンした時に、そこには戦争というものがたくさん転がってるという危機感を持ってくれるだろうと。まずは、そこから始めようと。
 これは僕がよく話をすることなんだけれども、我が子の手を引いて横断歩道を渡ろうとするでしょう? そこへ学校帰りのランドセルを背負った子供が、信号が赤なのに道を渡ろうとする。トンネルの向こうから車が来ている。「見てごらん。車が来てるよ、危ないよね?」と我が子に言う。「信号が赤だから、こういう時は青になるのを待って、右向いて左向いてから渡るんだよ」と教える。それが他人の子供となると、信号が赤で道を渡ろうとすると「ほら、ああやって渡ろうとしたら車に轢かれたりするんだよ…ほらほら、車が来たよ…(パンと手を叩いて)ほら! やっぱり轢かれちゃったよ!」っていう、履き違えた豊かさや平和に麻痺してしまった僕ら日本人の今の現状なんです。その時に我が子の手を引いていようがいまいが、「危ないッ!」って本能的に飛び込めるか飛び込めないかが一番大事なことで、いつの間にか一番大切な何かが失われていってるんです。
平野 そうですね。
長渕 身体が俊敏に対応しないんですよ。僕はそのことが、自分自身がそうなってやしないか? っていうことが物凄く厭でね。戦争が起きても他人のこと、湾岸戦争のことも歌にしたけどそれも他人のこと、そんなに深く考えていない。次から次へと不安ばかりを掻き立てるようなニュースが目に入ってくる。答えもないまま。国会の中継を見ても、一人の人間を集中的にいじめる。新しい内閣ができても、猶予も与えないまま「ダメ! ダメ! ダメ!」の連続。果ては少年の陰湿な事件や幼児虐待が起きたり……。いつの間にか僕らは“なぜこんな事件が起こるんだろう?”という疑問を抱くことすら去勢されてしまっているような状況だ。だからこそ音楽が持つ力、歌を唄っている力をもう一度見つめ直したいと再度真剣に思うんです。僕には家族がいて、25年間も歌をこの国で唄っているわけだけども、その時代、その時代で唄わなきゃいけない歌っていうものがやっぱりあると思うんですね。“売れる”“売れない”っていう競争社会から離脱しても、「この歌を残しておくんだ!」と。他人が切られた傷を見て“痛いんだろうな”と思うんじゃなくて、自分で切ってみて、そこに塩を擦り込んで“本当に痛いんだな”と思うくらいの気持ちがあるから表現者なわけでしょ? 今回の場合は特に、“売れる”“売れない”はもう頭の中にないんです。とにかく歌を書いて、万人の前で唄わねば、と。でも、NHKを筆頭に各放送局で「静かなるアフガン」がオンエアされない状況っていうのは、僕は考えなかったんですよ(笑)。
平野 素晴らしい! ……でも、考えなかったの?(笑)
長渕 メーカーも考えなかったんです。これは僕らの買い被りだったんだけれども、“NHKこそはきっと取り扱ってくれるだろう”と。でも、そこが一番ダメだった。やっぱり甘かったな。
平野 甘い、甘い(笑)。僕がただ売りたいだけの宣伝マンだったら、絶対にリリースは反対していたね(笑)。 長渕 今は若干変わってきてね、最初に日本テレビが挙手してくれましたね。今度収録(『FUN』6月21日にOA済)に行きますけども。プロデューサーの藤井(淳)君、ディレクターの江成(真二)君には本当に感謝しています。
平野 それ唄っちゃうの?
長渕 唄います。
平野 おっとっとっと……(笑)。
長渕 “売れる”とか“売れない”だけじゃなくて、この国の危機感を感じてほしいんです。平和であることの感謝を感じてほしいんです。人間を心から愛したいんです。みんなみんな、愛してほしいんです。そして、歌の持つ力を信じたいんです。真面 目に考えることを照れないでほしいんです。今回メーカーやスタッフも含めて自分たちがこういう歌を出したことは、特別 なことじゃないんです。当たり前のことなんです。

商売として成立しなかった頃の精神性にどれだけ立ち返ることができるか


平野 長渕さんが今の日本社会に対して覚える苛立ちっていうのは、日本の共同体が崩壊しきったからだと思いますよ。昔はいたじゃないですか、町を歩いてると「オイ! どこへ行くんだよ?」とか「お前の親父さん、病気どうした? 薬持ってけ!」とか言ううるッさいジジイが。
長渕 いましたね。
平野 そんなの“俺の勝手だろッ!”と思うけど(笑)、そういうことを言ってくれるような人が昔はいた。それが今はもうアメリカのグローバリズム、つまり入れ替え可能な文化ですよね。マクドナルドなりスターバックスなり、どこへ行っても世界共通 なわけです。日本の伝統、文化、家族、地域共同体っていうのがどんどん失われてしまっている。そういう日本に対して“何なんだ、これはッ!?”っていう感覚を、僕も長渕さんも同じように持っていると思うんですよ。 長渕 そうですね。それは凄く神経質に考えますね。
平野 今45歳の長渕さんが18、19歳の若い世代とどうやってコミュニケーションしていくのか、長渕さんが培ってきた想いをどうやって伝えていくのかというと、やっぱり歌が一番という話になるわけですね。サッカーを嫌いな奴はいても、音楽が嫌いな奴はいないじゃないですか?
長渕 (微笑)
平野 政治家や評論家が若者に対して何度同じことを唱えても、歌唄いが発するメッセージのほうがずっとよく届くんですよね。これは僕、ずっと信じてるんですよ。僕がずっと「原発ヤバイよ!」って言い続けても誰も聞いてくれなかったのが、忌野清志郎さんが原発のことを唄ったCD(RCサクセション『COVERS』)を出そうとして発売禁止になったら、若い子たちが「これ、どういうこと?」となった。あと、一番腹が立ったのは原宿のホコ天ですよね。ホコ天が廃止される時に、殆ど反対運動が起こらなかった。勿論頑張っていた人もたくさんいたけど…。だってあそこはロックの聖地じゃないですか? 歌唄いの聖地じゃないですか? 死んでも守らなきゃいけないものを軽く放り出しちゃって、「いいよ、他の場所があるから」っていう今の若い子たちの意識に対して僕らはどう挑戦していけばいいのか? と。「オイオイ、面 白くないものに対しては怒ろうよ!」って。僕のテーマはそれなんですよ。理由は要らない。「面 白くないものに対してはきちんと怒ってアクションを起こそうよ!」という。
長渕 人間は誰でも「いいものはいいんだ!」「正しいことは正しいんだ!」っていう熱いものを持っているんです。ディテールの部分は、先に生まれた人間が次に生まれてきた人間にその精神性を含めてしっかりと継承していく意識で音楽を作るっていう姿勢が大事だと思うんです。それがないとやっぱりダメです。つまり先輩を尊び敬う精神、そして後輩たちへ自分がやってきたことを伝える。先輩たちにはオピニオン・リーダーとして失敗したところもあれば、いいところも勿論たくさんある。それを見て来れたのは僕の少なからず財産だと思います。今を生きる人たちが熱い気持ちを死ぬ まで力を合わせて持ち続けていけばいいだけなんです。
平野 長渕さんの中にはフォーライフというものが幻想としてあるんだ?
長渕 僕は今でも幻想じゃなくて、リアルな世界としてありますよ。
平野 スタッフを大事にするってことなんだ? 「ただ俺の作った歌を売ればいいんだよ!」っていうわけじゃないんだ? 長渕 そりゃそうですよ(笑)。だって、一人じゃ生きてゆけないでしょ? 物の大小じゃなく、みんな分かち合える達成感が欲しくて、精一杯、明日へ動いてくれてるんです。
平野 でも、長渕さんのホームページの掲示板を見て本当に凄いなと思ったよ。音楽っていうのは何でこんなに凄いんだろうなって。掲示板に来るのはみんなファンなんだから当たり前かもしれないけど、「自分が素直になること、怒ること、優しさ、本気、生きる勇気、一生懸命になることを長渕さんから教わった」なんて言うメッセージが並んでいる。これって羨ましいくらい凄いよね。
長渕 (微笑)
平野 僕がウチの店の若い奴に「今の日本の政治はヤバイよ、お前ら!」って言ったって、「何なんだよコイツは俺を搾取しやがって! 経営者のくせに!」って思われるのがオチだからね(笑)。それが、長渕さんの歌を通 じて若者がきちんとメッセージを受け止めている。で、今日僕が本音で長渕さんにぶつけたいテーマは、「長渕 剛はこれからどうすんだ!? どこへ行くのか長渕剛!?」っていうことなんです。これだけ人を騒がせておいて(笑)、僕の印象だと、長渕さんってもう全部やり遂げちゃった気がするんですよ。あれだけたくさんのヒットを飛ばして、『紅白歌合戦』にも出たし、レコード大賞も獲った。「もうやることないんじゃない?」っていう。僕もそうなんですよ。僕は店のことなんて全然興味がなくなって、解脱しちゃったっていうかね。会社を大きくしたいとか、もうどうでもいいんですよ。「老後は沖縄に移住して自給自足して、月に5万円で生活してみせるぞ!」って(笑)。そういうのを人生の最終地点に置いちゃうと、お金が要らなくなっちゃうんですよ。“お金を稼ぐ”っていうことが必要なくなるんですよね。そういう俯瞰〈ふかん〉の境地にひょっとして長渕さんは行ってるんじゃないか? と。「もういいじゃない?」と。「くよくよしないであとは好きなこと、自分の信じることだけをやろう!」と。
長渕 いや、別にくよくよはしてないですけどね(笑)。歌にも書きましたけど、やっぱり僕の少年時代よりもこの国は非常に貧しくなってるんですよ。僕は少年時代に“ギターを持って日本全国を廻るんだ!”と思った。全日空や日航の札をぶら下げたりしてね、北は北海道、南は沖縄まで廻るんだと。これは僕が生涯通 してやるべきことだと思ってます。それは使命を感じる時もあります。それとあとは今の音楽、歌っていうものが、今の時流はまず企業ありきなんですね。例えばこのサングラスを売るとする。これを売るためにアーティストをデビューさせる。歌を書いたり、いろんなものを表現する連中っていうのは基本的に純朴で朴訥としていて、その衝動は美しいんです。なのに、それがやがて本物の表現者となっていくまでに潰されちゃうんです。なぜかっていうと、例えばこのサングラスを売るために巧妙な手口でプロットを組むわけです。CMだとか企業とのタイアップで、すぐに100万枚はいってしまう。それは企業がCDを買い占めているようなものだ。それで「企業イメージに合う歌を書いてくれ」とか「企業イメージに合う服を着せてやれ」といったふうに、そのアーティストが破れかぶれのジーンズにこだわっていたのが、いつの間にか綺麗な服を着させられて唄わされちゃってる。それであれよあれよという間にスーパースターにさせられちゃう。それじゃ企業の犬になっちゃう。時流に乗ることは大切なことです。だけど順番を間違えると大変なことになってしまう。歌がまず先にあるべきなのに、今のシステムはその全く逆なんです。そういう同じ土俵の中に組み込まれてのヒット競争なんてナンセンスですけども、自分はまだその中で勝ち上がっていかなきゃいけない。まだ僕はそこまで悟りの境地に行けなくてね(笑)、生臭いんですよ。「まだあいつらには負けないことをやってるんだから、正々堂々と唄って、“歌ありき”でやってやろうじゃないか!」という気持ちはあります。世の中のエトセトラの仕組みっていうものは入ってから覚えることなのに、今の若者たちは入る前から判っちゃってる。企業が食いついてくるような音楽を作ったりとか、そういう匂いを感じる時があるんですね。それはやっぱり厭ですよね。僕はそれがすべてとは言いませんけど、そんな中だからこそ自分の役目としてやらなければいけないことがまだまだあるんです。

これからの唄い手を自らプロデュースしていきたい


平野 長渕さんが今までに選んできた道は間違ってないという気は凄くするんですね。で、問題は今回の「静かなるアフガン」ですよ。それ以前に湾岸戦争のことを書いた歌(「JAPAN」)の時は問題にならなくて、今回問題になったのは何なんだろうな? と考えてみたら、ブッシュの親父の時はやっぱりどっかでバーチャルで見てたわけじゃないですか? だから余りピンと来なかったけれども、今回のアフガンっていうのは本当に直接僕らにガーンと来たんですよ。これから始まる21世紀が見えてしまった気がして。「静かなるアフガン」の歌詞は、“これはちょっとストレートすぎるよ!”と思ったけど、でもこれこそが長渕さんや僕たちが本当に思っていた自然な言葉なんだろうなって。これこそがロック魂!
長渕 (微笑)
平野 ここまでムチャクチャにやれちゃうのは凄いですよ! 過激派・長渕 剛!(笑)
長渕 結局、表に曝されている人間はとてつもない安心感とか、父性愛、母性愛に飢えていてね、表に立たない人間っていうのは表に立たないぶんだけその飢え方が違うんですよ。だから怖いですよ、自分が表に立つ以上はね。ある種の覚悟がないとね。
平野 発言し、メッセージを送り続けているんだもんね。
長渕 ええ。だからあの歌を作った時には、不安とか恐怖から自分が解き放たれたい、癒されたいという気持ちが大きかったですね。“何なんだろう、こういう事件というのは?”っていう。社会派ノンフィクション作家の高山文彦さんとか、医療機関でアフガンに行ってる人たちとも話をさせてもらってね、いわゆる“反戦歌”としてではなく、最終的には“ラヴ・ソング”とか“祈り”に通 じる歌を書きたかったんです。それで、それまでにアフガンとアメリカがどういうふうに結び付いて、どういった形で戦争になったのかという経緯を彼らにレクチャーしてもらう必要があったんです。その中で「この時期にこの歌だけは絶対に譲れない!」という想いが沸き上がってきたんです。作家としては、他にも書き方が一杯あったかもしれない。ビンラディンをモグラにして、アフガンの空を黒いカラスにして、カラスとモグラのイタチごっこというふうにしたほうがもっと普遍的になったかなとも思うんです。だけど、あの時期に自分が直感的に書いた歌詞──「(ビンラディンは)アメリカが育てたテロリスト」──という部分は真実ですから、そこを唄わないわけにはいかなかったんです。その後に来る恐怖なんていうのを考えることより、“事実”より“真実”を知るべきだと。言い換えれば、二、三行の事実が書かれてある新聞の記事の中から、その奥底にひそむ真実を読み取る力が失せてしまった自分がまたまた恥ずかしかったです。緊張感がまだまだ足りないんですよ。だからなおさら、唄った。
平野 いや、とにかく凄い詞だったし、あとやっぱりオケが良かったね。あれをチョイスした感性はスゲェなと思って…もう感激しちゃったんだけれども。これから長渕さんがこの歌を引っ提げてどういう闘い方をするのか? っていう部分に凄い興味があるんだけれど。
長渕 僕一人の力じゃ何にもならないですから。今は殆どの放送局で曲がかかってきてまして、NHKも「周りがかかってくるようになれば…」という応対でしたからね。あの歌をどれだけテレビやラジオで唄えるかってところで、今の僕としては一杯一杯ですね(笑)。 平野 俺たちの周りじゃさ、「NHKが曲をかけない? じゃあNHKまでデモかけようぜ!」とか話が飛んでるんだけど(笑)。去年、<小倉あやまれ友の会>っていうのをやったんですよ。『特ダネ!』っていうフジテレビのワイドショーの司会をやってる小倉(智昭)っていうのが番組の中でロックをバカにしたんです。サッチー(野村沙知代)とニューロティカというバンドがライヴをやってる映像を見て、小倉氏がサッチーに引っかけて「この会場の若い子たちはいくら貰って来てるの?」って言ったんですよ。これには腹が立ってねぇ。大企業とのあの横柄なやり取りっていうのも凄く腹が立つし。一度対応したら後は知らないよ、っていう無視の決め込み。それで頭来たからデモ組んで、最後はフジテレビのロビーを占拠して。それでも向こうは無視ですよ、当然ね。その次に、フジの株主総会に出席する委任状と議決行使権を手に入れて、今度は株主総会に殴り込みですよ。
長渕 やりますねぇ。
平野 それで、「伝統あるフジの株主総会がこれだけ荒れた!」って警備部長が泣いて、そこで初めて冷静に話し合うことができて、太田英昭さんという話の判る役員さんが出てきて、ついに向こうから詫び状を取っちゃった。
長渕 取ったんですか? それは素晴らしい(笑)。
平野 これは政治でも何でもないですよ。それで、フジテレビの太田さんと「お互い思想は違うかもしれないけど、日本を憂いている気持ちは同じだね。俺たちおやじも何とか頑張りたいね、少しでも日本を良くするために…」って、これが判り合えてしまうんですよ。とにかくこのワイドショーの言い放しは面 白くないし、「ウソは泥棒の始まりだから、少ない小遣いをはたいて来てくれた若いロック・ファンに謝れ!」と。別 にお金が欲しいわけじゃないし、あの時ロフトへロティカを観に来たお客さんは自分のお金を払ってくれたわけでしょう? それを公共の電波を使って「この子たちはいくら貰って来てるの?」なんて言われたら怒るでしょう?
長渕 ええ。当たり前です。
平野 確かにくだらないことかもしれない。たかだか小倉氏がちょっと放言をしただけで怒るなんてのは。でも、そういう不条理に対して諦めないで、ひとつひとつ怒っていくことが僕は必要なんじゃないかと思ってるんですよ。長渕さんも今怒ってないといけないんだよ、理由はたくさんあるし(笑)。その怒りを僕たちと共有しましょうよ。長渕さんの歌が放送局でかからなくて「面 白くない!」と言うのなら僕らは共闘できるし、長渕さんの思っていることがこちらに伝われば僕らは動きますよ。それくらいのことは考えてインタビューしているんですよ。NHKがブッ飛ぶのを見たいんですよ(笑)。
長渕 ライヴハウスはこれからの唄い手が唄う場ですよね。彼らがプロを目指して段々段々富や名声を持っていくわけでしょう? 有名になる前の連中が唄う場所がライヴハウスであるっていう認識が僕の中ではあるんですね。今振り返れば、自分もそんな時代に無責任にいくつでも曲を書けたら、って思うんですよ。当時、僕も毎日のように曲を書いてて、東京に出てくる頃は300曲くらい曲を持ってたんです。でもその殆どはプロになってから捨てましたけどね。毎日ライヴハウスで唄ってて、その頃はバンド・ブームで周りはバンドばっかりだったけど、自分はギターとハーモニカだけでやってて……そういう連中を育てませんかね? 僕はそういう連中を育てたいんです。今アコースティック・ギターとハーモニカでデビューしてくる連中っていうのは少なくないんですけど、最低限の技術をもうちょっと磨かないといけないと思うし…。そういう連中がもっともっと出てきて欲しいんです。まぁこれが実現するかどうか判らないですけど、自分の音楽活動の一環としてプロデュース・ワークをやっていきたいんですよ。つんくがモーニング娘。みたいなのをプロデュースするくらいならね(笑)。精神性もきちっとしていて、ギターやハーモニカの見せ所もハッキリと判っている本物のアーティストを僕らが育てて、テレビ局に送り込んだほうが、100のデモをやるよりも効力はあると思うんですよ。だから、集合を掛けてロフトでオーディションをやってね、フォーライフ ミュージックエンタテイメントでテープ審査をやって、最終的に僕がプロデュースをする、と。どうですか?
平野 確かにそれは面白いね。やりましょう、やりましょう。

閉塞した時代の中で生きる希望を差し伸べる使命
平野 長渕さんが今度出したベスト盤を通して聴いてるとね、昔の本当にいい時代のフォークを彷彿とさせて、僕の個人的な感性から言うと凄く嬉しかったの。「オッ、これ三上 寛じゃないか?」とか「友部(正人)じゃないか?」って。僕が20数年近く前にやってた<西荻窪ロフト>っていう店には、森田童子、友部正人、加川 良や高田 渡とかが出てくれてね。ちょうど連合赤軍の事件(1972年2月)とかがあった頃ですよ。僕はそういうフォークにずっと思い入れがあって、そこからロックに入っていった人間なんで。長渕さんを見てると、そういう時代の音楽の精神をしっかりと引き継いでる歌唄いだなぁと思うんですよ。あの頃、音楽でいうと何に一番影響を受けました? 長渕 やっぱり関西フォークです。加川 良先輩とか友部正人先輩とか。連合赤軍のあさま山荘事件の時には、友部正人先輩がトーキング・ブルースで唄ったんですよね、「おお せつなやポッポー 500円分の切符をくだせぇ」(「乾杯」)って。かっこよかったなぁ。 平野 そうそう!
長渕 それとあと、加川 良の「下宿屋」とかね。
平野 「下宿屋」は何かのコピーだって噂があったんだけど、僕もあれは大好きだったねぇ。
長渕 それと勿論、吉田拓郎先輩や(井上)陽水さんからも影響を受けたし…。あの頃のフォークっていうのは、高田 渡さんにしても遠藤賢司さんにしてもそれぞれに個性があったし、ギターの弾き方も皆主張があった。遠藤賢司の「カレーライス」なんて、今でも僕はギターを持つと思わずフレーズが出てきます。そこから僕は彼らのルーツを手繰り寄せていって、ボブ・ディランやウディ・ガスリーを聴いて勉強したりしましたね。彼らがいなかったら僕は今こうやってインタビューも受けていないし、歌も唄ってないわけですから、そうした先輩たちに対する敬意の念というのは決して忘れないですね。
平野 やっぱりあの時代の音楽は面白かったし、希望があったもんな。僕は西荻窪にあるたかだか15坪の敷地でずっと店をやってて、高田 渡なんてステージで唄いながらさぁ……
長渕 あの人、ステージ中に寝ちゃうんでしょ?(笑)
平野 そう! 俺、しょうがないからステージまで行ってポンと肩を叩いて起こしたら“ゲボッ”ってギターとズボンはゲロだらけ(笑)。そういうのが全部許される時代だったんですよ。 長渕 僕は学生時代に高田 渡さんを学園祭に呼んだんですけど、来ませんでしたからね。連絡したら「どっかまでは来てる」って言うんですよ(笑)。 平野 あと、東京ロッカーズとかあの辺の、70年代の終わりから80年代初頭の日本のパンクの時は、長渕さんは何してました? 長渕 その頃はもう、専ら弾き語りで小ホール・ツアーをずっと廻ってました。友達はいましたけどね。<照和>でやってたモッズだとか、陣内(孝則)のロッカーズだとか、サンハウスだとかね。シーナ&ザ・ロケッツもかっこよかったなぁ。ああいう連中と音楽談義に花を咲かせたり、一緒に酒呑んでバカ話したり。刺激的な芸術家ですよ、彼ら。半端じゃない。 平野 じゃあ、その頃はもう自分の世界の中で弾いて弾いて弾きまくってたんだ? 遠藤賢司みたいですね(笑)。彼も昔はいつもギターを肌身離さずでしたよ。 長渕 デビュー当時の僕のコンサートには、遠藤賢司さんとか友部(正人)さんの奥さんとかが遊びに来てくれました。 平野 友部はウチで働いてたアルバイトをカミさんにしたんだよ(笑)。 長渕 ああ、そうなんですか(笑)。
平野 長渕さんがパンクのあの精神に影響を受けなかったのは、それ以前に三上 寛や高田 渡や友部正人なんかの世代のフォークにすでに大きなショックを受けちゃってたからなんですね。
長渕 そうです。だから、僕があの時代のフォーク・ムーヴメントの精神をきちんと継承している最後の世代だと思います。フォークに多大なるカルチャー・ショックを受けて、それを自分のスタイルに変えてやっているという。どちらかというと、保守的な表現形態をとっています。
平野 今、勝負したくなるような若い奴いるかい? 今の若い子たちって、「年寄りは面 倒臭いからとりあえず敬服しとこう」みたいな奴らばっかりでしょう? 無駄 なトラブルは避けたいっていうさ。僕らはそのトラブルがあるから面白いわけじゃない? トラブルを背負ってこそいろんなものを勝ち取れるのに。で、最後は「ま、いっか」という中途半端さで、結論を出さずに終わり。僕たちの若い頃は無理矢理にでも結論を求めたけど、これが今の若い子たちの観念だと思うんですよ。
長渕 いや、そうじゃない奴らもいるんじゃないですかね? 十把一絡げにそういう連中が際立って見えるけれども、筋金入りのサムライも僕はたくさん知ってますよ。
平野 僕は今、若い奴らのことを信用してないんだよ。今の30代後半の連中って会社でリストラがあったり、子供がいるのに給料も上がらなかったり、一番辛い目に遭ってるでしょう? 勿論それはデフレ・スパイラルだから仕方のないことなんだけど、将来的な展望も見えない。でも僕はどっかで「ザマァミロ!」っていう気持ちがあるわけ。要するに、「この20年間、お前らは政治とか社会とか環境とかの話をするのをダサイと思ってただろう!?」って。だから権力や支配者は勝手に好きなことをやりまくって、その跳ねッ返りが自分の身にまで及んでるんだよ。今まで何もやってこなかったせいで、社会から復讐を受けてるんだよ。「自業自得なんだ!」ってね。
長渕 僕は「ザマァミロ!」っていう言葉は作家としてちょっと使えないんですよね。優しいメロディで「♪ザマ〜ミロ〜」って唄ってもいいけどさ(笑)。でもそこから何か生きる希望みたいなものを生み出さないとしょうがないじゃないですか? 罵倒して打ちのめすことは誰にでもできることです。大切なのは、そこから何か起き上がることを考えないといけない。
平野 僕はね、もう徹底的に日本は悪くなったほうがいいと思ってるんですよ。一度堕ちるところまで堕ちて、共同体も含めて全部解体するしかない。その時に初めてみんな“これじゃいけない!”と真剣に考えるようになるだろう、と。でもその一方では、「日本って上から下まで腐りきってるじゃん!」というこの現状に対してやっぱり何とかしたい考えも常にあるわけです。だからその狭間でいつも揺れ動いてるんですよ。
長渕 まぁ過激派としてはね(笑)、そういう言い方も判りますよ。僕の過激は、また平野さんとは違う。もう25年間も第一線で唄い続けていること自体が過激ですからね。歌の影響力がこれだけ大きくなった今でも、僕は行く時は徹底的に行きますから。平野さんより過激かもしれませんよ(笑)。ただ、今この現状の中で倒れている奴がいる時は、そいつを起こし上げたいという想いがあっての過激が大切ですよね。それは団塊の世代も“三無主義”も思想も何も関係ない、人間として当たり前の即効的な行動です。そういう自分でありたいし、何回も言いましたように麻痺したくないんですよ。だけど、悲しいかなこの業界、熱い野郎、男気に燃える野郎が本当に少ないんです。だから、僕だって平野さんどころじゃなく腹が立つことばっかりです(笑)。
平野 なるほどね。倒れている奴がいる時はそいつを起こしてからの過激、か…。そのフレーズはいいね。まぁとにかく、何か面 白いことを一緒にたくらもうよ(笑)。今日はお忙しい中ありがとうございました。
(写真:大川奘一郎/本文構成:椎名宗之)