「砂漠のネズミ・ナナオサカキ」
文:加藤梅造
見えない地球家族の長老。アンドロメダからゴンドワナへ地球を股にかけ、宇宙を放浪するコスモポリタン、真性の地球詩人。鹿児島出身、身長170センチ、体重60キロ、時速6キロ──
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この不思議なプロフィールを持つ詩人・ナナオサカキのことを知ったのはいつのことだったろう? それはどこかのポエトリーリーディングのイベントで、あるいはジャムバンドのライブ会場でその名はしばしば会話の中に登場していた。このプロフィールにしても周りの人が作ったもののようで、所有を嫌うナナオは肩書きすらも自分に持たない。ある時、人から血筋について訊ねられたナナオは「私には血筋などはない。私は砂漠のネズミだ」と答えたという。
2002年3月9日。私はこの日、新宿ロフトで行われる非戦のためのチャリティ・イベント「LOVE&COMPROMISE」の準備に追われていた。このイベントでナナオサカキがポエトリーリーディングを行うことになっており、このためにナナオは南伊豆からやってくるという。ナナオは電話を持たない。ナナオを紹介してくれたお茶の水のエコロジーショップ「GAIA」の南兵衛は、数週間前に手紙でこのイベントのことを伝えたきりだと言う。本当にナナオは現れるのか? ふだんは携帯電話を当たり前のように使っている私は、そんな不安を抱えながら開演前の新宿ロフトの前に立っていた。
“私は 歌
私は ここを 歩く”
──「ココペリ」(ナナオ サカキ)
ナナオサカキの詩と存在は日本よりもむしろ海外においてよく知られている。詩は英語をはじめ様々な外国語に訳されており、語学に堪能なナナオは海外でのリーディングにもよく招かれる。国内はもちろん世界各地を転々とし、気に入った場所があれば数ヶ月、時には何年も住み着くナナオほど「放浪」という言葉が似合う詩人もいない。ナナオの朋友でありビート・ジェネレーションの代表的詩人ゲーリー・スナイダーはナナオについて「日本から現れた最初の真にコスモポリタンな詩人の一人」と呼び、アレン・ギンズバーグは次のような詩に残している。
たくさんの渓流に洗われた頭
四つの大陸を歩いてきたきれいな足
鹿児島の空のように曇りなき目 …
ナナオの両手は頼りになる 星のように鋭いペンと斧
──「ナナオ」(アレン・ギンズバーグ)
私は今、ナナオサカキについての文章を書いているわけだが、何十年にもわたるナナオの放浪の歴史を紹介することは正直言って荷が重すぎる。ナナオという人間の中に広がる森はあまりにも深く広大だ。ひょんなことからその森の中に迷い込み、すっかり帰り道も忘れてさまよい歩く私は、ナナオについて発見したものや体験したことの断片をたどたどしく記すのが精一杯だ。それでも、もしこの記事を読んで興味を持ってくれた人がいたならとても嬉しいし、是非一緒にナナオの森の中を探検してみたいと思っている。
ナナオサカキが最初に多くの人に知られるようになったのは、1960年代の新宿だった。50年代、アメリカ西海岸を中心に巻き起こったビートニクあるいはヒッピーのムーヴメントは、1960年の安保闘争が終焉した日本、そして新宿に飛び火していた。従来の権威を否定し、新しい精神の在り方を模索しようとする多くの若者達が新宿のジャズ喫茶や今はなき「風月堂」などに集まってきたのだ。そして彼らの中の一部は、まるでJ・ケルアック作のビート文学を代表する小説『路上』の主人公、サル・パラダイスとディーン・モリアーティのように日本国内や海外を放浪し、やがて「部族」というコミューンを結成した。後に日本のヒッピーの元祖と呼ばれるこの「部族」のリーダーがナナオサカキだったのだ。
部族は諏訪之瀬島や富士見高原、東京の国分寺などに拠点を作り、そこで近代文明を否定して自然と共存する新しいライフスタイルを創出しようとした。部族にはナナオの他に山尾三省、長沢哲夫、加藤衛らがメンバーとしており、部族の拠点には多くのヒッピー達が出入りするようになった。その中には、ビート詩人のゲーリー・スナイダーやアレン・ギンズバーグらもいて、彼らの交流を通してアメリカと日本のカウンター・カルチャーの融合が初めて行われたのである。その後、ゲーリーは帰国し北カリフォルニアのシエラネバダ山麓で自らの思想の実践を始め、山尾三省は屋久島の廃村に移住してゲーリー同様、自然と共存する生活を始めた。ナナオは諏訪之瀬島の他にも、長野、宮崎、北海道などに様々な拠点を作る一方で、石垣島白保、長良川などの環境保護運動においてアクティヴィストとして活躍していく。
足 に 土
手 に 斧
目 に 花
耳 に 鳥
鼻 に 茸
口にほほえみ
胸 に 歌
肌 に 汗
心 に 風
これで十分
──「これで十分」(ナナオ サカキ)
大正生まれのナナオは、戦時中に海軍でレーダー技師の任務につき神風特攻隊の送別会に参加したこともあれば長崎の空爆に向かうB29をレーダーで追ったりもした。戦後は闇市を徘徊し、やがて旅回りの芸術家として日本全国を放浪する。ゲーリーらビートニクとの出会いの後は世界を歩き回るようになり、旅は今も終わることがない。
こうした数限りない放浪で得た経験と思索は長い間に深く熟成され、それは詩として生み落とされた。ゲーリーは、「ななおの詩は、手や頭で書かれたものではなく、足で書いたものである。(…)知性や教養のためでなく、生のために、生きた生の軌跡としてここにある。」とナナオの独自な詩の世界を表現している。私は、ナナオの詩を読むといつもそこに、地球上の自然に対する畏敬と感謝、戦争や環境破壊の愚かしさに対する怒りとあきらめ、それでもなお人間に対する深い愛情を感じることができる。ナナオの力強い詩と行動力は、世界中の多くの人達に影響を与えており、特にヒッピーカルチャーの流れを汲むニューエイジやレイヴ・カルチャーの人達、あるいは自然保護、反戦平和、反原発などに携わるアクティヴィスト達に対しては、未来を考える上での力強い指針を与えている。1986年には朋友・ゲーリーやギンズバーグらと共に、石垣島白保のサンゴ礁を空港建設から守るための運動を展開し、また、長良川、諫早湾などの保護、広島、長崎での反核を訴える行進や集会にも積極的に参加している。
昨年、現在のエコロジーの潮流をわかりやすくまとめベストセラーになった本『スロー・イズ・ビューティフル』の著者・辻信一は、その本の中でナナオサカキや山尾三省の詩を大きく取り上げていたが、このことからもナナオが、現在のカウンター・カルチャー/アクティヴィスト達の最前線に現役として立っていることがわかる。もちろんゲーリー・スナイダーもエコロジー思想のリーダーとして活躍しているし、残念ながら故人となってしまった山尾三省の思想も今なお強い影響を与え続けている。特に、世界を覆うアメリカのグローバリズムの波と昨年の911テロ以降の世界的な軍事的緊張に対抗するために、戦後のカウンター・カルチャーを牽引してきた彼らの果たす役割は今後ますます大きくなっていくのではないだろうか。
新宿ロフト前、コマ劇場裏の夜の雑踏の中に、艶々した白髪とたっぷりの髭をたくわえ、大きなリュックサックを背負った一人の老人が立っていた。もちろんナナオだった。私が「ナナオさんですか?」と訊くと、「やあ」という気さくな返事が返ってきた。服装こそ周囲から浮いて見えるが、ナナオの姿は夜の新宿の街にひときわ溶け込んでいる。世界のどこの街でも彼にとっては庭のようなものなのだろう。出番を待ちながらラウンジで楽しそうにビールを飲むナナオは、やがてリュックから見たこともない笛を取り出し吹き始めた。ライブを観に来たキッズ達が次第に集まってくる。すると今度は手笛を吹き始め、周りのキッズ達もそれを真似する。しかしほとんどの者はうまく吹けない(もちろん私も)。「今の子達は手笛も吹けないのかい?」と不満をもらしながらも、ナナオは根気よく手笛を続ける。その音色はまるで深夜の歌舞伎町に今夜だけ棲息するフクロウのようだ。見よう見まねで懸命に手笛を吹くキッズの中から一人また一人音が鳴り出す。その度にナナオは「そうそう、うまいぞ!」と嬉しそうに笑った。
やがてナナオの出番が来た。ステージに現れた見慣れない老人に客席は興味を注ぐ。すると客電の落とされたフロアを見たナナオは、スタッフにライトを点けてくれと頼んだ。客電がともり場内が明るくなる。そして客席を見渡したナナオは一言こうつぶやいた。
「ほら、人間だ。狸や狐じゃない(笑)」
(文中敬称略)
■参考文献
「足で歌う コスモポリタン ななお "Break the Mirror"序文」(ゲーリースナイダー)
「聖なる地球のつどいかな」(山尾三省+ゲーリースナイダー/解説・山里勝巳)
「無名のままに50年以上、唯一無二、スローな詩人の、スローな旅は続いていく」(南兵衛)
「『フウゲツ』の人々、お客さま、芳名録」(フーゲツのJUN)
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