梶原 今回のお客様は、佐久間正英様です。
佐久間 よろしくお願いしますね。
梶原 佐久間さんとの出会いはブルーハーツの2nd.アルバムのプロデュースをやってもらった時からですね。もう12、3年前になりますか。
佐久間 そうなりますね。早いもんですね。
梶原 佐久間さんが音楽を始めたきっかけはなんだったのですか? やはり外的要因が大きかったのでしょうか。
佐久間 記憶に残っている音楽に関することは2歳の時ですよ。まだおむつをしていたから。人のうちでベートーベンを聴いていたく感銘を受けた。ベートーベンを聴きながら自分は指揮をしていたのを覚えています。その頃はオーディオ装置、いわゆるHI-FIが自宅にあるのは珍しい時代で。そういう数少ないうちでベートーベンがかかっていたら、僕は異常に反応した。一番最初に音楽に興味をもったのはその瞬間だったと思います。
梶原 ほぉ。その後はクラッシック畑に歩んで行くのですよね。
佐久間 その後は小学校1年生でピアノを習い始めたんですよ。
梶原 それは普通の習い事の一環としてですか?
佐久間 習い事だったんだけど、普通じゃなかった! 最初から弾けてしまったんですよ。
梶原 えぇっ?! 何が弾けちゃったんですか?
佐久間 <白鳥の湖>だったと思う。Cマイナーで両手で自分でアレンジをつけて弾けてしまったんですよ。先生もかなり驚いていた(笑)。1ヶ月間でバイエル2冊終わって。
梶原 どういう事ですか?? 信じられない! 天才じゃないですか!!
佐久間 そう、天才だったんですよ(笑)。その後先生が引っ越してしまって、私の家も遠くのいい先生に習わせる程裕福な家庭じゃなかったから、ピアノはそこで断念しちゃうんです。
梶原 もったいない。それにしても初見で曲が弾けるなんて、恐ろしい幼年期ですよ。
佐久間 そうね。小学校1年生になって音楽の最初の授業でト音記号やら音符やら休符やらを習って、「なるほど」って思ったのね。
梶原 はぁ、「なるほど、楽譜は読める」って。ものすごい天才ですよ! 読めちゃうから弾けちゃう(笑)、佐久間さんにとっては簡単な事だったんですね。
佐久間 ええ。そこまでは神童ですよ。でもそこまで(笑)。
梶原 ピアノを辞めて、その後は?
佐久間 音楽に関しては中学でブラスバンド部に入りました。そこの部は優秀な部で、その後芸大に行ってしまうような人がかなりいて。僕もトランペットで芸大を目指し始めるんですよ。でもそのほぼ同時期、ちょっと遅れくらいでギターを独学で始めるんです。学校でも同じクラスの奴に誘われて、今で言ったらJAMを延々やってましたよ。そこで、人と演奏をしたらめちゃめちゃ楽しいっていうことが判ったんですよ。一緒にやっていた奴は、学級委員、その後生徒会長をやってしまうような奴であんまり好きなタイプな奴じゃなかったんだけど。でもギターを一緒に弾いたら楽しくて、そいつとバンドを組むまでになっちゃった(笑)。その時点でクラッシックさんさようなら〜!
梶原 ロックンロール道ひた走りな感じですね(笑)。佐久間さんが中学生だった頃はロックの背景は、どんなもんでしたか?
佐久間 リアルタイムでベンチャーズだ、寺内 毅とブルージーンズだ、勝ち抜きエレキ合戦が始まったりするころで。後は、もうちょっと不良とされる所でビートルズが出て来た感じかな。
梶原 そのビートルズがもりあがっていく波をもろに感じていたんですね。
佐久間 そう。近所の人から不良と言われ(笑)。ただ、僕らは生徒会長のような奴とバンドを組んでいたし、僕も学校の勉強がかなり出来た方で。世間にはカモフラージュになってたかな。
梶原 じゃぁ、BAD BOYS系でロックをやるタイプとは違った訳ですね。
佐久間 エリート系(笑)。テクニックに走ってしまう系ですよ。
梶原 僕は高校生の頃にパンクロックの波を受けたんですよ。一生拭えない影響はなんですか?
佐久間 ベンチャーズです。
梶原 ビートルズじゃなくて?
佐久間 ベンチャーズは今になって聴いてみても相当PUNKじゃないですか。いい加減さだとか。あの「テケテケテケテケテケテケテケテケ、、」ってやるのがすごかった。あの反体制の主張が。
梶原 あれが体制を破壊していたんですか。
佐久間 あれは破壊行為だったと思いますよ。大人は「テケテケ」を恐れたわけだから。
梶原 佐久間さんにとってはそこに惹かれる部分があったんですね。
佐久間 多分ねぇ。一番の初期衝動があったんですよ。あとは大きい音が出てしまう所。ミュージックシーンでドラムが登用されてくる。そうなるとドラムに負けない音を出さなきゃなんなくなる。アンプとかで。それがやっぱり雰囲気を変えましたよね。夢中になりましたよ。
梶原 そこからコピーバンドとかが始まるわけですね。
佐久間 うん、でも最初から僕らはオリジナルをやっていたんですよ。中学でバンドを始めて芸大は諦めて普通の都立高校に進学するけど、相変わらずバンドはやっていて。それでトランペットはつまらなくなっちゃって。自分で言うのもなんなんですが、トランペットも結構上手かったんですよ。芸大に行こうとしていたくらいなので。だけどトランペットだとやる音楽がJAZZしか無くなっちゃう。僕は再現音楽としてのクラッシックはやりたくなかった。管楽器ではロックはやれない時代だったから、JAZZに行くしかない。でも僕はJAZZだけは興味がなかったんですよ。とても嫌いな音楽だったな。
梶原 それはどうしてですか?
佐久間 多分4ビートが肌に合わなかったんでしょうね。しかも時代は、あっというまに僕が高校に入るころ、ニューロックとかアートロックと言われる時代に突入していくんです。フィルモアの奇跡とか、スーパーセッションとか。圧倒的にすごかったのは、ジミヘンが登場ですね。やっぱりツェッペリンとかジミヘンに出会って、本当の意味でその後のロックの道を決めてしまったんです。
梶原 やっぱりクリームとかよりはツェッペリンだったりしたんですか?
佐久間 うん。クリームはまだちょっとおとなしかったよね。しかもクリームはもうちょっとBLUESに素直だったりしたから、僕からしたら点が低かったんですよ。僕は即興演奏への衝動があったから。
梶原 まだまだ四人囃子には辿り着いてないですよね。
佐久間 そうね。大学に入って色んなバンドを経験して。その頃からセミプロになった。人のバックを個人的にやったり。バンドでもライブハウスに出てお金を貰ったりして。そういう中で四人囃子と知り合ったんですが、とにかく四人囃子はすごいバンドで壮絶なショックを受けましたね。
梶原 四人囃子は俗にプログレって言われていましたよね。
佐久間 そうだね、そっちに意識は行ってて、そこも良かったんだよね。普通じゃない所、アンダーグラウンドな所もすごかった。
梶原 四人囃子に参加以前に、影響を受けたのは?
佐久間 一生で一番影響を受けたのが高校生で16の時だけど、早川義夫。
梶原 へぇ、JACKSですか。生で見たんですか?
佐久間 うん。僕は地味な少年で大人しい少年だったんだけど、早川義夫にはどうしても会いたくて。「会ってください」って連絡をしたんですよ。
梶原 音源でしかJACKSを聴いたことがないので、生の迫力だったりバイブレーションを直接受けた事はないんですよ。早川さんはどういう感じだったんですか?
佐久間 初めてヤバイものに触れちゃった感じ。何にも知らない子が知らないうちにドラッグに手を出してしまったような感覚。何だったんだろう?! あれは、、、って帰りの電車で延々考えちゃう。僕はとにかくJACKSを追いかけて色んな所に行ったね。そのどれもが素晴らしかった。
梶原 なるほど。佐久間さんのその後を変えてしまうくらいだったんですね。
佐久間 JACKSと出会ってアンダーグラウンドなもの、人と違うものを追い求めるようになったんですね。僕はインスト少年だったから、歌にそれほど意識は行かなくて。ビートルズにしても何にしても、歌が入っていても、単なるいい音楽として見ていたんですよ。歌も曲の一部として捉えていて。だから、日本語で飛び込んでくる歌詞なんて想像できなかった。日本のロックなんてちゃちぃものだったし。リズムが入ったフォークソングみたいなもので(笑)。それがJACKSなんてはそうじゃなくて。「人って歌うとこんなになっちゃうんだ」って思わせられて。
梶原 フォーク系のアンダーグラウンドな方向にはいかなかったんですね。
佐久間 全然興味なかった。もっともっと内面的なもの、象徴的なものに憧れていましたからね。四人囃子は日本で二番目に衝撃を受けたバンドですよ。
梶原 ベーシスト・デビューはいつ頃になるのですか?
佐久間 四人囃子に入る前のバンドです。
梶原 例によって、すぐ出来ちゃった?(笑)
佐久間 いやいやいや(笑)。ベースは難しかった。最初は弦楽器で一緒だし、ギター弾けるんだからベースも簡単だろうと思っていたんです。でも難しい。大変だった。ギターの弾き方じゃベースは音が出なかったんですよ。その頃はピックでベースを弾く人はあんまりいなかったんですよ。みんな指だったんです。僕がピックで弾いても太い音が出なかった。それに気がついてものすごく練習しましたね。
梶原 なかなか、そういう音の部分に最初からいき詰まったりしないじゃないですか。佐久間さんはやっぱり耳が敏感だったんでしょうね。
佐久間 敏感というか、そうじゃないとみんなと張り合う事は出来なかったからかな。
梶原 四人囃子からプラスチックスの時代ですが。佐久間さんにとってニューウエーブってリアルタイムのガキというより、少し大人になってからですよね。そういう新しい動きをどうみていたんですか?
佐久間 至極当然のこととして見てましたよ。日本で言うと、まぁ四人囃子なんかもその部類なんだけど、上手い系のバンドがどんどんどんどん進化してフュージョンみたいなテクニカルな方向に向かっていたんですよ。そうじゃないとダメっていう風潮が耐えられなかったんで。最初に言いましたが、僕はJAZZがものすごく嫌いで、フュージョンなんてJAZZとROCKの合体みたいな音楽は許せなくて。
梶原 それはいいですね(笑)。
佐久間 ROCKの風上にもおけん! って。そういう意味だと僕はPUNK魂満開だった。だからニューウェーブみたいな別の流れが起きるのは至極当然。
梶原 そういう流れでプラスチックスが始まるんですね。
佐久間 あのバンドはリズム・ボックスを使っていたんだけど、その一番の理由はその頃のドラムがみんなドンカマを聞き出したことなのよ。その前までは聞いていなかったのに。ドンカマ聞きながら叩くんだったら、リズム・ボックスでいいじゃん! っていう気持ちの表れですよ。
梶原 その、四人囃子をやっていた佐久間さんがいきなりプラスチックスをやろうとする流れは、かなりこう、、周りから、
佐久間 色々言われたよ(笑)。
梶原 それは本人的にはどうだったんですか?
佐久間 プラスチックスを僕が始めることは、手のひら返したみたいに色モノに走る感じがあったんだろうね。だから各所からかなり非難されたし、顰蹙かっていたみたい。
梶原 だけど、ロックの本質的な部分では変わっていなかったんですよね。
佐久間 うん。音楽自体を裏切るという行為ではなかったんだけどね。
梶原 でも、それをやってのけてしまうのはすごい事だと思いますが。
佐久間 うーん。たまたまそういう流れにあったからなんだけどね。プラスチックスの原型はファッションの友達連中で、知り合いのパーティーでデビューするんだけど、もうとにかく下手。でも格好良くて。そのうち仕事が忙しくメンバーが抜けてしまったので、僕に声がかかったんだけど。
梶原 プレイ的には四人囃子とは全然違った事を求められたりしますよね。
佐久間 それまではPUNKバンドだったんだけど、僕が加入して違うやり方しようということで、テクノバンドになるんだよ。しかも僕はプラスチックスでベースを弾くわけにはいかなかったし。他のメンバーと差があり過ぎちゃうでしょ。ベースバンドになっちゃう。
梶原 それは面白いですよね。自分のことで言うと、ドラムから離れるのはすごく抵抗があるんですよ。思い入れとかこだわりとかがあるから。
佐久間 判りますよ。まぁ僕は単なるミュージシャンだということで。ベースでもギターでも。プロデュースしているときも、楽器で参加する場合もあるし。
梶原 もう少しするとブルーハーツのプロデュースとかをやって貰うんですよね。
佐久間 そうなりますね。プロデュースでいうと一番最初がP-MODELで、完全にメインになってしまったのは、ブルーハーツをやっていた後くらいかな。ブルーハーツの頃はまだCM音楽とか別の仕事をやっていたりしたから。だんだんプロデュース業が多くなって、別の仕事が出来なくなって断るようになっちゃった。
梶原 BOOWYをやった時から佐久間さんのプロデューサーとしての地位がばーんと固まったなって思っていたんですが。
佐久間 ううん。まだですね。BOOWYが売れて、今にしてみたらすごいことだったんだって言われるようになっていますけど。その当時はまだまだだったんですよ。まぁ、僕の仕事量はそれから増えましたけど。
梶原 佐久間さんのプロデュースのスタイルとはどういうものですか?
佐久間 スタイルねぇ、、うーん、、、(しばらく沈黙)
梶原 ブルーハーツみたいな、あんまり他にやりようのないバンドの時はそのバンドのベストの部分を出してあげればいいっていう考えになると思いますが。
佐久間 うん、基本的にはそれですよ。アーティストのいい所が引き出せればいいわけで、そのために四苦八苦する。何もしないで済めば、これほどいいことはないわけで(笑)。
梶原 なるほど。逆にその人に頼むと、完全にその人の音になっちゃうスタイルの人もいますよね。
佐久間 そういうことはやりたくないのね。やらなきゃならない時もあるんだけど、やりたくはないですね。自分の存在が見えないほど、僕にとっては仕事が成功したことなんですよ。
梶原 その上で、佐久間さんが気を付けているポイントってなんですか?
佐久間 何も足さない、何も引かないことは一つのポイントですね。
梶原 でも、現場でよくあることで、何か足りないなぁ、、、っていう感じになるときが結構あるじゃないですか。そういうときは? まぁ、ケースバーケースなんでしょうけれど。
佐久間 そうですねぇ、そういうときは見えない形で音をサポート出来るようにしていく。そんな音には気がつかない雰囲気を作りますね。スライダースの作品でキーボードの音はあんまり耳にのこらないでしょ。でもレコーディングの時は、僕がキーボードで入っているんだよ。
梶原 へぇぇ! そうなんですかぁ、それは気がつかなかった。
佐久間 そうでしょ。音の印象がないやりかたです。具体的にそういうサポートがあったり。ドラムの音を加工したり、ギターにエフェクトかぶせたら済んじゃうことだったり。そういう作業はしますね。
梶原 例えば、曲の構成をかえてしまったりとかはどうなんですか?
佐久間 それは依頼されたり、どうしてもそうしなければ、という必然性があればのはなしですね。その人たちがやりたいようにやればいいじゃないかって思っているので。
梶原 例えば、このギターのフレーズがちょっと、、、、って言うときもありますよね。
佐久間 うん。そういうとき、そのギターのフレーズだったらギターの音自体に迷いがあったら言うよ。弾いた人が自信を持って出した音だったら、他人が言う必要はないよね。迷いは音に出るじゃない。それはあんまりいい事じゃないからね。
梶原 あとはテイク選びとか。どこでストップをかけるかは、プロデューサーの腕の見せ所だったりするじゃないですか。
佐久間 それも本人が納得しているかが基本にあって。
梶原 その、納得出来ないことが多かったりするじゃないですか。もう一回、もう一回って(笑)。
佐久間 いやいや、全然納得出来るところまでいくよ。いいものが出来れば納得出来るだろうし、出来なければ納得出来ない。それだけのことだと思いますよ。
梶原 何回もやっていくうちに、音がまとまってつまらないくなったりもするじゃないですか。
佐久間 うん。つまらなくなっていくときは、まだちゃんと出来ていないときなんですよ。だから、ちゃんとしてきちゃって、なんだかつまらないよねっていうときは、ちゃんと出来ていない証拠なんですよ。だって、つまらないんだもん。ちゃんとして納得いくように出来ていたら、つまんないなんてことはないもんね。そういう事をまず判って貰う。
梶原 ちゃんとの意味が違っているんですね。
佐久間 コード間違えないとか、フレーズとちらないとかをちゃんとやっていてもつまらないのは、納得いく域にまで到達してないんでしょう。ずれていてもいい演奏っていうのがあってさ。例えば昔の音楽聴くと沢山あったりするのよ。ドラムとベースが完全にずれちゃっていても、全然格好いい。
梶原 僕も最近は若手のバンドをプロデュースする機会がちょこちょこ出てきて。
佐久間 まぁ、梶君も若手育成の時期に来ているでしょう(笑)。
梶原 とんでもないんです(笑)。どうしたらいいかなぁ、って。
佐久間 まず一つに、プロデュース業っていうのは本来いらないことなんですよ。そういう前提が自分の中にある。そんなのなくて出来るバンドの方がいいに決まっているんだから。でもやると。じゃぁ、なぜやるのかっていうと、商品化の手伝いだと思うんですよ。いいプロデューサーっていうのはいいエンジニアだとかいいマスタリング・エンジニアと一緒で、商品価値を高めることが出来るっていうことだと思うんですよ。マスタリング前と後では明らかに後の方がよく聞こえるじゃないですか。曲が変わるわけでも、アレンジが変わるわけでもないのに。プロデュースも一緒だと思うんですね。バンドのやりたいこともアレンジを変えてしまうわけでもないのに、よく聞こえる。成功させる。でも、商品化するということは、ミュージシャンの発想と逆をいかなければならない場面も出てくる。
梶原 それを上手く修正してあげる事だと判っているんですが。その、商品化する事に関して、やはり時代性も重要な事だと思いますが、その時代性に対するアプローチはどのようにしていますか?
佐久間 なにもしてないよ。ただね、その日の勘を信じる。今日は黄色だと思えば、黄色を良しとするし。昨日は黄色だったけど、今日は青だよなって思ったら、青を信じるし。
梶原 へぇぇぇ?! そうなんですか?
佐久間 その日の触感を信じるんですよ。従って、翌日前の日のテイクを聴き直して、イマイチだなぁって思っても、手直しすることはしないんですよ。だって、その日にいいと思ったんだからいいじゃんって。
梶原 なるほど。世間に向けて色んなアンテナを張り巡らす事はしますか?
佐久間 意識してはしない。
梶原 流行モノは沢山あって、それに対して自分が知らないという不安感は?
佐久間 全然ないですよ。所詮音楽だし。所詮音楽だしっていうのは、僕たちがやっているのはROCKでしょ。ROCKっていうのは、新しいものなんて存在しないんだよ。
梶原 チャック・ベリーのころから?
佐久間 うーん、少なくともビートルズからかな。音だなんだを含めても、70年代後半にHIP HOPが登場して全部終わったよ。だから、特別にアンテナを張り巡らす必要はないんじゃないかな。自分の中のモノを信じるだけでいい。でもHIP HOPの登場にしてもニューウェーブの登場にしても、あるいはハードロック、プログレの登場にしても、ものすごく幸いにして僕はリアルタイムに経験してきた年代なんだよ。だからそれ以降、再度学習する必要はないから。新しい音を求めているんだけど、新しい音は出てこないし、作れないのも判るし。でも現代音楽みたいな所にいっちゃえば別なんだよね。新しい音ばかりだと思うんだけど。でも違うわけでしょ。ROCKでやるという前提が自分の中にあるから。なんか新しい事というか、音楽的に新しくなくても、その時代時代の空気みたいなものがあって、そういうものは普通に生活していれば感じるでしょ。山奥に住んでいる訳じゃないんだから。
梶原 まぁ、そうですよね。
佐久間 そんなに難しい話じゃないし。街に走っている車の種類が変わったら、道路のノイズも変わってくる。
梶原 そうですよね。流行モノに飛びついてばっかりいたら、結局後追いでしかないわけで。日本のROCKってなんかやっぱり、アメリカの音楽の物まねな感じがありますよね。
佐久間 うん、それは感じるよね。
梶原 だから、その辺が日本発のROCKのスタイルがあればいいんじゃないかって常に考えてしまうんでうすよ。
佐久間 それは日本の音楽のなかでもある種<ダサイ>といわれるような音楽、BOOWYも今でこそ再評価されているらしいんだけど、例えばビジュアル系の様な音楽はかなり日本オリジナルだなぁって思って、僕は評価しているんですけどね。
梶原 MUSIC BAZARでご一緒していますよね。チャリティーに対して考えはありますか?
佐久間 個人的な意見で、言っていいのかどうかなんだけど。実はあんまり好きではないんですよ。音楽をやっていて、音楽に社会的なメッセージを込めたり意味を持たせる事は、僕にとっては反することです。音楽は意味をもってはいけないと思っていて。言葉を持つんだったら、音楽である必然性がないんじゃないかって。
梶原 発言は言葉を使ってやるべきだと。
佐久間 うん。ちゃんと明確な形で伝えるべきなんじゃないかと思います。
梶原 音楽で伝えようとすると、ちょっと舌足らずになってしまう感じですよね。
佐久間 音楽だけだと何を伝えるのかがぼやける感じがするんですよ。
梶原 でも、多くの人に伝える手段として音楽がきっかけになってもいいと思うんですよ。
佐久間 うん。きっかけの存在として使われるのはいいと思うんだけど。
梶原 僕がプロデュースしているバンドに、サルサガムテープがあって。このバンドは障害を持っている方の施設から始まったバンドなんですよ。だけど僕からしたら、単なる格好いいROCKバンドとしてとらえていて。それ以上のものはあんまりないんですけど。
佐久間 うんうん。
梶原 あとは僕の中のROCKのモチベーションと、仏教徒としてのモチベーションが同じだったりして。
佐久間 そうそう、梶君は面白いね。その共存が不思議なんだけど、それが梶君なんだよね。
梶原 でもね、音楽はどうやって始まったのかっていったら、SOMETHING GREATな存在に何かを捧げるためだったと思うんですよ。そのために一生懸命スタイルを作り上げたんじゃないかなって思っているんですよ。音楽で感動することはスタイルが違っても、何となく伝わってくるもので。それを生み出す力っていうのは自分の中だけじゃなくて、シャーマン的な力を使って、その辺に浮いている力を集めて流している様な感覚なんですよ。だから、才能はある程度必要なのかもしれないですけど、自分だけの力ではないんじゃないかって。簡単にいってしまうとそんな感じなんですよ。
梶原 最後に、プレイヤーとしての衝動はありますか?
佐久間 それはすごくあるねぇ。まだまだやりたいねぇ。ギターでもベースでも。打ち込みであれ。
梶原 楽器にはこだわらない?
佐久間 うん。演奏する上で、ギター・ベースだったら楽は楽なんだけど。曲作りだったら打ち込みの方が便利だなとか。そのくらいですね。
梶原 プレイヤーってフィジカルな部分が大きく関係してくるじゃないですか。
佐久間 僕にとっては打ち込みであっても楽器を弾くのであっても同じかな。打ち込みもかなりフィジカルな感じなんですよ。僕にとっては。
梶原 へぇ。それは作っている作業がということですか?
佐久間 うん。生演奏と同じ事なんですよ。
梶原 そこにカタルシスがあるんですね。
佐久間 結構奥が深いんだよ。とにかくまだまだ、プレイヤーとして生きていきたいね。


モドル