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1979 |
3月8日:ライブハウス・ガソリンアレイにて「猫だまし演芸一座ジョイントコンサート」と銘打ち、江戸&じゃがたらギグをおこなう。知りうる限りのじゃがたらのファーストギグ。ロックンロール色の強いバンドであったらしい。
アケミは南部ロックをやるべく、バンドのメンバー募集告知をおこなう。
「当方南部ロックやります。ウェット・ウィリー、マーシャルタッカーバンドなどの音を目指します。あくまでプロとしてやっていくつもりです。アケミ」この告知を見た当時南部ロックを欲していたEBBYは、「女の子が歌うバンドに違いない」と思い電話する。出たのは「私アケミちゃんよ」とオカマ言葉を使うやたら声のデカイ男だった。
ブルースバンドをやっていたBa.のNABEは、じゃがたらのDr.カワベに誘われアケミらと会い、魅かれる。「じゃがたらお春」というバンド名を提案し、了承される。 |
1980 |
4月25日:新宿2丁目ストリップ劇場モダンアートにて「ジュクの夜を狂わせろ!姦、鮮血のオペレッタ」を深夜零時より行う。アケミはシマヘビやニワトリを食いちぎり、生で食うというパフォーマンスを行う。 |
1981 |
4月:自らのレーベル・アグリーオーファンレコードより、1stシングル「LAST TANGO IN JUKU/(ロックを葬りさる歌)HEY SAY」をリリース。「全国集団虐殺ツアー」を行う。
ゴールデンウィーク:初めての関西ツアー。マスコミでの話題が先行し、変態パフォーマンス目当ての客でどこでも大入りになる。アケミも音楽が評価されない状況には嫌気がさしていて、このツアーではパフォーマンスをやめようと思っていたのだが、結局それを求められてしまうと言う結果になった。そのためDr.が続けて二人脱退、G.のEBBYも一時抜けるはめになる。そのため、このツアー後は音楽だけで勝負する決意をする。
8月9日:渋谷・屋根裏「8月の濡れた夜」。共演・コクシネル、ジャングルズ。結成以来のG.の尾島脱退。G.にOTOが参加。
9月10日:新宿ACBのギグよりOTOがステージに立つ。OTOの参加により、じゃがたらはファンク色をさらに強める。
9月29日:渋谷・屋根裏「ファンファントゥナイト」。
10月:「ザ・ニューじゃがたら」と名乗る。1stアルバム「南蛮渡来」の制作を始める。バンド名は「暗黒大陸じゃがたら」に改める。
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1982
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以前のイメージを吹っ切るかのように、音楽中心の活動をしていく。
2月〜:蒲田「MOON CHILD STUDIO」、4月〜六本木「マッドスタジオ」にて「南蛮渡来」のレコーディングに明け暮れる。Dr.にSAMMYが加入。
10月6日:三越銀座スタジオ、東京12チャンネル「ヤングタッチ」本番生撮り中、突然パンクバンドGISMの横山SAKEVIらが乱入、アケミと乱闘になる。テレビ局側にはじゃがたらが仕込んだ演出と思われ、面白がるように撮影される。唖然としたまま止めに入らなかったメンバーに対して、アケミは少なからず不信感を抱くようになる。
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1983 |
この年公開の山本政志監督の映画「闇のカーニバル」にEBBY、NABEが主人公の女性のバンドメンバーとして、アケミがディスコで踊り狂う客としてちょっとだけ出演している。
8月21日:日比谷野音「天国注射の昼 vol.4」(エロ雑誌「HEAVEN」主催)
「24時間テレビ愛は地球を滅ぼす!だいたいあんな番組なんかさ、身体障害者を見せもんにして、あ〜かわいそうですねかわいそうですねって、バカにすんじゃねーよ」
11月3日:リハーサル後、精華大学での本番まで時間を潰す。車中アケミが突然
「おいこれはヤバイぞ。ちょっとこれはヤバイことになってきたぜ。こりゃあ今日はUFOが来るぞ。精華大学の場所はおかしいんとちゃうか?」と意味不明の事を言い出す。ライブ中、アケミが歌を歌わなく(歌えなく)なるアクシデント。演奏終了後、アケミは放心状態で「俺は今日限りでじゃがたらをやめるからな」。
11月4日:
京都・磔磔でのライブ。朝からアケミは行方不明。現地のリハーサルに少し遅れてやって来たアケミはNABE以外とはしゃべらなくなる。
「NABE、お前もヤバイ。次はお前の番だから気をつけろ。俺は昨日言ったとおりやっぱり今日でじゃがたらを下りるからな」。ライブは何事もなく終るが「お前らは大人だ、俺はガキだ。またライブ遊びに行くよ」と言い残し、アケミは帰ってしまう。メンバーは残されたツアーをそれぞれがVo.を取ることで消化する。
11月8日:新潟・ウッディでのライブ前のリハーサル中、NABEが発狂、アケミの予言通りになってしまう。
11月15日:渋谷・クロコダイル。予定をキャンセルするわけにも行かず、アケミ抜きでライブを行う。NABEは一時的に平静を取り戻していた。
11月22日:昼間、六本木・クーリーズクリークでのライブ後、アケミが気になり参宮橋の事務所へ行くと、アケミがいた。
「5時ごろクーリーズに行ったんだけど、俺は必要ないと思って帰ってきたんだ」。
夜、もう一つの法政大学学館大ホールでのオールナイトライブ。アケミは翌日深夜2時に現れる。明朝7時ジャストより演奏開始。曲は「タンゴ」(アルバム「君と踊りあかそう日の出を見るまで」に収録)
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1984 |
1月1日:「10+1 NewYear Rock Festival 83〜84」に内田裕也の要望により出演。アケミも病院から外出許可をもらい出演。テレビ放映される。
3月31日:アケミ、四国の田舎へ帰る。JAGATARAは活動休止となるが、アケミの復帰を信じ定期的なリハーサルを怠らなかった。
12月21日:屋根裏にて「じゃがたらII世」によるライブ。かつての噂を聞き付けたファンにより満員になる。Vo.はEBBY、OTOらが交代でおこなった模様。
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1985 |
2月10日:新宿ロフトにて、「じゃがたらII世」2度目のライブ。今回もVo.はEBBY、OTOらの交代。ロフトにはバルサン事件で出入り禁止となって以来の出演。
8月:アケミの高知の実家に映画監督・山本政志とぴあの八幡氏が出向き、アケミの復帰を促す。アケミは精神的にいろいろな物が失われていたが、ただ一つ「心のうちから湧き出る踊りができるビートをやりたい」と言う思いが強く残っていた。
9月15日:日比谷野音「アース・ビート伝説'85」山本政志の会社レイライン主催。「世界あちこちのビートを一つにしたい」。
Per.3人、Cho.2人を加えた総勢13人のJAGATARAがアケミを迎える。「君と踊りあかそう日の出を見るまで」も先行発売。ライブの最後には出演者全員で「クニナマシェ」を演奏する。イベント後、東京で暮らす用意がまだ出来ていないためアケミは一旦四国の実家へ戻る。「また早く近いうちライブをやりたい」
12月27日:スーパーロフトにてアケミ実家から出張2度目のライブ。再び高知に戻る。
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1986 |
6月8日:渋谷ライブイン「ロビンソンの庭/製作発表記念ライブ」。OTOが音楽監督を務める山本政志監督の映画。共演は主演男優でもある町田町蔵+人民オリンピックショー。アケミの東京で暮らす準備ができ、ようやくJAGATARAは再スタートを切ることになる。
11月22日:JAGATARAのイメージとは結びつきそうになかった六本木インクスティックに初出演。全員赤のジャケット姿で登場。
11月24日:フジテレビ「ライブジャック」公開録画。その内「裸の王様」「タンゴ」「もうがまんできない」が12月22日ON AIRされる。
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1987 |
3月25日:アケミ復帰後初のアルバム「裸の王様」発売。4曲入り、ジャケット4種類(色違い)。どの曲も10分前後のものになっていた。
4月17日:4時間踊りっぱなしのライブ「DANCEMANIA 4 HOURS」を渋谷PARCO SPACE 3で行う。今度は全員白のジャケット姿。 |
1988 |
「評論家の言うことに耳を貸していると頭がバカになるぞ。あいつらのいいとこだけ取れ。あとはあいつら全部てめぇが名前を売りたいがためにやってんだからよ。JAGATARAのことを書いている記事は全部でたらめとでっちあげだと思って下さい。あなたたちがここに来て、こうしてこうやっている事が真実だよ。メディアは全てインチキだ!全部てめぇらが売りたいからやってんだよ!ロッキンオンでもなんでも全部そうだ!だから人の噂を信じるなベイビー!俺はここにいるぞ!俺はここにいるんだ!俺はナンのこっちゃい!ベイビー、ナンのこっちゃい!バイバイ!!」
12月16日:「天皇Xデー自粛に反対するコンサート NOISE IN X'es」にアケミが個人として参加。
「原発反対、レゲェのミュージシャンはこう言うぜ、散髪反対!レゲェのミュージシャンの方がいかしてるぜ。同じ事を、別な次元でやんなきゃだめだ、俺達は。安保反対!インポ反対!ベイビー!ナンのこっちゃい!ハルマゲドンがナンのこっちゃい!エホバの証人が俺んちに来た。ハルマゲドンになって、あなたの魂は救われない…と。じゃあエホバの証人にならなくって、心の清い人はいったいどこ行くんだ?全部矛盾だらけだよそんなん。全ての宗教は麻薬と一緒。SEX,DRUG,ROCK'N ROLL!ナンのこっちゃい。」
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1989 |
とうとうメジャーデビュー。この頃、JAGATARAのラジオ出演をめぐり、ロッキング・オンの渋谷陽一と、MUSIC MAGAZINEの中村とうようが誌上で大喧嘩をした。渋谷がプロデュースする番組(NHK-FMのサウンドストリート?)にJAGATARAを出演させた際、「プッシードクター」などの歌をカットしたりしたことに、アケミが「不信感をいだいた」旨の発言をMM誌が掲載したことから始まったように記憶している。両誌の詳しい言い分は覚えていないが、毎号相手を口汚く罵る様子は非常に見苦しかった。
8月12日:横浜寿町フリーコンサート出演。この模様はビデオ「ベイビー!ごきげんにやってるかい」に収録されている。
江戸は寿町でやるのが大好きだった。なぜならここには幻想がないからだ。バンドブームに煽られ、ロック雑誌に毒されて音楽を聞いている人がいないからだ。
「ロックが中産階級のお嬢ちゃんお坊っちゃんの慰み物になったらたまらんぜ」
「ウォーターフロントがブームになったりしてるだろ。たしかに設計したヤツの才能もあるかも知れん。だけどな、その建物を作っているのは誰だ?そこを工事して働いていたおっちゃん達だぞ。そこを忘れちゃダメなんだよ。」
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1990 |
1月24日:CATV「ROCK THE ROCK」で鮎川誠と対談。
1月27日:江戸アケミ、自宅で入浴中に溺死。享年37歳。 |
1992 |
12月9日:SAXの篠田昌己が病死。 |
1993 |
2月1日〜20日:ナベちゃんによる版画などの個展が自由が丘「サルパラ」で開催された。
2月7日:篠田君が生きていた頃にやろうと計画していたライヴだったが、篠田君が急逝したことで追悼ライブになってしまった「JAGATARAなきJAGATARA」を渋谷ON AIR EASTでおこなう。江戸アケミ詞集「それから」発売。 出演はJAGATARAのメンバーに加え、伊藤耕(FOOLS)、もりばやしみほ(ハイポジ)、近田春夫、チエコ・ビューティら多数。かわるがわるVo.を取り、JAGATARAナンバーを歌った。この模様はCSのスペースシャワーでも放送される。 |
1999 |
9月25日:廃盤になっていたアルバム10枚が新たに解説がついて再発売される。『南蛮渡来』『Robinson's Garden』『裸の王様』『ニセ予言者ども』『それから』『ごくつぶし』『おあそび』『そらそれ』『西暦2000年分の反省』(以上BMG JAPAN)、『君と踊りあかそう日の出を見るまで』(Solid Records)。 |
2000 |
1月28日:江戸アケミ10回忌を記念して新宿のロフトプラスワンにて、OTO、EBBY、その他じゃがたら関係者が参加してトークライブが行われる。松原研二『じゃがたら写真集1980〜1989』(オークラ出版)が発売される。
2月20日:高田エージとシャイの企画で下北沢CLUB QUEで「10年ぶりのナンのこっちゃい」と題されたライブが行われる。出演者はOTOと南のユニット、EBBYのバンドPhat Dog、以前JAGATARAのローディーとしてもスタッフ参加していたKUSU KUSUなどが集まった。
8月15日:陣野俊史『じゃがたら』(出版者)が発売される。 |
2001 |
1月26日:新宿のロフトプラスワンの横山君とサミー前田の仕切りで「なんのこっちゃい祭り」と題されたトークライブが行われる。出演者はOTO、EBBY、TEIYU。深夜に入ってから朝までJAGATARA関係の歌を流しっぱなしのDJタイム。 |
2002 |
1月25日:新宿のロフトプラスワンの横山君とサミー前田がまだ懲りずにトークライブをやりたがるのでシブシブ企画を考えた「なんのこっちゃい祭り3 〜業をとれ〜」。「テロ以降何か考えが変わった人、手をあげて」とOtoが問うものの挙手をしたのは3名だった。なんのこっちゃいだった。じゃがたらのライヴを見た事がない人が半分くらいいたので、気持ちを切り替えライヴの映像を素直に見る事にした。ゲストにこだま和文、TBS『ニュース23』の金平茂紀さん、南流石が参加。 |
2003 |
1月31日 :「じゃがたら 2003“業をとれ!”〜江戸アケミ 十三回忌 天国でのゴ−ル〜」江戸アケミ13回忌記念オールナイトライブを新宿ロフトにて開催。
出演は、
じゃがたら残党組、こだま和文、大槻ケンヂ、町田康、JAGABATA(田口トモロヲ)、遠藤ミチロウ、DEEP COUNT、THE LUNATIC THUNDER(近田春夫のチーム)、MAJESTIC CIRCUS、向井秀徳+PANIC SMILE+菊地成孔(D.C.P.R.G)、伊藤耕&ブルース・ビンボーズ、高田エージ、他。
DJ:湯浅学、サミ−前田
VJ:MM Delight
デコ:ピースメイカーズ・キャラバン、ムラコシヨシト
書道:武田双雲
ラウンジには平和運動のWorld Peace Now, 地域通貨などサステイナブル・リビングに関する活動をしているレインボー・スペシャル・チーム、「十三回忌寿司」の寿司パンク、ビングル圭子など、他が参加。600名もの観客が入るもなんとか無理なくムーズに無事過ごせた。
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