おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年6月号掲載
 春眠暁を覚えず

 わたしゃ、5月の連休はなんとも精力的にあちこちに行動した。名古屋で原智彦さんの能劇「姥捨」を堪能し京都で出来たばかりの「月光荘 京都」という一泊2000円の蚕棚のゲストハウスに泊まり、大阪では福岡風太と阿部登の最後の「春一番コンサート」に参加し、それから信州安曇野の北アルプスの麓にある、オーガニック&パーマカルチャーに徹底的にこだわったファームイン「シャロムヒュッテ」という宿にも泊まって来たぞ。

 以下、原稿枚数の関係でどこまで書けるかが心配だが、ゴールデンウイークでの約10日間の私のレポートである。


原智彦・和久寿焼(元たま)の能劇「姥捨」を見る−名古屋

 名古屋にも最近「KDハポン」という小さな空間だが音楽、トーク、演劇やらを行う文化情報発信基地が出来たのだ。このお店には過去何度か行ったことがあるが、吹き抜けの店内が所狭しと流木で飾られた、圧倒的な「芸術」も大評判だというので見てみたかった。だから嫌だけど万博客でにぎわう名古屋駅に降り立った。

 原作・演出・主演、原智彦さんの「姥捨」はその小さな「KDハポン」の空間を目一杯使って行われた。4トン車2台も使って海岸から運び込んだ現代美術作家・岡部幻氏の「流木ドーム」と、海岸に流れ着いた「ビーチサンダル」が所狭しと飾られている中で、それは不思議で幻想的な「能劇」は行われた。この原智彦(58歳)さんは、「スーパーロック歌舞伎」を毎年大須観音劇場でやっている芸術家なのだが、毎年毎年新しい趣向で私達ファンを楽しませてくれる。「姥捨」とはその昔、深沢七郎さんの小説『楢山節考』で有名になった日本の貧しい山村での古いしきたり、「年を取った老人は口減らしをするためお山に行き、静かに死のお迎えを待つ」という本当に悲しい伝説的民俗学的な話なのだ。子供が年老いた親を背負子(しょいこ)に背負ってお山に登っていくのだが、この作品は見事にそのシーンを幻想的に、「人間とは何か?」まで考えさせてくれる演出をしてくれている。少女役の茂手木桜子(私にとっては始めて見る役者だ)とお婆(原智彦)のコラボレーションが実に見事で思わず唸ってしまった。明かり(照明)が「懐中電灯」だけであり、音楽はex「たま」の和久君がこの公演の為に作詞作曲したものを、劇の展開に合わせての生ライブ。語りかける様に聞こえてくる演出が実に素敵で、なんとかもう一度見たいと思っているのは私だけではないと思った。帰り際、原さんに「平野さん、東京でもやりましよう!」と言われたが「でもさ〜、第一そんな沢山の流木どうやって運び込むんだよ」っとなんとかかわしたが、無理だろうけど出来たら東京でもやりたいな。


往年の山下洋輔トリオが一瞬復活した−大阪緑地公園−

▲ 感激。「山下洋輔トリオ」!

 「春一番コンサート」の演目に組み込まれている山下洋輔トリオだけは「渡世の義理」だけでなく、「往年の山下洋輔トリオの復活劇」としてどうしても見たかった。だからこの連休に動く気になったと言っても過言でない。とにかくもう一度だけでもいいから、この3人の往年の山下トリオを見たかった私なのである。

「ピアノに火を放ち、そのピアノを弾きまくる。これぞ炎のセッション!!」とは、今や伝説となった初期の山下洋輔トリオの30数年前の三里塚幻野祭だったか、どこぞの「河原」だったか? の事である。消防服を着た山下洋輔が命がけでピアノを弾き、坂田明のサックスが吠え、森山威男の華麗なドラムがもっとやれ〜! って強烈に挑発する。ボロボロになって燃えてゆくグランドピアノ、山下洋輔はまだ崩れ行くピアノから格闘して離れない。時代が時代とは言え、壮絶なフリージャズのアングラ的凄さは未だに伝説となっている。この日この山下トリオの登場と共に、その事が私の脳裏によみがえり、離れなくなっていた。そう、日本の若者がまだ「理想」に燃えていた70年代の事だ。あれからすでに30数年も経ったのだ。

 私の「青春(1960〜70年代)」はあの政治の季節であった。全共闘運動や、たいして解りもしないマルクス主義の洗礼を受け、日本を変えてやるんだと「革命運動」に熱病のように突き動かされた時代がいわゆる私の青春だった。こ??の頃は「革命のためだったら死んでも良い」と思っていた。この時代の日本はあらゆる音楽・芸術・文化が日本中のあちこちで芽生え、あらゆる「可能性」が信じられた時代でもあった。一方では第三世界のスーパースター「チェ・ゲバラ」や「マルコムX」にあこがれ、アートシアターのアングラ映画や東映ヤクザ映画と唐十郎の黒テントや寺山修司の「状況劇場」が、当時の若者達から支持されていた。『少年マガジン』と『朝日ジャーナル』を併せ持つことがかっこ良かった。音楽ではジャズが熱かった。私の音楽趣味は相変わらず70年代でも、コルトレーンの「ジャズ」を聴くことが全てだった様な気がする。そんな時代、私は、フリースタイルの山下洋輔トリオに衝撃的に出会い傾倒していった。

 山下洋輔トリオは、若き私のバイブル的存在でもあった。私のジャズを聞く歴史を変えてくれた一枚のレコード盤は「ダンシング古事記」だった。この一枚のモノクロの貧相なジャケットが私の閉塞していた音楽観を180度変えてくれたのだ。のちに私はいわゆるライブハウス・ロフトというものを経営する事になるのだ。

 山下洋輔トリオ(山下洋輔(p)坂田明(sax)森山威男(ds))は1969年結成された。

 勿論私が経営していた西荻窪ロフトや荻窪ロフトでも「山下トリオ」を見続けた。そして1975年11月、荻窪ロフトでのライブ終了後、芸大出の天才ドラマー・森山威男は山下トリオを退団する。その森山さんの退団劇は荻窪ロフトの楽屋で行われたのだ。なぜか側にいた私はオロオロしてしまって、「もう私は二度とこのメンバーでの演奏を見ることはないだろう」と思ったとき、どんなに悲しかったか? バンドとは「解散」がつきものである。しかし私の目の前でやられた森山威男の退団劇は私にとってショックが大きすぎた。

 あれから30数年の時が流れ、私は今、あの若き私を狂わせた往年の「山下トリオ」と出会う事が出来た。この「感激」は何ともどんな形容詞を使っても言い尽くせないと思った。なぜこんな奇跡的な復活劇が出来たんだろうと思った。それはやはり阿部登(30数年前の初代山下トリオマネージャー)の飽くなき執念だろうとひしひしと感じられた。

 5月5日、大阪緑地公園で伝説の往年のシーンが再現した。山下トリオの前のステージでは三上寛が恨み節を唸り去って、山下トリオが登場し「ピカドン」を演奏し始める。隣では画家の黒田征太郎さんが「ビカドン(広島・長崎に落とされた原爆のことをいう)」のテーマに合わせて巨大なキャンバスに1945年8,6と8,9と書く。森山さんがかっこいいドラミングを叩き始め、坂田明のサックスが山下ピアノを挑発する。黒田さんがキャンバスにブッシュ・イラクと書いて消してゆく。絵の具の缶をぶちまけるように赤裸々な前衛画を描き、最後に出来上がったキャンバスには太い赤い血が両目から流れていた。真っ白な装束、真っ赤な目をした大駱駝艦の麿赤兒さんが亡霊のように舞台狭しと幻想的にスローなテンポで踊る。何ともものすごいパーフォマンス、演奏・舞踏・前衛画のコラボレーションであった。私はしばらくの間、感動のあまり金縛りに遭ったかのようにその場から動くことが出来なかった。


『ニッポン放浪宿ガイド200』の宿に泊まってみた

 春一番の興奮を引きずりながら、次の日私はバックパッカーの為の宿に泊まってみようと京都に向かった。一泊2000円のドミトリー形式のゲストハウスだ。本によると沖縄で大人気のゲストハウス「月光荘」が京都でも開業決定とある。このガイド本の今田編集長から、「京都の月光荘は本誌がまだ直接取材していないので、是非一度行って見ておいてください」と言われていたからなのだが、そう言えば、この『ニッポン放浪宿ガイド200』を出版するきっかけは、私が3年前に沖縄にバイクで行き、港でもらった「月光荘」の一枚のチラシから始まったのだ。「へ〜っ、日本にもバックパッカーの為の安宿があるんだ〜」という発見から、いろいろ調べてゆく内に、日本にも沢山のバックパッカーや一人旅の為の宿がたくさんあるんだと知り、それ以後3年もの間、私は時間を作っては北海道から沖縄までのテーマを持った「面白宿」巡りをし続けたのだ。

「月光荘 京都」は京都駅からバスで30分、北のはずれの住宅が密集した所にあり、宿主は沖縄から派遣された若い女性だった。正式な開店はまだ先のようで、そこには7〜8人の若い沖縄からやって来た人たちが和気あいあいと共同生活していた。若い子(20代の男女が中心)達は夜中まで階下のロビーで話し込んでいた。その月光荘の道を隔てた真ん前に大正時代から続く「船岡温泉」というのがある。この銭湯(370円、サウナ、露天風呂つき)の内装、雰囲??気が素晴らしくいい。この銭湯は絶対おすすめだ。一風呂浴びてから私は京都の知り合いと深夜まで酒を飲んで宿に帰って見るとまだみんな起きていて、おしゃべりしていたな。わたしゃ、さすが酔っぱらっているし、一緒にみんなとおしゃべりしたくってもとてもではないがやはり仲間には入れず。そのまま一人孤立して蚕棚のベットでへべれけになって寝てしまっていた。おお〜年寄りは寂しいもんだ。


北アルプスの麓、安曇野のファームイン・舎爐夢(シャロム)ヒュッテに泊まる

 次の日、私は朝早く起き二日酔いの重い頭をひっさげて、京都から松本・長野行きの車中の人となっていた。この農村宿はロフトの環境派おたく(笑)加藤梅造の強力な薦めがあって行く気になった。本の紹介記事には、「循環型社会モデルを先取りしたコミュニティ……豊かな自然の中で自給自足の生活を営む、田舎暮らし」がコンセプトとある。そうか? 農村宿か? 朝たたき起こされて「田植え」かなんかさせられるのだろうか? 嫌だな……なんて思いながら宿に向かう。

 シャロムヒュッテは信州・安曇野の豊かな山林の中にあった。ヨーロッパ風の木造白壁の建物がたたずんでいて、目の前は広大な平原が広がっている。「これなら一日中、ハンモックに抱かれて遠くを見ていて飽きることがないな」って思った。更にはそこで働くヘルパーの女性達(5〜6人はいたか?)のかわゆい事それは見事で、かいがいしく働く若き女の子達を見ているだけで実に楽しかった。

 まさに「これでもか〜」って言うくらいの「オーガニック料理」……なんとコーヒーまで大豆から造っているのだ……で会食したあと、夜8時よりラウンジで宿主の臼井さんの「安曇野」の自然のパソコンを使った案内とレクチャーがあり、「今、必要とされているのは”対立”でなく”いいも悪いも混合した共生”が重要で、日本の山河を蘇生するにはデモや抗議運動ではなく、一人一人が自然を愛し、実直に田畑や山の中に入る事が重要なのだ」って言う説明がとても嫌みなく聞こえ、その話しっぷりは「面白宿」特有の主人の話術がまさに芸の域に達している感があった。最後は「明日の朝の農業体験・実習は出来たら全員参加して欲しい」と宣言された。私は「そりゃ〜無理な話だ。朝6時と言ったらわたしゃ、まだ夜中だよ」と断固参加を拒否(笑)。結局私はこの宿に2日間もいたが、ついに朝6時からの農業体験には参加しなかった(笑)。私はこの不思議なファームインに連泊したわけだけれど、やはり私の好奇心は「ここまでパーマカルチャー(雑草や虫を敵としない”ありのまま”に育てる究極の自然農法)にこだわる宿のオヤジ」をもう少しだけ観察、生態調査したくなったからだ。さすがこの不思議なオヤジの観察結果はとてもいい感じだったな。そう「深み」があるんだな。やはり丸2日間もこんな自然の中にいると、いろいろ面白いことが解って来て、帰りには、ここのオヤジ自慢の菜種の油で動く(!)ランドクルーザーに乗せられ、かわゆい女性に見送られて穂高駅に向かった。松本から高速バス(何とも凄いことに1時間に1本出ている−−3500円と値段も安い)で3時間ゆられて新宿に到着して、私の10日間にも及ぶ東京脱出劇は終わった。


信州安曇野に佇む
舎爐夢(シャロム)ヒュッテ

TEL 0263-83-3838
http://www.ultraman.gr.jp/~shalom/





第4回:第3の道−−荻窪ロフト

日本??のロックが急激な進化をし出したぞ!

 73年の西荻窪ロフトの誕生は、少しは日本のロックやフォーク界に刺激になったのかも知れない。だがこの地上一階スーパーの中にある「西荻ロフト」は、騒音の問題から「ロック」な音量の大きいバンドのライブが出来ない状態になっていた。確かに店の隣との仕切はブロック塀だけなのだ。もうロックの演奏は無理だった。大音量で他人様に迷惑にならないライブが出来る場所を探す必要があった。なぜなら74年は「日本のロック」の成長はものすごい勢いで進化し始めていたからだ。「ロックは日本語で歌ったら世界に通用しなくなる」と言った内田裕也さんの「日本語ロック論争」もあって、全国各地に新しいバンドが続々と誕生し始め、又新たなライブハウスが出来はじめていようとしていた。ロックが一部不良の音楽と揶揄されながら、その勢いで高校のクラスでもそれまではロックに見向きもしなかったガリ勉君まで、エレキギターを持ち始めたのだった。なぜなら若者は女にもてたい一心だったからだ(笑)。

 ロックミュージシャンからも、「なんとかロックバンドで、音量の制限なしの空間が欲しい」という要求が出てきていた。だが、ロフトはまだ西荻窪に店を作ってから1年しか経っていない。お金もなく、もう一軒の店を作るなんてそんな芸当が出来る訳もなかった。だが、私はやはりどうしてもこの革命的な音楽シーンの台頭に参加したかった。当時、中央線の繁華街にビルはあっても、値段が張る地下なんか誰も作らなかった時代だ。だから地下室物件なんていうものはほとんど無く、毎日中央線沿線の駅の近くの店舗物件を探し歩いた。

 まさに状況は一刻を争うのだと思っていた。(当時)誰も聴いていないと言われた深夜放送で日本のロック特集なんかが組まれ、深夜起きている受験生を中心に、日本のロックの「花開く瞬間の時」が来ようとしていた。今や遅咲きの世界から取り残された日本のロックシーンが、一気に花開き始めているのだ。私の心ははやっていた。このままでは時代に取り残される、なんとか「時代を先取り」したいと思った。


台頭する日本のロックに無関心だった音楽誌

 長い間海外の「ロック」に甘んじていた日本のロックシーン。確かに右を向いても左を向いても、みんなマイナーだったけど続々と素晴らしいミュージシャンが誕生していた。馬鹿でかい球場やホールでやりたがる連中は別として、やはり「ロックの原点はライブハウスだ」と言う意識が確固として私にはあった。客が何人入るかなんて問題ではなかった。それは内田裕也さんを筆頭に、頭脳警察、RCサクセション、はっぴいえんどに続き、南佳孝、坂本龍一、山下達郎のシュガーベイブ、センチメンタルシティロマンス、はちみつぱい、吉田美奈子、矢野顕子、荒井由美、小坂忠、布谷文夫。安全バンド。めんたんぴん、桑名正博、愛奴、アルフィー、甲斐バンド、四人囃子、久保田真琴……。関西もライブハウス「拾得」を中心に燃えていた。上田正樹、豊田勇造、村八分、優歌団、ウエストロードブルースバンド、ディランセカンド……。もう数えても数えきれないくらい聴きたい見たいバンドが続々登場して来て、新しいシーンを展開し始めていた。さらに都内に新しいロックのライブハウスが続々と出来るという噂がひっきりなしに飛びかい、私は焦っていた。烏山ロフトと西荻窪ロフトの日常の売り上げ金を泥棒のように召し上げた。まだ西荻窪ロフトの借金を払い切っていない状況で、又さらに銀行から借金をした。借金の為、嫌な奴にもたくさん頭を下げた。物件は荻窪駅南口から3分ぐらいの所の地下にある元「倉庫」を、「ここは倉庫で店舗用ではないけどいいか?」という家主の忠告を無視し無理矢理借りた。元倉庫の地下は暗くジメジメして不気味だった。坪数は西荻窪ロフトの倍近くの30数坪あった。天井が極端に低かった。多分2メートルぐらいしかなかったと思う。だからステージなんていうものは作りようがなかった。それでも東京で始めての本格的な音を出せるロックのライブハウスということで、多くのロッカーや若者達が期待もしてくれた。

 情報誌の『ぴあ』も『シティロード』も創刊したてで、映画の情報だけで無く、こういった若者音楽文化をちゃんと射程距離に置いていて、ライブ情報は無料で紙面に載せてくれるという状況にも恵まれた。これがライブハウス側も情報誌側も躍進のきっかけともなった様だった。今や、日本のロックのオピニオンリーダーみたいな顔をしているけど、当時の音楽誌、中村とうようさんの『ニューミュージックマガジン(現在の『ミュージックマガジン』)』も、創刊したての『ロッキンオン』−−あの渋谷陽一のわずか数百部から始まった恐るべき成り上がり雑誌−−なんかも、新しく??台頭してきた日本のロックには無関心であった。ロフトの「孤立無援」の戦いは続いていたが、まだ中央線若者文化が盛んな頃だ。各地にロック喫茶が出来はじめていた。大学にも路上にもまだ全共闘の残骸を引きずったロック好きのヒッピーや自称革命家崩れはたくさんいた。


1974年−−かくして荻窪ロフトは誕生した

▲この赤提灯! 荻窪ロフトの名物だったんだよ〜。溶けこんでるよね?

 1974年、使い捨て100円ライター「チルチルミチル」が発売され、4月30日、ベトナムでは解放戦線の旗を掲げた戦車がサイゴン中心部の大統領官邸に突入し、アメリカが強引に後押ししたベトナム戦争は、アメリカとその属国の惨めな敗北と化し、これによりアメリカの傀儡政権、南ベトナムという国は消滅した。この12年にも渡るベトナム戦争は私達日本人にも多くの影響を与えた。時の自民党政府は、アメリカの要求があっても若者達の強烈な「反戦直接行動」と「平和憲法」があったおかげで、びびって参戦出来ずに終わった。

 私は31歳にして3軒のお店を持つ身分になった。だが一歩後ろを振り返ると借金だらけだった。当時バツイチ独身だった私は、またもや全ての貯金をはき出す羽目になった。お店を3軒持ったからといっても私の相変わらずの貧乏生活は全く変わらなかったし、「現場主義」で事務所も持たずにいつも店のカウンターの中に入っていてお客さんと接しているのが楽しかった。これが基本的な私の相変わらずのスタンスだ。私はここでもライブの日は週末と祭日だけにして、音楽喫茶(昼間)・ライブハウス(17〜22時)・ロック居酒屋(22〜午前4時)という3つの柱をもって営業していた。店内スピーカーは当時流行りの「アルテックA7」の巨大な奴を入れた。ジャズをやるために小さなステージにグランドピアノも置いた。

 74年に荻窪ロフトが出来、翌年、吉祥寺に「曼陀羅」、そして高円寺に「次郎吉」、その半年後に偉大なる渋谷「屋根裏」が出現することになる。第一次ライブハウスブームの幕開けだ。荻窪ロフトの評判は上々だった。手作りの34センチフリップスのスピーカーは天井が極端に低い事もあってか日本でも最高のいい音を作ったと言われもした。荻窪ロフトは音の良さと中央線の荻窪駅そば(荻窪南口駅から3分)といった好条件(?)に恵まれ、多くのロックファンが集まりはしたが、やはり私の原点は朝4時まで営業する「ロック居酒屋」が本業であり、週末にやりたいライブをやりその赤字をロックに群がってくる若者相手の居酒屋家業で埋めていた。


ロフトからジャズのライブが消えた

 当初荻窪ロフトのブッキングは、ジャズ・ロック・フォークが1/3づつと住み分けていた。すなわち私は日本で始めての「ジャズ・ロック・フォーク」の雑多な音楽ライブスペースの構築を目指していた。「良いものはどんな音楽でも良い。それこそが音楽情報発信基地たり得る」と思いこんでいた。だから私はこのころでさえも、ジャズの名門スペースが沢山都内に存在していてもジャズライブをあきらめていなかった。

 私の心を打つ日本のジャズマンはたくさんいた。しかし、荻窪ロフトでお客さんが入るジャズは山下洋輔トリオぐらいなものだった。ほとんどのジャズライブのお客は10人以下だった。そのころ私はチャージを全額ミュージシャンにバックしていたのだが、それでもギャラは2000〜3000円しかならない。大半のライブチャージは400円前後だった。開演前にお客さんがゼロで時間を遅らせて始めることも数々あった。まさか尊敬やまない先達のジャズメンに1000円以下のギャラを渡すことが出来なかった。だからジャズのライブはいつも大幅赤字であった。そのうちジャズマンから「ロフトはお客が入らない」という格好悪い評判さえいただいた。確かに歴史的なジャズの大御所のライブハウスは新宿「PIT INN」はじめ都内にもたくさんあった。ジャズ界では新興のロフトがいくらジャズライブで頑張ってもPIT INNには勝てるはずが無かった。ジャズファンはロフトのスケジュールなんか見てくれなかったのだ。私は意を改め、ロフトのジャズからの完全撤退を宣言した。そう、私自身は「ジャズを聴きたければお金を払って他店で見れば済むこと」??だと無理矢理自分を納得させた。すなわち一番好きなものを自分の商売というか仕事の中心に据えると、もうそれは「趣味の世界」になってしまい、まさに刻々と地殻変動を始めている日本の音楽シーン(ロック)のトップを走っていけなくなるという事を知った。


ティン・パン・アレイ系の躍進

▲当時、自慢のスピーカー。とにかく音は大事にしてたんだ。

 荻窪ロフトはかくしてロックライブ専門店になり、日本のロック界に君臨した。当時はロックと言っても基本的に全て椅子席で、オールスタンディングなどというスタイルは無かった。荻窪ロフトが総面積約30数坪だから100人(約半数のお客さんは立ち見であった)も入ると一杯になった。当時ロフト(西荻窪ロフト、荻窪ロフト)のブッキングは長門芳郎・前田至氏(元風都市事務所〜テイクワン)がやっていたが、このブッキングマン達は山下達郎、大貫妙子のシュガーベイブを筆頭にはっぴいえんど、ティン・パン・アレイ系列の音楽家ととても縁が深かった。ロフトがティン・パン系ロックに深く関わる方向性はこの頃決定されたと言っていいだろう。そしてこのティン・パン系の躍進はその後いろいろ喘ぎながら「ロックは世界を変える!」なんて言う初期の志なんかすっ飛ばして、ニューミュージックと呼ばれるようになり、ビジネスとして成立してゆくことになる。この日本のロックの黎明期のシーンは「好きな音楽で飯を食べて行きたい」という表現者やスタッフの悲願でもあったが、結果的には大手レコード会社や大手プロダクションに食い荒らされて「売れなきゃクソだ!」という、なんとも音楽に携わるものとしては悲しくやりきれない程の風潮が主流になって行った。このニューミュージックシーンはメジャーに行くため、すなわち各地に点在し始めて来たライブハウスは、「渋谷公会堂〜武道館に行く為のただのステップ台」になって行ってしまったのだ。この光景はライブハウスのオヤジから見るととても滑稽だった。昨日まで「吉野屋の牛丼が美味しいかどうか?」を論争していた音楽家が突然「六本木のどこそこのステーキが美味しいかどうか」に変節して行くものであり、「ロフト? そんなギャラの安いとこ出られないよ」と平然と言い、「昔ライブハウスに出演していた」と言うことを隠すミュージシャンまで出現してきて、ロック成金が日本のマイナーだったロック業界からも出始めたのだった。(以下次号に続く)


■ 1974年11月 荻窪ロフト OPENNING SCHEDULE ■
NIGHT TIME チャージ\400〜700+オーダー

■11(月) 友部正人 / 中山ラビ / スラッピージョー
■12(火) 三上寛 / 佐渡山豊
■13(水) 本田竹廣トリオ
■14(木) 山下洋輔トリオ
■15(金) 藤達也を囲んで…?
■16(土) はちみつぱい / 細野晴臣
■17(日) あらいゆみ / パパレモン
■22(金)〜24(日) <ティン・パン・アレイ セッション3日コンサート>
(元キャラメルママハッピーエンド)
細野晴臣 / 林立夫 / まつとうやまさとし / 伊藤銀次 / 矢野誠 / 小原礼/ はちみつぱい / 上原裕 / シュガーベーブ、他 (総勢30名のジャムセッション)
■29(金) <ピアノ・ワークショップ>
佐藤允彦 / シャドーマスク
■30(土) 山下洋輔トリオ
▲今見ると凄いメンツだなぁ。

ロフト席亭 平野 悠

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