ROOF TOP 2005年5月号掲載
 春爛漫

追悼:孤高の吟遊詩人・高田渡……
その自由だった人生に乾杯!

写真1

 『Rooftop』の原稿を書いている最中に「高田渡死去」という報が入ってきた。旅の途中の56歳。まだまだ若い。最近やけに渡が脚光を浴びテレビや映画を始め、マスコミに取り上げられる回数もふんだんに増えていた。「良かったな。渡も50歳を過ぎて再びブレイクしたか?」って喜んでいたのだが……。ついこないだ、やはり日本のフォークシンガーの象徴、西岡恭蔵さんが亡くなったばかりだというのに……。とても残念で仕方がない。そんな訳でもう30数年も前になるが、私の高田渡のちょっとした「思い出話」を書いてみようと思った。

 私が西荻窪ロフト(1973年開店)を始めた時にはもう、高田渡は友部正人と並ぶ数少ない動員力のあるフォーク界のスターだった。彼のライブはいつも100人近く集まってロフトは一杯だ。当時、フォークのライブで100人近くの動員力がある表現者は珍しかった(勿論、当時の陽水や拓郎のメジャーシーンとは一線を画していたが……)。だから当然、なかなか出来たての西荻ロフトなんぞではライブをやってくれなかった。

 彼は多分、ヒッピー文化時代を引きずる自由奔放人だ。平気で遅刻もするし、ステージでは大量の酒を飲みながら歌う。しかし彼の酒量だけは誰も止められなかった。ステージで何度か寝てしまったこともある。ちょっとタバコを買いに出て、半年帰って来なかった逸話は、ファンの間では有名な話だ。

 渡を始めとする多くの日本のフォークシンガーは5万円(あごあしは別)のギャラでどこでも出かけて行った。そして全国の小さなライブハウスやゲストハウスや公民館で歌う。言い換えれば、5万円払えば彼らは基本的に音響設備がないところでも、お客が何人であろうともどこでも歌う(現在もそういう活動をしていたのかは知らないが)。ふらりとギター一本抱えて、1年の多くは旅に出る。渡の突然の死は、ギンズバーグやトム・ウェイツみたいに放浪吟遊詩人の原点である姿勢を最後まで貫き通しての旅先の「死去」であったろう。何か変な言い方だが「渡らしい」この世の人生の卒業の生業(なりわい)だと思った。……合掌。


演劇・音楽の街「下北沢」。そのルーツを知る夕べに出演した

 3月27日、「Save the 下北沢」が主催するイベントに私ごときが出演した。パネラーは下北沢の主とも言われる本多劇場の本多一夫さんと、もう30数年も下北沢でジャズ系飲み屋をやっているLADY JANEの大木雄高さん、そして私の3人だ。宣伝チラシコピーには「21世紀における演劇・音楽界のトップランナーも、最初の駆け出しは「下北沢」から。彼らをサポートしてきた巨匠たちから語ら れる「下北沢の軌跡」! 聞き逃す手はありません。」と書いてある。

 この「Save the 下北沢」は、『Rooftop』1月号でも紹介した。雑多な街・下北沢の街並みを真っ二つに分断する道路計画があり、街は25メートル(私がいつも泳いでいるプールより広い・笑)以上の道路で分断されるのだ。それによって下北の街は17階建て以上が立ち並ぶ高層ビル街となってしまう。国土交通省、石原都政、世田谷区、デベロッパー、ゼネコン、地権者、商店街ボス、小田急電鉄などの利害関係者どもが入り乱れている。「Save the 下北沢」は、この環境や景観など関係無しに欲得丸出しで「開発」しようと言う計画に「待った!」をかけた下北沢を愛する地域住民や表現者の集まりである。下北が大型道路で分断された高層ビル街になると、当然地主はさらに地代やテナント料を上げ、そうすると現在の下北の個性ある「個人商店主」は駆逐され、下北に集まって来るテナントは法外な家賃や保証金を払えるお金持ちのチェーン店だけのどこにでもあるつまらない街になってしまう。曲がりくねった路地、個性あふれる商店、夜中でも一人歩き出来る安全な街。そんなまだ生き残っている人間的な優しさが物流優先の都市計画によって壊されてしまう事を一番恐れているのは、ただただこの街のたたずまいを愛してやまない、素敵な人たちだ。この人たちは、下北沢の地上げなんかにはなんの利権もない。なのに老いも若きも自発的に参加活動していて、その行動範囲はますます広がって行く。私にとってはイラク戦争とか、日本の武器輸出だとか憲法改正だとかきな臭い話ばかりで、ここのところ挫折感ばかり味わって来ていたのだが、「うっ、ひょっとしたらこの運動は勝てるかも知れない」って思えてくるのだ。言い換えれば、この自発的で素敵な「運動」が負けたら、もう日本の未来はないと言った方が良いのかも知れない。


『ニッポン放浪宿ガイド200』が本屋に並んだ

▲ LOFT BOOKS最新刊。
  1260円で全国の書店で発売中!

 この素敵な本のメインテーマは、「日本でも自由に放浪したり、安宿を回ったりするバックパッカー的な旅が出来るんだ」という事で、私が3年前、沖縄・那覇港で貰った一枚のゲストハウスのチラシから始まった。そのゲストハウスは「月光荘」という。那覇のメインストリート・国際通りの近くにあって一泊1500円、夕食300円(泊まり客のみんなでお金を出し合って食事を作る)泡盛100円という安さだった。又その宿での生活が私みたいなオヤジでも充分面白かった事から、私は日本の素敵な四季折々の自然や田舎の人々の優しさ発見の旅に「はまる」ことになった。私はこの旅で、日本にもテーマを持った面白宿がたくさん存在することを知ったし、夏は北海道のニシン工場で働き、それから半年以上かけて南下して八重山のサトウキビ工場で働くといった旅人が沢山居ることにもびっくりした。この本は私が過去3年間、バイクや列車で回った北海道から沖縄まで日本中のテーマを持ったバックパッカーのための


▲悠さんが佇むこの宿は「夢舎(ゆめや)」。北海道足寄郡陸別町の学校宿。教室なので暖房効かず湯たんぽを抱いて眠る。ー35℃以下になると、次回無料宿泊券が貰える。

安宿(ゲストハウス・民宿・ユース・学校宿・ライダーハウス・宿坊(神社仏閣にだって泊まれるのだ)・ファームイン(農家民宿)など)の中でも特に面白そうな宿の集大成のガイド本だ。この本が出来上がってうれしくって、また実に面白くって役に立つ。まさにこの本は日本版「地球の歩き方」だ。この旅人本に出てくる面白宿の約半分以上は私がまだ直接訪れたことがなくって、この本があれば1年は飽きずに東京に帰らないで安く楽しく「放浪旅」が出来るなって思う。まあ、毎日忙しい忙しいってのたうち回っている諸君には申し訳ないが、これからの時代、「スローライフ」なんていう事がキーワードになって来ると思う。まさにサブタイトルにもあるように若い諸君には「人生を変える旅、運命を変える宿」だ。だから、だまされたと思って、本屋で立ち読みでも良いから手にとってみて欲しい。

●5.18 発刊記念イベントもあります@ロフトプラスワン

LOFT BOOKS PRESENTS『ニッポン放浪宿ガイド200』発刊記念
「旅人達の待ち合わせ vol.1」
●第一部「スローな旅で行こう!」
【出演】シェルパ斉藤(バックパッカー/『スローな旅で行こう』『耕うん機オンザロード』)、カベルナリア吉田(フリーライター/『沖縄の島へ全部行ってみたサー』)
●第二部「チャリンコはなぜ北を目指すのか?」
【出演】平野勝之(映画監督/『由美香』『流れ者図鑑』『白ーTHE WHITEー』)
【総合司会】平野悠(ロフトプラスワン席亭)、今田壮(同書編集担当)
Open 18:30 / Start 19:30 ¥1000(飲食別)
※当日会場にて『ニッポン放浪宿ガイド200』購入の方は200円引
ロフトプラスワンHP





第3回:西荻窪ロフト編 (1973年)

ロック・フォーク系のライブ空間を目指す

▲荻窪ロフトの入り口。ちょうどこの日は遠藤賢司のコンサート、チャージは400円。全く中が見えないこの作り、初めて店に入る時ってやっぱり勇気がいるだろうなぁ。

 ロフト2軒目の物件探しが始まった。都バスが40円、大卒初任給が6万円、世の中は石油ショック・狂乱物価が始まりトイレットペーパーが商店から姿を消したなんて事もあった。私としては限られた予算の中、何とかライブが出来る坪数も欲しかったし場所は中央線文化圏沿線にしたかった。出来るなら吉祥寺駅周辺の物件をもの色したが、とても家賃等の値段が高くってあきらめざるを得なかった。さんざん物件を探し回って何とか中央線の西荻窪駅から5分ぐらいの通称女子大通りの一角の古びたスーパーの一角に店を借りる事が出来た。店の隣は八百屋であり前は魚屋と肉屋だった。20坪家賃は月15万円だった。店はスーパーの周囲をブロック塀で囲んだ。ただそれだけの店でトイレはスーパーと共用だった。この店のオープンには当時の400万近くの資金が必要だった。

 資金は銀行から借金するしかなかった。ライブが出来る空間(当時はライブスポットと呼ばれた)の作り方などほとんど知らず、参考に出来る場所はみんななくなっていてまして演奏家をブッキングしたりマイクや照明、マイクスタンドの立て方も知らない私であった。それらをみんな烏山ロフトのお客さん達常連が無償で手伝ってくれた。店もほとんど手作りでみとさん(現ロフト内装チーム)を先頭に多くの友達が集まってきてれてみんなの力で立ち上げた。ジャズもロックもフォークもいい音楽はなんでもやりたかった。ステージは中二階にした。勿論楽屋とか出演者専用のトイレなんて無かった。今のライブハウスと比べたらいわゆるないないづくしだった。でも誰も文句なんか言わなかった。ただ演奏が出来、間近で生のライブを見れる場所があるだけで少ない客も演奏者もみんなうれしかったのかも知れない。ただジャズをやるためにアップライトの生ピアノ(山下洋輔さんに一発で壊された=笑)を買い、当時はやりのジムテックという巨大なスピーカーを買った。マイクはソニーのコンデンサーマイク(当時この指向性の強いマイクが一番安く2本4000円ぐらいだった。)を4本、マイクスタンド4本、コンソール(コンソールなんておこがましいものではなく)はヤマハの8チャンネルリバーブ付きの全く自慢にはならないしろものだった。照明は裸電球に銀紙をくるんだ。それでも何とか店とライブが出来る空間としての体裁は整えた。仲間が懸命になってバンドや演奏者を探してくれたが、とても毎日を埋める程の演奏者達は集まらなかった。当時は圧倒的にバンド群や演奏者は少なかったのだ。勿論リスナーも圧倒的に少なかった。当時の多くの若者は洋楽ファンばかりだったようだ。私は私で30歳にもなっていないで自分の店を2軒もてるなんて私の気持ちは高揚していて夢の様だった。ほんの1年数ヶ月前、無職であてどもない生活をしていたのが幻の様に思えた。借金も自分の持っているエネルギーと若さから言うと苦にならなかった。まだ情報誌ピアとかシティロードとかがない時代だった。ライブの情報をどうやって、音楽ファンに伝えたらいいのか解るわけもなかった。当時のライブはギャラシステムであって(一回の演奏で大体一バンド15000円くらいだった)勿論今のように動員保証なんてあるわけなくこちらからお願いして出演して貰うわけだか、お客さんが10人以下なんて言う日には大赤字であったしチャージバック制ではなかった。だからこちらも懸命にチラシを大量に駅前でまいた。お巡りに追い回されながら、商店街の苦情を聞きながらとにかくポスターを夜中、吉祥寺、西荻窪、荻窪と中央線中に張り巡らせた。このギャラシステムは西荻ロフトオープンから3ヶ月で辞めざるを得なかった。私は仕方なくチャージバックシステムと言うアイデアを生みだした。そうでないと店の存続自体危なかったのだ。


ないないづくしからの出発

▲「春二番」なんて西荻窪ロフトが出来たての店だったらから許されたのかな〜。高田渡、吉田美奈子、シバ、坂本龍一、布谷文夫、大塚まさじ、三上寛、あがた森魚、ムーンライダース、中山ラビ、友部正人、中川五郎、他の名前がびっち りと書かれてある。もし今ライブハウスでこんなライブを見れたら嬉しくて失神するなぁ。

 何とも、私は烏山ロフトや西荻窪ロフトの資料をほとんど持っていない。つい最近まで私は過去の自分の仕事関係の材料や写真等を残すと言う発想は全くなかったしそういった興味も無かった。西荻窪ロフトの開店は勿論当時の洋楽指向の音楽誌からもレコード会社や業界?には全く話題にもならず相手にもされていなかった。ライブハウスにいわゆる業界、大手レコード会社やプロダクションが入って来るのはそれから10年近くしてからだった。すなわち西荻窪ロフトは「孤立無援どマイナー」からの出発だった訳だ。このころの西荻窪ロフトのフライヤーを持っている人を捜しているのだがほとんど不可能に近い。切れ切れの思い出は不確かだ。何しろもう34年前の話である。ピア編集部にも国会図書館にも、あの雑誌の図書館と言われる大宅文庫に行っても、当時(74年)の西荻窪ロフトの開店当時の資料(スケジュール)がどこかに残っていないかを調べたが、残っている資料は切れ切れでなにも無かったと言っても良かった。オープンセレモニーのスケジュールを工事中から大きなベニヤ板に書いて表通りに飾った。

 この開店はそれなりに道行く若者達の評判になった。頭脳警察・センチメンタルシティロマンス・南佳孝・友部正人・南正人・山下洋輔トリオ・三上寛・吉田美奈子さん達が出てくれたはずだ。チラシも作った記憶もあるが今は残念ながらどこにもない。勿論東京にロック・フォーク系のライブが出来る空間の店が一軒もない時代である。私はライブで店が儲かって経営できるとは初めから思っていなかった。それは烏山ロフトでの経験則がとても大きく作用していた。だからライブは週末だけとし、昼の12時から5時までロックを中心とする音楽喫茶をやった。ライブがある金、土、日、祭日は5時から6時半までリハーサル、そして本番ライブがあってライブが終わると急いで店をかたづけてロック居酒屋を朝までやった。そう言った経営方針を持ったから西荻窪ロフトは潰れないで生き残ってきた。だから雑多な音楽のレコードや漫画、ミニコミ同人誌を中心にいかに若者に肉薄してゆくと言う事を中心に考えていた。それから1年後にぴあの創設者矢内さん(まだ学生だったか?)が自転車に乗って西荻窪までやって来て「今度こういう情報誌(確か映画中心)で音楽も載せるコーナーも作ったのでロフトも載せませんか?」って言ってタブロイド判の薄っぺらな冊子を見せてくれて「えっ、ただでライブの情報を載せてくれるんですか?それはうれしい」って言う会話をしたのを昨日のように良く覚えている。

ロフト席亭 平野 悠

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