おじさんの眼
 ROOF TOP 2005年9月号掲載
 2005年のお盆休み……

平成元禄田舎芝居

 お盆休みの真っ最中のロフト事務所での話である。今話題の小泉「政治」の話題になった。
「小泉首相って何とも型破りで最高に面白いね。4年前、小泉が『自民党をぶっ壊す』って言っていたのが本当になってきたじゃん。これって凄いよ、革命だよ、革命。長年の郵政族議員の慌てようって見ていて面白いよね。最高のドラマじゃん。さて、アホな日本国民は小泉の煽りと二匹目のドジョウ作戦に乗るのかな?」って私が言ったら、小泉嫌いで環境派の加藤梅造(ロフトプラスワン・プロデューサー)が急に怒り出して口を挟んで来た。
「あのね、平野さん、あんなの茶番ですよ。ただ小泉は自民党をまとめきれなかっただけじゃないですか? 第一、今回の小泉の郵政改革なんかアメリカの要請でやっているだけでしょ?」と梅造が言う。
「えっ、なんでそうやってフリーメイソンやユダヤ陰謀説みたいなことを平気で言うの? 梅造ってそういう話って大嫌いなんだろう? 俺は好きだけど…」と私。

▲アメリカは日本の郵貯資金を狙っているんですよ!

「僕だって郵政事業の民営化には賛成だけれど、今のアメリカはイラクとか対テロ対策で膨大な資金が要るんですよ。アメリカは日本の郵貯資金を狙っているんです。斉藤貴男(評論家)さんだって言っていたじゃないですか?」
「そんなのあり? 野党各党が郵政改革に反対したのはそれなんだ? でも反対演説ではそんな質問は全くなかったよね。無責任な流説は良くないよ」
「平野さん、小泉がやったイラクの自衛隊派遣や、靖国問題、憲法9条を変えて戦争の道に突き進もうとしていることの怒りを忘れてしまったの? 今回の選挙は国民の小泉政治に対する審判なんですよ。悠さんが一番怒っている歌舞伎町の監視カメラ、強制的身体検査やエロビデオ屋とかディープな風俗が権力の弾圧でなくなっていっていることを、これじゃ〜ただの警察国家じゃないかって…」
「それと郵政民営化問題とはちょっと性格が違うんではないかい?」と反論を試みたのだが、こう反論してきた。
「悠さんはもう先が短いからどうなってもいいんでしょうけど、僕等にはまだ未来があるんだから無責任なこと言わないで下さい。選挙にも行かないのに」
「俺は40年前の美濃部都知事選挙にも、中村敦夫さんの時にも投票へ行ったよ。馬鹿にするな。お前らは知らんだろうが、俺は細川護熙の“さきがけ政権”崩壊で政治や選挙に対しての参加や幻想は一切やめたんだよ。日本は行くところまで行って潰れればいいのさ」と居直った。
 おっととと、さらにルーフトップ編集長・椎名宗之まで発言してきた。
「悠さん、政治の話なんかロック野郎にはウケないんですから、次号の『おじさんの眼』はもっと面白い話を書いて下さいよ。何かないんですか? 例えば悠さんの離婚問題とか」
「お前な〜、俺の離婚問題で遊ぶのはやめてくれる?」
「いや〜、これは多くのルーフトップ読者が望んでいることなんですよ。お願いしますよ」
 そこにノコノコと、かの有名なエアギター界の第一人者、今や人気絶頂の宮城剛(ロフトシネマ)が現れた。

▲エアギターの世界大会は出場できなくなりました…。

「平野さんすいません。昨日のサマソニでのエアギター日本代表選考会で残念ながら3位になっちゃって、平野さんと一緒に世界大会(フィンランド)に行くつもりだったのですが出場できなくなりました」と言い出す。
「あのな〜ピーマン宮城、そんなのお前の練習不足じゃねぇか? でもな〜宮城、少しは場の空気を読めよ。今やこの事務所では日本の将来を論じているんだ。エアギターと小泉強権政治の日本の将来とどういう関連があるかを教えてくれ」
 ということで、この話は宮城の登場で一瞬にしてコケたのであった。


民族大移動中の東京にて…

 8月15日、民族大移動中の異民族の街、東京は静かだ。眼下を通り過ぎる車の数も圧倒的に少ない。空の色も空気も何となく澄んでいる感じだ。突然の激しい夕立があって、メインストリートは誰もいなくなって、小気味の良いスコールの雨音だけが激しく響き、この東京の薄汚さを全部洗い流してくれるのではないか? と漠然と思っていた。そして「そうか、私は今、人口一千数百万の世界でも最大級の“都市・東京”で呼吸しているんだな」と一人何とも言いようのない東京の片隅でのちっぽけな存在感を意識していた。

 そんな時、静かな一人住まいの10万円のマンションに私の携帯が鳴り響いた。今やかの有名なスーパースター従兄弟の平野レミ(シャンソン歌手? 無勝手流料理専門家)からの電話だった。

 電話口から「悠〜! あんた奥さんと別れたんだって! また女でも作ったんでしょ!? それで今どこに住んでいるのよ?」と叫ぶ声が聞こえてきた。

「女なんかいないよ。それより今俺は自炊しているんでレミパンくれよ。あれって高いんだろ?」

「何言ってんの? 誰にも何にも言わないで家出して、今どこに住んでいるの?」

「それは言えないね。俺はね、もう、レミちゃんと同じいつ死んでもおかしくない年代の60歳になったんで、今までの“家庭に束縛された暮らし”とおさらばして愛と自由を求めて旅立だったんだよ。だから探さないでくれる? 和田誠(レミの旦那)さんにもそう伝えてくれる?」と私。

「ふ〜ん、それよりね、今日お父さん(平野威馬雄)の遺品を整理していたら、あんたの死んでしまった双子の兄弟の写真が中から出てきたのよ。日記もあって、久(私の双子の弟)のことがお父さんの日記に沢山書いてあったよ。それも今日という終戦記念日にだよ。不思議でしょ…」

 レミ姉御の明るい声が電話口から聞こえてくる中、私は一人戦後60年の時間の流れと、昭和20年の東京大空襲があって終戦直後、薬も医者もいない、最悪の食糧事情の中死んでしまった私の弟のことを深く思い、「戦争が憎い」って思った。





第6回:下北沢ロフト編─2(1975年〜)

初代下北沢ロフト店長インタビュー

▲自由が丘ロフトでの佐藤弘社長と私。お互い年を取ったよな〜と10年ぶりの再会に二人してむせび泣く(笑)

 新宿ロフトが出来る1年前。1975年、下北ロフトは誕生した。紅茶キノコと漫画『がきデカ』、『およげ!たいやきくん』がヒットし、邦楽ではハード・ロック中心の音楽がいわゆるシティ・ポップス的な新しいニュアンスのサウンドを取り込み始め、音楽シーンとしてはとても活気があった時代の到来であったようだ。

 2005年8月17日、私は現・自由が丘ロフト社長、初代下北沢店長・佐藤弘氏(50歳)を、この75年時代のライブハウスの現場の雰囲気を聞くために彼の店「自由が丘ロフト=ロックパブ」を訪ねた。

 私にとってもこの佐藤弘氏と会うのは10年ぶりなのである。自由が丘ロフトの開店準備の最中、早速、佐藤弘氏へのインタビューは開始された。

──弘さんはなぜ下北ロフトの店長をやることになったの?
「俺は西荻窪ロフトの常連だったの。勿論西荻窪に住んでいたし、田舎から出てきて、まだ年も20歳前だったな。悠さんが30歳か? 若かったな、みんな」

──それで弘さんの青春ドラマは始まった訳?
「最初はアルバイトというよりも、酒を飲んでいる時、『今度下北に店を作るんで、ちょっと手伝いに来いや』って言われてさ、その頃のロフトの店作りって、ほとんどプロは使わず手作りだったじゃん。それでいつの間にかロフト工事主任のミトさんから溶接の技術まで教わって、俺、住む所ないものだから、ロフトがその頃初めて代沢に事務所を持って、その一部屋で寝起きしていたな。それで俺の先輩のA氏が下北店長で俺がマネージャー格だったんだけど、そのA氏が下北ロフトのオープン2ヶ月ぐらいで辞めてしまって、マネージャーの俺が店長になった。まだ20歳そこそこの俺だった」

──どんな店を作ったの?
「テーブルも椅子も手作り。椅子は盗んできたドラム缶、テーブルはコーラのケース。そのコーラのケース欲しさに、真夜中にコーラの工場に野ざらしで積んであるケースを盗みに行くんだよ。ペンチで金網破って、怖かったな(笑)。俺、その時思ったよ。ロフトっていう会社は泥棒までやらされるのかって…。俺、ミトさんに聞いたよ。『これって泥棒じゃないですか?』って。そしたらミトさんは『いや、これは捨ててあるんだから泥棒ではない』って…(爆笑)」

──時代背景としてはどんな時代だったの?
「なんか明るかったね。高度経済成長期の日本だったし、当時率のいいアルバイトもたくさんあって、多くの青年は週に2〜3日働けば、充分酒が飲めて音楽が聴けて、家賃が払えた時代だったな。うん、それまでのロック小僧って大抵全共闘とかの流れを汲んで長髪だったけど、ウエストコースト・ロックが出てきて長髪が主流でなくなった時代でもあったね」

▲自由が丘ロフトの店内。まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなロックパブだ。皆さん行ってやって下さい。

 ──下北沢ロフトの印象ってある?
「うん、みんな結構音楽をやるっていうところでは真面目だったよな。この頃ロフトは週末と祭日しかライブをやらなかったし、月に12〜13本のスケジュールを切った。それほど多くのバンド群が存在している訳ではなかった。だけど、そのパブタイムってロフトはロック居酒屋だったからロック系音楽関係者やミュージシャンがたくさん集まって来てくれた。みんなで一緒に飲みながら『今度はこうしよう』とか、隣で飲んでいるミュージシャンに向かって、『君たちも一緒にやらない?』なんて話になって、『じゃ〜今からセッションしてみようか?』なんて言って、突然ジャムセッションが始まったりした。PAも単純だったし。そう、下北に住んでいるミュージシャンってとても多かったから、金子マリさんやカルメン・マキさん、山岸潤史さんやひょこ坊(永井充男)がアパートからすぐに飛んできて、いろいろな面白いシーンが生まれたよね」


世界の坂本教授と細野さんの話


▲こんな山手線見たことないよ。でもなんか楽しい電車だし、飛び込み自殺も減るのかな〜?

  ──あの世界の坂本龍一氏の浪人時代の面白い話ってたくさんあるんだろ?
「坂本さんがまだ芸大の大学院の学生だった頃で、みんなから“教授”って呼ばれていたな。山下達郎さんは一番坂本さんを尊敬していたんじゃないか? 浪人時代の坂本さんは友部正人さんやりりィさんのバックやったり、ロフトのいろいろなセッションに出てくれたな。西荻窪ではいつも客なんか誰もいないところで一人ピアノを弾いていたな。あの頃から凄い奴っていう感じだったし、みんなから尊敬されていたな。結構語り口は靜かで、どこからあのピアノのイメージっていうか、バイタリティが生まれるんだろう? ってみんなで話していたよ。ライブではいつも“いい女”を探していたよ(笑)。ロッカーってみんな同じで、坂本さんだけじゃなかったけど。でもあれだけ女に持てた奴は坂本の他にいなかったな」

──坂本龍一さんか? 奴は烏山に住んでいて、そこの常連から始まってロフト各店にはほとんど毎日のように顔を出していたよね。
「坂本さんぐらい、イエローマジックだっけ、売れる前までロフトと縁が深かったミュージシャンでの常連はいなかったんじゃないか? よく焼きそばを作ってあげたよな。若いミュージシャンはみんな影響を受けていた。徹夜でみんなと『ロックとは何か?』なんて熱い討論をしていたな。実力があるもんだから、誰も奴に逆らえなかったな」

──細野晴臣さんとか鈴木茂さん、伊藤銀次さんとかってどうだったの?
「細野さんや鈴木茂さんはライブ以外、店に遊びに来ることは滅多になかったな。大瀧さん、細野さん、鈴木茂さんは俺たちも含めてスタッフがとても気を使っていたな。銀次さんはそれよりもラフにみんなと遊んでいたな。たとえば鈴木慶一さんなんかと。だってティン・パン・アレー系って伝統的にライブハウス・ロフトグループの柱だったものね。その代わり、そのティン・パン・アレーの次の世代の連中は無茶苦茶なロフトの使い方をしていたな。喧嘩はするし、ツケは払わないし、女の取り合いはするし、ロフトって結構ミュージシャンには優しかったな。スタッフにこれからプロにならんと思っている奴が多かったからね」

▲我が部屋からの夜景。遠くに新宿の摩天楼が見える。

──当時の下北沢の印象はどうだったの?
「当時のロック喫茶とかは音量が大きくって、ろくに話もできなかったのを変えたのも俺たちだったし、“ロックとはコミュニケーションなんだ”って当時の流れを変えたのも俺たちだったし、やっぱ下北沢ロフトがあの古風な街を変えたんだっていう自負はあるよね。酒も呑めたし、店の中でナンパもできた。主力はニッカのブラック50のボトルキープ、1980円だったかな」


サザンオールスターズの思い出

▲これが下北ロフトの店内だ

──やはり下北ロフトって言えばサザンでしょ。
「う〜ん、まさか俺たちスタッフはサザンがあれほどまで売れて国民的バンドになるとは想像だにしなかったな。凄いね」

──サザンとのいきさつを教えてくれる?
「ギターのター坊(大森隆志、現在は脱退)とパーカッションの毛ガニ(野沢秀行)は俺が時給350円で雇ったんだよ。みんなロックにつぎ込んで金もなかったし、毛ガニを除いてサザンのメンバー全員が青学の学生だったしね。でもね、毛ガニなんか『僕はパーカッションのプロだから手を大事にします。だから洗い物は一切やりません』って宣言された時は参ったよな。他のバイトは『差別だ!』って怒るし。奴らアパートじゃ練習できないし、当時スタジオなんてとても高くって借りれられないから、店が終わってから俺が練習させてやったり。でもサザンのライブって、奴ら一生懸命友達呼んだりして頑張っていたんだけど、お客は入らなかったな」

──でもなぜそんなにサザンばっかし優遇させたの?
「うん、サザンは下北ロフトの身内っていう意識が強かったな。だって屋根裏の昼間の部にしか出られなかったバンドなんだよ。可愛そうじゃん。店員バンドだったし、悠さんが『店員バンドは大事にしろ』っていうお達しもあったし、意外とサザンの曲って好きだった」

▲こちらは下北沢ロフト入り口。

──当時、『勝手にシンドバット』なんか奴らの曲目にあったけ?
「ないと思うよ。でもらしいのはあったかな?」

──最後に、サザンにメッセージを。
「う〜ん、本当に良かったよな。国民的バンドサザン、おめでとう。20年ぐらい前にみんなで横浜のライブの帰りに寄ってくれてってね。これからもたまには寄って下さいね」

 初代下北沢店長・佐藤弘氏の回顧はまだまだ続いた。次回は大胆な“暴露記事”が出てくるかも知れない。そう、あの時代、今はみんな偉そうな顔しているけど、あの頃(今から30数年前)はみんな青春のまっただ中だった訳だ。(以下、下北ロフト編次号に続く)


ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→