ROOF TOP 2006年2月号掲載
「不良オヤジの年末年始奮戦記」
▲新年の挨拶をする米子とその家族。これで米子が3人になった。寂しくなんかな いぞ。帽子をかぶっている米子は「荒野のダッチワイフ」で車椅子のクマ シノがくれた。わしゃ〜変態か?そんなもんいらんよ(笑)

 何年ぶりかの本物の冬がやって来て、凍り付く様な寒さの日が多くなった。私は60歳を過ぎて、「大都会、一人ぼっちの年末年始」に挑戦してみようと思った。このトシして何と物好きなっていう感じだけど、実は私にとってははじめて体験なのだ。私の年末年始はいつも家族や、親戚や、友達とおせちやお雑煮を食べて、誰かと酒を飲んで迎えていた。今回は、「年越しソバもおせち料理、お雑煮、酒やみんな集まっての宴会」を一切拒否し、子猫と二人だけでひっそりと「ゆく年くる年」を迎えようと思った。

 なんと実は私には一人だけど「孫」までいる。多分今頃2歳になるはずだ。05年も暮れゆく頃、33歳になる先妻の息子から「なぜ一度も自分の孫を見に来ないんだ!」といった抗議があった。

「それはすまん。そうか君の子供か? 可愛いか? 名前はなんて言ったっけ? 大きくなったか? どうも俺は自分の人生の尻拭きに忙しくって孫にまではあまり興味ないんだな〜。悪いけどまあ、そんなオヤジを持っちゃった悪運を含めて、君の方でなんとか頑張ってくれや」と私。「それじゃ〜俺の立場がないよ。ゆうさん(奴は私のことをそう呼ぶ)。向こうの親や親戚はカンカンに怒っているよ。困った困った……」とやられた。

「だって今俺はね、家出している身の上だし、更に4カ月の子供を抱えて大変なんだよ。わかってくれや」と懸命な言い訳をする私。「知っているよ。それって猫だろ」と息子は捨てゼリフ的に言い張る。「猫だろうとまだ子供なんだ。人間でも猫でも子供を育てるってことは大変なんだよ。わかるだろ?」と私。「困ったな。もうそろそろ人生観念にしたら? ゆうさんも普通にみんなから愛される"おじいさん"になれよ!」「お前にそんなこと言われる筋合いはない。俺は人生最後の落とし前に向かって孤軍奮闘しているんだ。別にお前に生活費貰っているわけじゃない!」なんていう会話があった。


12月31日・大晦日

 大晦日はちょっと会社に顔を出し社長と若干の話をして、プラスワン忘年会に30分ほど顔を出した。閑散とした大晦日の歌舞伎町を後に、大ガード近くの大戸屋で「焼きサバ定食」を食べてバスにてアパートに帰る。あとはかっこよく読書でもしながら年を越そうと思ったのだが、やはり「紅白」は見てしまった。スマップのステージには「感動」した。まさか大晦日にスマップの歌聞いて何か涙が出てくるとは夢にも思わなかったな。「ふむ、紅白はこれでいい」って思ってテレビを消し、永福町の銭湯に向かって自転車をこいだ。誰もいない舗道沿いの家々には明るい電気がつき、湯気が立ちこめているのを見て紅白のテレビの音とサザエさん的な明るい家族が団らんしている光景を想像した。大晦日のこんな時間の銭湯にはまるっきり誰もおらず(当たり前か?)、私は一人05年の垢を落とし、小さな露天風呂に入りながらぽつねんと過ぎゆく年のあれこれを考え、来るべき06年を夢想していた。

 1時間近く銭湯にいただろうか? 年が明け人々が初詣に向かう頃、この銭湯にも若干のお客が入って来て、ふっと我に返った。「そうだ! もう年が明けたのだ!」。


1月1日・元日

 元日の朝、私はいつもの、全くいつもの様にパン2枚と山盛りのサラダ、ミルクティーの朝食をとる。とにかく何にもない。掘り炬燵もないしみかんや餅一つない元日だ。一日二食主義の私は夕刻にカップ麺を食べ、ただひたすらCSの「囲碁将棋チャンネル」と時代劇の「鬼平さん」を見続ける。携帯電話はオフにしてある。


1月2日

▲プラスワン新年会でかのエアーギターを弾く宮城マリオ。今やスマップ系嵐をし のぐ勢いだ。宮城マリオに注目あれ!!

 正月2日目。独りぽっちでも、おせちやお雑煮はいいとしてどうしても風呂には入りたかったが、2日はどこの町の銭湯も休みである(私はいわゆる「銭湯的労働者」なので家のユニットバスは使ったことがない)。

 いつも通っている新宿の「アスレチッククラブ」が正月2日より営業している事を思い出し、私は運動具を持ってバスで新宿に出た。西新宿の摩天楼街も高層ビルの地下にある「クラブ」も閑散としていた。「うん、今日は走ろう! とにかく頭を真っ白にしよう!」って思った。誰もいない一周80メートルの室内ジョギングコースを63周(約5000メートル)ゆっくりと走る。誰も追い抜いて行く奴はいない。20周目ぐらいからアドレナリンが分泌するのが良くわかる。そこからは夢遊病者のごとくただ愚直に足を前に出し空間移動する。36分。悪いタイムではない。一息ついてから「初級エアロ」のクラスに参加。男は私一人、おばさんばかりだ。仕上げはガラガラのプールに行って一挙に500メートルをクロールで泳ぎ切る。そしてサウナと風呂で今日の疲れを取る。

 夜10時過ぎ、閑散とした摩天楼の下で一人バスを待つ。舗道の落ち葉が風に吹かれて「かさこそ」と鳴った。何となく寂しくなって冷たいビル風を抱え込みながら今年の自分を鑑み、「alone togather」を意識し、「明日からはせめてかかって来る電話ぐらいは出よう」と思った。家に帰ると米子(子猫)がゴロゴロ足にまとわりついて来る。

 大都会の片隅で一切のコミュニケーション無しに生きるってそれなりに面白い経験だったけど、なにか社会一般からつんぼ桟敷に置かれている気になり「お〜い俺はここで生きているぞ!」って叫びたくなってしまって、「正月なんかなければいいのに……」って少女のように思った。先日ある中年の独身女性にこの私の体験談を話すと、「私なんかもう何十年もお正月は一人ぼっちよ」と言われた。結局のところ私はただの「甘ちゃん」でしかなかった事を痛切に悟った。






第12回 新宿ロフト風雲録−4(1976〜1980年)

言いたいことがあるから唄う

▲新宿ロフト、オープン翌月76年のチラシ。CHAR、桑名正博、ウエストロードブルースバンド、森田童子、大貫妙子……。ムーンライダースまでいる。うん、今みても凄いラインナップだ。「潜水艦の横で飲むブラックボトル〜」なんてキャッチもいい。

 1970年代後半はビジネスとしてロックやフォークが確立した時代だということは再三述べた。表現者のそれぞれが言いたい事があるから唄い、その結果としてアマチュアミュージシャンがライブハウスで腕を磨きピカピカのプロになってゆく。これこそ私たちライブハウス経営者の「理想」で、そこにこそライブハウスの原点があったのだ。フォークやロックが普及し誰もが職業ミュージシャンになれる機会を持つことが出来る時代がやって来たのだ。

 ただし、アマチュアとプロのミュージシャンとを、音楽の才能の差で規定することは出来ないと思う。実際のところ、私が好きなミュージシャンは働きながら音楽活動をしている人も多い。音楽だけで飯を食っている人たちはほんの一握りでしかなく、それはあくまでもメディアへの露出度だったり、メジャーなプロダクションやレコード会社に所属しているかどうかだけの違いなのかも知れない。

 当時はあまり情報がなかったから、ロックを聴きたい若者は自分の足でライブハウスに通い、見知らぬバンドと出会うことによってその情報を得るしかなかったが、70年代後半に入るとライブハウスの数もキャパ数が増え、更には『ぴあ』とか『シティロード』などの情報誌も盛んになって、名もなき見知らぬバンドを入場料金を払って探しに来るお客なんかほとんど皆無になってしまった。こうなってはライブハウス側としては、無名で動員力のないバンドを出演させる事は不I`軟可能になる。そこで私は、アマチュアデーなどと銘打って、一度のステージで複数のバンドを出演させ、客の入るバンドと入らないバンドを組み合わせることによって営業的困難を乗り切って来た。

 そうすることで、新しい流れが起こった。例えば、あのBOφWY(当時は「暴威」だった)がロフトに初めて出演した時は動員力ゼロだったのが、このバンドのパワーが一緒にやるバンドのお客さんをどんどん食って増殖していったのだ。そうなると今度は総員力のあるバンドは動員力のないバンドと一緒にタイバンするのを嫌がる様になったのだが。


桑名正博とロフト

 当時私たちは、大手レコード会社にスカウトされるミュージシャンに多大な期待を持っていた。長いこと僕らの身近なライブハウスで活動していた表現者が有名になる。僕たちが支持するロックがテレビに出られるようになる……。これはライブハウスで現場を支える私たちにとってはまさに「シンデレラボーイ」の誕生でもあるからなのだ。

 桑名正博が阿久悠さんから詩を貰い「哀愁トゥナイト」でメジャーに挑戦する。我々はどこかで驚喜し、多大なる期待もした。ミュージシャンに対するライブハウス側の権利とかそんなもん誰も考えてもいなかった。ほんの数年前まで「一部不良の音楽だったロック」、僕らの「支持」してきたロックが多くの人に波及して行くのが嬉しかったのだ。

 桑名正博さんは毎月関西からやって来て西荻窪ロフト、荻窪、新宿ロフトと本当に数人の客入りでもあきらめずライブを続け、我々の期待を充分担ってくれる天才的ミュージシャンだった(若くて、スタイルも声も性格もセンスもいい。実家はお金持ちだし……これは関係ないか・笑)。しかし悲しいことに、桑名さんもそうだがメジャーデビューして売れた多くのロッカーは、ほとんどロフトに戻って来ることはなかった。勿論それはミュージシャン側から言わせれば当然かも知れない。大ホールで何千人も集めなければ大手プロダクションやレコード会社にとっては採算が合わない。桑名さんに限らず、そんなことを言い出したらきりがなくなってしまう(笑)。

 私たちの「この天才には売れて欲しい、だから俺たちも一緒に頑張るよ」という愛情が結果的にはその表現者との「さよなら」を意味することになる。「俺が今までこれほど情熱を注ぎ込んだのは何だったのか?」というライブハウスの経営者としては最大の壁にぶち当たってしまう。「なんて俺の存在は馬鹿馬鹿しいのだ!」という思いに捕らわれ、私はその数年後、新宿ロフト以外の全ての店をたたみ、外国に逃避することになる。


新宿ロフトオープン

 1976年、キャンディーズ(翌年解散)が「春一番」、ピンクレディが「ペッパー警部」、イルカが「なごり雪」のヒットを飛ばす頃、新宿ロフトは今までの店より一気に大きくなって65坪。当時日本唯一かつ一番でかいスピーカーシステムを備え、本格的ライブも出来る「ロック居酒屋」としてオープンする。ブッキング、PA、照明は、テイクワン事務所(山下洋輔トリオ、シュガーベイブなどが在籍)の柏原卓(故人)氏を迎え、フォロー体勢は整った。一方ではロフト機関誌『ROOFTOP』は、イラストレーターの小島武さん、ライター陣としては相倉久人さんや吉見佑子さん、北中正和さん達が素敵なイラストとコラムを提供してくれ、さらに充実し向かうところ敵なしの船出だった。執筆陣には、今や渋谷の高層ビルに会社を構えるようにまでなった『ROCKIN' ON』の社長、渋谷陽一氏までいたのだ。

 同年9月30日、新宿ロフトでオープン記念前夜祭が開かれた。キティミュージックの副社長・田中さんが新人の来生たかおさんを連れてきて、グランドピアノで弾き語りをして貰った。新宿ロフトは、それなりだけど多くの業界関係者に祝福された。実はこの時、内装工事の遅れから機材のサウンドリハーサルが充分ではなく、ほとんどまともな音が出ていなかった。調整作業はその日の深夜まで続いたが、新宿ロフトがいわゆる「いい音」を出し始めるのは開店後数カ月を過ぎてからだった。

 オープンセレモニー10日間のスケジュールは、その豪華さで音楽業界の話題をさらった。しかし一方で、次から次に押し寄せてくるお客さんへの対応という新たな問題も発生した。それまで私たちが経営してきた西荻窪、荻窪、下北沢ロフトは最大でも70〜80人が限界で、前売券なんてシステムはなかった。まさか新宿ロフトに一日1000人近くのお客さんが押しかけてくることもあるなんて想像もしていなかった。更にはバンド関係者、レコード会社のいわゆるタダ見の人たちをどこに収容するかにも頭を抱えI`軟込んでしまった。


ライブハウス発のレコードレーベル誕生

▲竹内まりやや大高静流がよにでるきっかけとなった。「LOFT SESSIONS VOL.1」。山岸潤史、白井良明、鈴木博文、土屋昌己、村上"ポンタ"秀一etc。そうそうたるミュージシャンがバックを固めている。日本のロック史に残るオムニバスアルバムだったのだ。

 新宿ロフトオープンの1年間はブッキングもそれなりに順調だった。新宿ロフト完成の次の私の夢はライブハウスから才能ある新人を見つけ、プロダクションを設立し、その新人達をメジャーデビューさせることだった。私は各大手レコード会社に「企画書」を提出し、当時若手・大物プロデューサー、アワーハウス(吉田美奈子、大貫妙子、山下達郎などが在籍)の牧村憲一氏をロフトレーベルに招請した。  今でこそライブハウスが音楽レーベルを持っていても何の不思議もないが、当時一ライブハウスがメジャーレコード会社と組んで新人を発掘しようというアイデアは、実に新鮮で画期的でもあった。新人ミュージシャンに門戸を開放するシステム(ロフト新人オーディション等)をロフトではずっと続けていた(今でも時々開催していると思う)。夢を持っている新人の表現者に場を与えたいというのが私の信念だった。いうなれば才能ある表現者に「出口」を作ってやりたかったのだ。

 私ははじめ、東京中のライブハウスに手紙を出し各地のライブハウスが抱えている才能ある新人を発掘する専門レーベルの創設を呼びかけた。しかし、私の呼びかけに応じてくれたライブハウスはほとんどなかった。当時の私と会社は全くお金はなかったし借金だらけだったが、この「ブーム」の機会を逃すべきではないと思い、一気に突っ走ってしまった。

 悲しいかな私たちには情熱はあるけどお金は一銭もない。あるのは若さと優秀なスタッフだけだった。しかし、レコード会社に提出した企画書の反応は上々で、手を挙げてくれたメジャーレコード会社は4社以上。最終的に「ライブハウスロフトレーベル」はビクターに決まった。その理由は、ただ出してくれるお金の条件が良かったということだった。

 我々が契約を結んだセクションは「ビクター第一制作本部」であった。このセクションは当時、ピンクレディー、松崎しげる、岩崎宏美などが所属する、まさに「ザッツ芸能界」ギンギンの部署で、当時のオリコンチャートの上位をいつも独占していた。更に悪いことには、ロックに造詣の深かった契約当初のビクターの取締役が辞めてしまい、私たちの交渉相手は歌謡曲の世界で何10年も生き抜いて来たO部長に変わった。これは悲劇だった。そんなことを言っては悪いが、この人にロックがわかるはずもなかった。ある席で「もう歌謡曲の時代は終わりつつありますね」って冗談気味に言ったら、真っ赤になって怒り出したということもあった(実際、その後10年足らずで歌謡曲はもの凄い速度で衰退してゆくのだが)。いずれにしろ、私は「これではうまくいくはずがない」と悲しく思った。


ロフトレーベルの挑戦と失敗

 ロフトとビクターは年間にLP4枚、シングル8枚を出す2年間契約を結んだが、わずか1年で喧嘩別れする事になる。向こうの担当者は「ふん、ロックなんかなんぼのもんじゃ」という意識だから、彼とコラボレーションなんか出来るはずもなかった。「ロフトはお金はないし、ただビクターを利用しているだけ」という目で見られていた(それはその通りだったが)。勿論、O部長はライブハウスなんかに来たことは一度もなかった。

 何人かのミュージシャンをデビューさせようと働きかけたが、ビクター側の答えはいずれもノーだった。プロデューサーの牧村氏は最後の手段として、ロフトを中心に活動していた6人の新人女性をデビューさせる。「ロフトセッションズ」と題したオムニバスアルバムがそれで、バックバンドにはロフトゆかりのミュージシャンのほとんどが参加してくれた。その中に新人の竹内まりや、大高静子(後の大高静流)がいた。この2人のデビューは衝撃的だった。しかし、ビクターはその新人達にも無関心だった。ロフトだけでは彼女たちをフォローしロフトプロダクションにキープするお金の余裕がなかった。結局、このレコードでデビI`軟ューした多くの新人は他社に持って行かれてしまう。彼女達の他社への移籍はショックだった。「お金がない事とレコード会社の無理解」が全てだった。更にはこのレコーディング費用はビクターからいただく契約金の何倍もの費用がかかってしまって、ロフトという会社の資金繰りに大きな影響を与え、次のレコーディングの費用さえほとんどなくなってしまう有様だった。

 77年、ロフトレーベルは石橋楽器と共催で「第一回渋谷公園通り音楽祭」を仕掛け、クラウディ・スカイの大沢誉志幸を優勝させるがやはりビクター側からはノーアンサーだった。我々にはクラウディ・スカイのレコーディング費用さえなかった。これでは何のために「公園通り音楽祭」を開いたのかわからなくなってしまった。これを契機にロフトはレコード事業から撤退することになる。


なんじゃこりゃ〜! ロフトレーベルはUFOのレコードを出していた!

▲SIDE-B:1.宇宙周期音 / 2.変光星音 / 3.円盤の詩 / 4.また来て円盤 / 5.電波望遠鏡による宇宙オン/ 6.平和の詩……。でもこれ、CDで再発されたんだよな〜。横尾さんの傑作ジャケットは見つからず。持っている人がいたら編集部までご一報ください。

 ロフトレーベルのレコードがあまりにも売れないので、なんとか起死回生を狙ってUFOのレコードを出したりもした。当時ピンクレディーの「UFO」が大ヒットしていたことに便乗したのだ。たまたま私の伯父が、お化けの会・UFO研究家・フランス文学者の平野威馬雄だったのだ。私は威馬雄さんに交渉に行った(この人は凄い人で、17歳で日本ではじめてモーパッサンの本を日本語訳したフランス語学会の超伝説の天才だった人だ)。

 平野威馬雄(故人)と私の会話。
「おじさん、UFOのレコード出そうと思うんだけど、手伝ってくれる?」と私は恐る恐る尋ねる。「あのな〜ゆうちゃんよ。UFOって実は音がないんだよ。UFOはいるし何度も見ているし、宇宙人とも何度もあっているけど、でもな〜、どうやってレコード作るんだよ。音のないもののレコードを作るって前代未聞だよ。君はそんなことも知らないのか?」と逆に怒られてしまった。だがロフトレーベルは今瀕死の状態だ。なんとかピンクレディーにあやかってでも実績を作らねば潰れてしまうっていう危機感があり、とにかく無理矢理おじさんにいろいろな不思議な人を紹介して貰って「衝撃のUFO」というレコードを作った。(笑)ジャケットはやはりUFO信者の横尾忠則さんに発注した。何しろお金がないもので、このレコードはほとんど私一人でプロデュース・取材、録音とやり遂げた。結果は……、もちろんこんなもん売れるわけがなかった(笑)。


ロフト席亭 平野 悠

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