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▲1月某日、深夜。雪のちらつきはじめた井の頭通り、家路を急ぐ親父一人。ポケットの中まで冷たい空気が入り込んでくる。この日の雪は明け方まで降り続いて、翌朝には数cm積もった。顔がほんのり赤らんでいるのは寒さのせい?いや、たぶん雪待ち酒のせいだ。 |
私は東京で見る雪が好きだ。ほんの一瞬にして、いつも見慣れている世界が変貌する。1月末、「今晩遅くには100%雪です」と天気予報で聴いた時は、「さて、今夜の雪景色をどこで堪能しようか? 沢山降ればいいな」なんて思って、雪が降ってくるのを居酒屋で酒を飲みながらぽつねんと待った。0時頃、しんしんと降る雪の中をほろ酔い加減で一人、深夜の井の頭通りの雪景色にも酔いしれながら歩いて帰った。
死を乗り越えてカムバックしたこれからの栗本慎一郎は面白そうだ
1月末、評論家の三上治さんから「栗本慎一郎さんの回復を祝う会と出版記念パーティー」の司会をやってくれないか? と電話をもらった。それほど栗本さんの事を知らないのだが断り切れなかった。過去何度か出版記念パーティーに出席しているが、面白かった試しはない。そこで私は今回ある企画を考えた。前半は普通に祝辞をやり、後半は「パネルディスカッション 栗本慎一郎復活ってどうよ?」と題して、ロフトプラスワン風のちょっとした「議論の場」を試みたのだ。しかしこれが大失敗だった。来場していた鈴木邦男さんや二木啓孝さん等にパネラーをお願いしトークセッションを始めたが、誰も聞いていないのだ(まあ、マイクの調子も悪かったのだが)。栗本さんも来場者とお話しするので精一杯で、この計画は見事に挫折してしまった。
かの『パンツをはいたサル』で有名な経済人類学者で元衆議院議員、小泉首相と一番仲の良かった男こと栗本慎一郎さん(64歳)は、1999年10月29日58歳の時、脳のど真ん中の血管が3.5センチも詰まり脳梗塞を発症する。一命はとりとめたものの、後遺症により左半身が完全麻痺。介助なしに食事も排泄もままならず、車椅子の生活を余儀なくされていたが、自分で考案したリハビリ法を実行したことから驚異的な回復をとげた。
死の淵で栗本さんは、「人生という余興はもう終わりなのか? やり残したことは山のようにあった。(中略)あと100年あってもやりたいことを完了できない。突然幕が降りても仕方がないのではないか?」と思ったそうだ。そして妻から、「一日一回は神によって生かされている自分を感謝しなさい」と言われ「はい……そうします」と素直に答えたそうだ。それから「勇気と希望を持って闘病せよ!」をキーワードに栗本さんの闘病生活が始まる(闘病については『脳にマラカスの雨が降る』(光文社)に詳しい)。
おじさん入門
おじさんといえば昨年のことだが、ネイキッドロフトで夏目房之介さん、南伸坊さんの「無駄な抵抗はやめよ、おじさん対談」のイベントがあり、カウンターの隅でお酒を飲みながら聞いていた。二人は「おじさん名人」を名のっていて(?)、「おじさんの面白さ、……人間は年をとればとるほど楽しくなる」というテーマに沿って、絶妙なおしゃべりが展開していた。後半の質問タイムに、私は知らず知らず手を挙げてしまい、次の様にのたまわってしまった。
「え〜っ、私はこの店のおやじ平野と申します。おじさんはいかに楽しいかなんて言ってますけど、実は私は昨年ついに60歳を超えました。潔く赤いちゃんちゃんこも着れず、この1年間ず〜っとブルーでした。こんな長い期間ブルーだったのは初めての経験でした。親しい人がぽつぽつ死んでゆき、自分もいつ死んでもおかしくない、時間がない、やり残した事って何だろう? とかって思ってしまう。死後の永遠、生まれる前の永遠なんて事を結構深刻に考えてしまう。ちょっと腹や頭が痛かったりすると、癌か? なんて過剰反応してしまうしちっともおやじが楽しくないんですよ」
ステージの夏目さんと南さんは目が点になってしまい、若い女性が多かった満員の客席まで「し〜ん」とさせてしまった。南さんなんか「そうか〜生まれる前の永遠か〜」なんて腕組みしながら考え込んでしまって、夏目さんの『おじさん入門v??ァ』(イーストプレス)という本の発売記念トークがなんとも深刻な場になってしまった。「こりゃ〜やばいこと言っちまったな」って私はこっそり会場を抜け出したが、「予定調和なしのライブってこういう事なんだよな?」なんて懸命に自分を納得させたのだった(でもな〜店の主人がやってしまってはいけないよな〜)。
どっこい俺たちゃ生きている 音楽ライター&ミュージシャン・志田歩の世界
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▲「アモーレ下北」発売記念ライブ。オープニングはアコギ1本の弾き語りで数曲、中盤からはベース、ギター、パーカッションが入り、最後はサックスも加わった。次第に盛り上がってゆくいいライブだった。 |
「あのな〜、40過ぎの音楽家が成功した事ってほとんどないんだよ」と心の中でつぶやく私の目の前で、志田歩はバンド・爆裂兄弟を率いてライブ演奏を続けている。彼は下北沢を愛するグループ「Savethe下北沢」の発起人の一人だ。彼が歌う下北沢を守るためのサポートソング「アモーレ下北」が完成し、2月12日、その発売記念ライブがネイキッドロフトであった。その夜、会場も満員で、彼の意気揚々と歌う声は太くパワフルにコリアンタウン新宿百人町にこだました(CDは私が勝手に作ったロフトセンセーションレーベルから発売される。このレーベルでは今の音楽業界のシステムではこぼれてしまう先鋭的なミュージシャンを積極的にとりあげてゆく)。夏目さんと南さんのおじさん論が「枯れゆく美学」なのに対して、まあ10年近く年の差はあるが、こちらのおじさんは年齢に関係なく生きようとしていて「どっこい俺たちおじさんは鋭く生きている」なのだろうと思った。私はやはりおじさんとは「枯れゆく……」の方が好きだし、多分出来ないだろうが、実はそうありたいと密かに願っているのだ。
毎日寒い。わたしゃ、昨冬もほとんどやめなかったママチャリ通勤もついに断念し、さらにはこの何十年も断固拒否し続けてきた「股引(ももひき)」も履くようになった。まさに「おじさん」である。いやもう「おじいさん」なのかもしれない。そんなことを考えるとただ「居直る」しかないと思う。寒さは人間を卑屈にさせる。でももうすぐそこに春が忍びよって来るのを感じるから、今年はどんな桜模様の東京郊外になるのかが楽しみになってきて、背中を押されるように生きる勇気が沸く。
今月の米子♥
ソファーに横たわる姿態がなんとも色っぽい。なかなかイイ女になったでしょ?でもさー、だんだん「娘の成長を、うれしくも淋しい気分でみまもる」父親の心境になってくるんだよ。猫は人間の娘より成長が早いから、よけいにそう感じてしまうんだよな。
第13回 新宿ロフト風雲録−5(1976〜1980年)
「ニューミュージック」って何よ
西荻窪〜荻窪〜下北沢〜新宿と、ライブハウスロフv?トが長いことそのライブの主流にしてきたのは、森田童子や遠藤賢司、友部正人などのフォーク系、はっぴいえんど〜キャラメルママ〜ティン・パン・アレ−系、山下達郎、伊藤銀次、大貫妙子、吉田美奈子などのナイアガラ系、それに桑名正博、泉谷しげる、川島英五、南佳孝、矢野顕子、Charなどの日本語ロック系だった。
1976年に新宿ロフトがオープンした頃はちょうど、それまで一部不良の音楽と言われていたフォークやロックが市民権を獲得し始め、大衆化したそれらの音楽は「ニューミュージック」と呼ばれるようになる。しかしニューミュージックの台頭によって、それまでのメッセージ性の強いフォークやロックは疎外され分化されてゆくことになってしまった。吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実、かぐや姫などが代表的なシーンだったし、特に松任谷由実は一億総中産階級の夢の生活を、あたかもすぐに手の届く現実のように歌った。時代が高度経済成長をしてゆく中で、政治の季節なんかとっくに終わっていて、そこで行き場のない雄叫びでしかない「反戦!」とか「クソ野郎〜」なんて挑発的に歌ったって、誰もリアリティを感じなくなってゆく時代だったのだ。確かに今は四畳半に住んでいるけれど、バイトには困らないしなんとか彼女も出来そうだし、別に現状にたいした不満もない。高度成長の波に乗って、「将来的にはまあ、なんとかなるんじゃない?」といった幻想を持つ若者に、ニューミュージックは圧倒的に支持されてゆくのだ。
この風潮は、まさに表現者は「売れなきゃクソだ!」という資本の論理の中に組み込まれてゆく音楽の姿を象徴しているようにも見えた。個人的な生活や日常の一風景をテーマにしたりしていたが、ニューミュージックの世界は、合理的に計算されシステム化されていた。楽曲としてのクオリティを重視し、莫大なお金をかけてエンジニアや編曲家、作詞・作曲家、スタジオミュージシャンを総動員することによって、ヒットソングが大量生産されてゆくのだ。この頃、メジャーなミュージシャンたちの間で流行っていたのが、ロスアンジェルスやニューヨークでの海外録音。「大物外人ロッカーの参加!」なんてのがうたい文句になっていたりした。
ニューミュージックへの反感
ある種のポピュラー音楽としてのニューミュージックの台頭は、それまでキャパ数10人からいいところ100名程度の小さな空間でライブ演奏し続けて来た表現者を、より大きな会場へと向かわせしめ、ライブハウス離れをより推進するものであった。
ニューミュージックは基本的に歌謡曲とはある一線を画してはいたが、70年代後半になるとTV番組やCM、映画のテーマ曲に起用され、あるいはアーティストが直接それらに出演したりラジオなどで番組を持つことによって、場合によってはアイドルと同じようになりニューミュージックの部分の中ではかなりの数のヒットを飛ばすことになる。
さて、そうなると長年ロックを支持してきたファンや評論家の中から「ただ売れたいだけの表現者。体制べったりになりやがって……」といった、やっかみにも似た批判が起こって来る。当時ヒットの波にうまく乗れなかった表現者からも、そういった声があがったりした。ライブハウスやそういった空間を愛している人たちは、ニューミュージックを羨望しつつも一方で敵視するようになる。ライブハウスが、ミュージシャンが渋谷公会堂や武道館にステップアップするための一つの手段的空間になってしまっているというわけだ。確かにそれは一理あった。ライブハウス経営者の立場からみても、「お客の入らないときはさんざんライブハウスを利用して、客が沢山入るようになると去って行く」状況に頭を抱え込むようになっていた。
歌謡曲の衰退
ニューミュージックの台頭とともに、戦後日本の歴史に一定程度カウンターを当ててきた歌謡曲の世界にも異変が起きてくる。多くの歌謡曲歌手がニューミュージックのアーティストから詞や曲を貰い、スタジオでのレコーディングやコンサート会場でもバックバンドとして彼らを起用しはじめるのだ。
日本の歌謡曲、特に演歌は戦後から高度経済成長期に突入してゆくなかで社会のゆがみに対するカウンターカルチャーとして、その矛盾を歌い上げて来た。守屋浩の「僕は泣いちっち」や都はるみの「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」のストーリーは、東京にあこがれて行ってしまった恋人に燃える思いを託す歌であった。「ゴムのカッパにしみとおる どうせおいらはヤン衆かもめ」の北島三郎「なみだ船」や、西田佐知子の「アカシアの雨がやむ時」など、底辺で働く労働の唄には雨降りが似合っていた。それがいつの間にか、同じ雨v?が橋幸夫の「雨が小粒の真珠なら〜」(「雨の中の二人」)になってしまうのだ。高度経済成長につれて、都市では公害が垂れ流されてゆく。一方で農村や漁村が発展の犠牲にされてゆく。農業だけでは食べられないから、みんな農閑期には都市に出稼ぎに行くしか生活が成り立たなくなってくるのだ。いわゆる農民層分解がとてもひどい形で起こって来る。私の大好きな作詞家の星野哲郎さんなんかは日本の行き先に抗議を含めて、歌謡曲を通じてこういった状況にカウンターをあてていたのではと思う。それが「幸せだな〜、僕はなんて幸せなんだ」と歌い上げる加山雄三の「君といつまでも」とか、「もしも私が家を建てたなら〜」の小坂明子の「あなた」なんてのを筆頭として、高度成長礼讃、現状を追認する方向に行ってしまった。
音楽が秘めているメッセージやダイナミズム性がなくなってゆく、最後の極めつけはユーミンだと思う。若者は四畳半で煎餅布団、裸電球の暮らしをしているのに、彼女は「豊かな中流意識」を歌い上げる。緑の芝生の庭でバーベキューに赤い屋根、可愛い女房に白いスピッツ。「こんな生活しているヤツは成城か田園調布しかいないよ!」って思うことしきりだったが、こういう歌に若者達は「ありもしないアメリカンドリーム」に憧れを抱き、若者の特権である「反逆=行動力」という精神を奪ってしまうんだな〜って思うのだ。しかし固有な日本文化の担い手であった歌謡曲(ポップス)も、あの怪しい巻き舌の日本語ロックの影響を受けてか、何やらわからない日本流和製英語や自国語でない歌詞が当然のように歌われはじめる。さらには茶髪・金髪・赤髪に染めて何語かわからないインチキ英語の歌を歌う時代になって来るのだ。まさしくこれが世界でもまれな「日本文化」の実態だったのだ。
サザンオールスターズと新宿ロフト
1978年、いまはなき「ザ・ベストテン」の新宿ロフト生中継で、サザンオールスターズはかのアミューズの大里会長と若きビクターのディレクター、高垣建氏によってメジャーデビューした。ここ新宿ロフトで歌われた「勝手にシンドバッド」は日本中を駆けめぐった。この時のダイナミックで骨太な桑田佳祐のパワフルさを一体誰が予見しただろうか? 桑田はデビューライブの生中継で「目立ちたがり屋の芸人で〜す」と自己紹介した。その強烈なインパクトあるデビューに、私は新宿ロフトの片隅で驚嘆のあまり絶句していた。この日こそ、桑田佳祐さんが間違いなく天才であると感じた瞬間でもあった。彼らのステージはなんと、店に飾ってあった巨大オブジェの潜水艦の甲板上だった。
私たちとサザンとは彼らがバンド活動を始めた頃からの知りあいだった。まだメンバー全員が青山学院の学生だったメジャーデビュー前、ギターのター坊(大森隆志、現在は脱退)とパーカッションの毛ガニさん(野沢秀行)は、日銭を稼ぐため下北沢ロフトで店員をしていた。バイト終了後、深夜の下北ロフトをスタジオ代わりとして練習していたのを見ていた私は、彼らのこれほどまで凄い才能を全く見抜けなかったわけだ。サザンが、桑田佳祐さんがまたたく間に成長していたことに彼らの才能を感じ、さらには彼らをプロデュースしメジャーデビューさせた大里さんや高垣さんに脱帽するしかなかった。そしてかのサザンオールスターズは一度も解散することもなく、今や日本を代表する国民的バンドになったのだ。
私のライブハウスの原点の崩壊?
私のロフト経営の基本は、あくまで「ロック居酒屋」というスタイルにあった。それは私たちが支持する音楽、ロック、フォークが市民権を獲得する以前の意識……、つまりロック居酒屋という空間で店もお客もみんなでわいわいやっていて、レコードや客と店員を交えたおしゃべりなどでいろいろな音楽に出会って、「このバンドっていいね、じゃ〜この店(ロフト)に呼んで、みんなでライブを観てみようよ」というところから始まったわけなのだ。
当時の私には、表現者からライブチャージをピンハネ(店へのチャージバック)することなどは考えられないことであった。ライブチャージはあくまでも表現者とそのスタッフの取り分であり、我々は居酒屋商売なのだから飲食の売上げで食い扶持を稼げばいいという発想が残っていた。ロフトでは、「我々が観たくって、客に満足してもらえる自信のある表現者しか出演させない」と考えていた。だからことさら一カ月間毎日のスケジュールを埋めることを拒否し、ライブは週末と祝祭日しかやらなかった訳だ。その他の平日はレコードを中心にした「雑多な音楽と雑多な運動者の塊」を意識し、そのために何が出来るのか? という空間を構築してきたつもりだった。
しかし、1970年代末v?になると、第二次ライブハウスブームもあって東京近郊にも100近くのライブハウスが出来はじめ、レベルはどうだか知らないがバンド数もそのジャンルも圧倒的に増えてきた状況があった。そんな中、渋谷屋根裏と新宿ルイードが一カ月30日間のスケジュールを組み始めた。これにはロフトも若干あせりがあった。1978年にはロフトもだんだん平日でもライブをやるようになり、1979年3月からは毎日ライブをやるようにシフトする事になる。
「ロフト紳士淑女録 Who are you? 〜SHINJUKU LOFT 30TH ANIVERSARY LIVEより〜」
<お詫びと訂正>
先月号のロフト35年史戦記p66・6段落目に、「桑名正博さんが阿久悠さんから詩を貰い『哀愁トゥナイト』でメジャーに挑戦する」とありますが、「哀愁トゥナイト」の作詞者は松本隆さんでした。関係者および読者におわびし、ここに訂正致します。(編集部)
ロフト席亭 平野 悠
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