ROOF TOP 2006年5月号掲載
「心は南風にのって……沖縄本島一周ママチャリ紀行−1」

 つい1、2カ月ほど前だったか、ロフトブックスの今田編集長が朗報を持って来た。「悠さん、昨年山と溪谷社から出した『ニッポン放浪宿ガイド200』の増刷が決定して、それに気をよくしたヤマケイで、今度は同じ体裁のエリア版、『オキナワ放浪宿ガイド120』の企画が通りましたよ!」というのだ。

 何を隠そう、この『ニッポン……』という本のアイデアは今から4年前、私が沖縄にバイクで旅行した時、那覇の港で貰った一枚のチラシから始まった。そのチラシには「那覇・国際通り33分/ゲストハウス月光/一泊1500円/夕食300円/泡盛100円」と印刷されていた。私は驚いて「へぇ〜、日本にもゲストハウスってあるんだ〜!」と思わずつぶやいたのだった。


<世界を貧乏旅行して……>

▲那覇のゲストハウス、月光荘。こうやって、みんなで食事をしている。一番左が確か月光荘の主

 もう20数年も前、私は世界放浪の旅にはまっていて、ゲストハウスをつないだ旅をしていたことがあった。まだ海外では、メジャーな観光地以外のガイド本なんてほとんどなかった時代である。この世界中に点在するゲストハウスに一歩足を踏み入れると、宿泊料金が安いというだけでなく、あらゆる旅の情報が手に入った。旅をするルート、格安航空券やビザやパーミッションの取得の仕方、どこそこのボーダー(国境)で賄賂をいくら取られたなんて話から、宿の待遇、マリファナや売春婦、どこそこのメシ屋は安いとか現地でのアルバイトについてまで、あらゆる情報が手に入ったのだ。これは長期間世界を回る旅人にとって実にありがたいことだった。

 当時だけでなく、今でもアフリカや南米、アジアの奥地などはきちんとした生の情報なしでは危険だし、世界の情勢は毎日のように変わる。昨日まで開いていたボーダーが突然閉まったり、ある日突然革命やクーデターが起こったりする。パックパック一つを背負って世界を貧乏旅行するものにとっては、ゲストハウスで得た生の情報なしでは、即、命に危険が及ぶことになるのだ。

 夜は酒を飲んでみんなで徒党を組んで町に出かけたりもした。人種も世代も越えたコミュニケーションが多くあって、ゲストハウスの滞在生活は、私にとってとてもとても楽しかったものだった。

 私は当時、世界を回る旅人の中でも一番困難だと言われていた「サハラ砂漠縦断ルート」制覇を最後に、5年にも及ぶバックパッカー生活に(約84カ国制覇)終止符を打った。その後5年の歳月をカリブ海の小さな島国、ドミニカ共和国で「日本レストラン」を経営し、90年の大阪・花の万国博の時に「花博ドミニカ館館長」に着任し、私は10年にも及ぶ海外生活から帰国した。

 日本に戻ってからの私は国内を回る旅には興味がなかった。海外の貧乏旅行でいろいろな面白い体験をした者にとっては、とりわけ日本の「宿」が退屈で面白くないというのがその理由だった。確かに日本は四季折々の自然、文化遺跡、温泉等、世界に誇る素晴らしいものはたくさんあるのだが、昼間どこぞの観光地を訪れても夜はホテルや民宿で食事をして、部屋に帰ってテレビを見ながら一人酒を飲むといった繰り返しが、何とも無味乾燥だったのだ。


<ゲストハウス月光荘とママチャリ>

▲うるま市昆布にあるTOUGH&COCONUTSにて。長期滞在の女の子二人から見送られ出発。いいでしょう(笑)。これがあるから旅人はやめられない

 私の日本の旅の原点は、やはりこの那覇にある沖縄の古い民家を改装した、お世辞にも綺麗とは言えない「ゲストハウス」、月光荘である(ただし建物がずいぶん年季が入っているというだけで、掃除や手入れはきちんとしてある)。受付で今日一日の宿泊料金である1500円を払い、枕カバーとシーツを渡され若干の注意事項を聞かされる。寝床は男女別相部屋の蚕棚ベッド、トイレとシャワーは共同だ。夜は老若男女が集まる談話スペースで泡盛なんかを飲みながら、それぞれの旅人の体験や自慢話の花が咲く。こういった安宿は長期滞在者も多い。私が初めてここを訪れた時は冬の季節で、北海道から来たおばあちゃんが長期滞在していて、一人300円の会費でみんなに夕食を作ってくれた。「冬は暖かい沖縄で暮らして夏は涼しい北海道で暮らんですよ」とそのおばあちゃんは言っていた。

 さて、今回『オキナワ放浪宿ガイド120』制作の話を聞き、私はロフトブックスの今田編集長にねじ込んだ。「俺にも沖縄取材に行かせろ! そもそもこのシリーズの企画立案者は俺なんだから、当然だろ〜」と。すると、「悠さん、それはいいですけど、ただ行かせろじゃ取材費は出ませんよ。何か記事になりそうな面白いアイデア考えて下さいよ」と言うのだ。そして私は沖縄に行くためにいろいろ考えた。「わかった。沖縄本島一周ママチャリ紀行っていうのはどうだ!」と私は言った。「60歳を過ぎたおやじのママチャリ旅日記、うん、面白そうですね。でも辛いですよ。本当にママチャリで回れるんですか? 誰も見てないからってインチキはナシですよ」と編集長。

「おう! あたり前田のクラッカーよ。あたしゃ、自慢じゃないがサハラも渡ったし、マラリアにもかかった。三年前には四国歩きお遍路通し打ちをやりとげた。今だって、毎日酔っぱらっても片道7km、毎日自宅と事務所の間を自転車で往復しているんだ」とタンカを切った。「分かりました。じゃあ頑張って下さい。しかし悠さん、ギャグのセンスが古いですねぇ」ということで、なんとも強烈な旅に出ることになってしまったのだった。

<そして、沖縄ママチャリの旅が始まった>

 4月8日。東京の桜は完全に満開で、街々の桜吹雪に見送られながら私は、バックとノートパソコン片手に何も考えずに羽田にむかった。季節は沖縄の旅するものにとって一番いい時期である。私はただただ愚直にママチャリを漕いでみたかった。私にとってはチャリダーは初めての体験なのだ。60を超えた私は、果たして沖縄本島一周ママチャリの旅を完遂できるだろうか。3年前の「四国歩きお遍路通し打ちの旅」では、1400km近くを、48日間、ただただ毎日30キロ以上歩くことの「すごさ」を知り得た。その愚直な「歩き」の中で私は多くの発見をし哲学者になった。今回のママチャリの旅はまさにそれに近いものであろうと思っている。景色もいろいろ、思うこともきっと今までにない驚異の旅になるに違いないと思っての今回の旅の挑戦である。(次回に続く)






第15回 新宿ロフト風雲録−7(1976〜1980年)

パンク・ニューウェイブの時代がやって来た

 1976年、アメリカ建国200年の年、パンクはロンドン、ニューヨークの裏町に小さな種としてまかれた。70年代末、かつてカウンターカルチャーの象徴だったロックは巨大な利益を生み、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」(76年)、フリートウッド・マックの「噂」(77年)は全米で1000万枚以上を売り上げ、同名映画のサントラだったビージーズの「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)に至っては全世界で6000万枚のセールスを記録した。これらの利益構造、権力の上にあぐらをかいて安寧をむさぼっていた大物ロッカーは、それなりにではあるがこのパンクの出現に慌てふためいた。


日本のパンクの仕掛け人・地引雄一のあせり

 日本においても、76年以降パンクロックの芽は名もなき小さな空間で表現はされていた。が、まだストラングラーズやセックス・ピストルズが日本で脚光を浴びる前の事だった。

 日本のパンクの仕掛け人にして第一人者、地引雄一(当時はカメラマン)氏は、当時の若者雑誌『平凡パンチ』のほんの片隅に小さく紹介された写真−−パンクヘアーで顔中が安全ピンだらけの少女の写真だった−−に突き上げるような衝動を感じた。それは「何か凄いことがロンドンやNYで起きている」という新鮮な感動だった。「これは凄い、当然同じような動きが東京のライブシーンでもあるはずだ」と思ったがしかし、そんな気配さえ見あたらなかった。地引は言う。「60〜70年代前半、カウンターカルチャーとしての音楽が下火の時代、ハードロックが峠を越し、フュージョンやレイドバックの頃で、僕がロックに求めていたラジカル(急進的)なパワーはすでに過去のものとなり、どうにも物足りない感じが否めなかった。それはロックに限ったことでなく世の中全体が無気力に支配されたシラケの時代になっていたのだ。あのころ(政治の季節)の空気をちょっとでも知る者にとって、そしてあの頃に何もなし得なかった者にとってのシラケの時代の希薄な空気は実に息苦しく感じられた」(『ストリートキングダム』地引雄一著/ミュージックマガジン/1986年)更に地引は言う。「自分たちにとって屈折した挫折感があって、不完全燃焼と、やっぱり自分も何かしなくっては! といったせっぱ詰まった時代だった訳……それでその思いがいつの間にかカメラを携えライブに通ううちに日本のパンクムーブメントのまっただ中にいてしまったというところかな?」(同上掲書)「『パンクロックの神髄って結局なんだったんだろう?』と私は地引氏に質問する。『僕にとってパンクロックってもの凄い今までにない可能性を感じさせてくれた。それは音楽が良いか悪いかでなくってそこに感じるフィーリングの全てが……ジャケットのイメージとか、センスとか、ショックだった。やっぱりしびれたのはセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスかジョニー・ロットンの全てをむき出しにした顔つきなんだよね。世の中から疎外されきってしまったというか空虚そのものみたいな顔つきだった。それがパンクの全てを物語っていると感じたんだ』『その頃、地引さんが20代、俺がまだ30代になったばかりの頃、まだロックが成立して日が浅い時代でロックというのもに大きな幻想を持っていた時代だよね』『パンクって何を言ったかっていうと、まずお前がいる。逃げないで現実をちゃんと見据えてお前がいることをちゃんと表現しろ! っていう事だったと思う。うん、世の中なんだけど素晴らしい国、素晴らしい人生なんかありっこないんだ』と地引はきっぱり言葉を結んだ。」(『BURST』02年5月号/平 野悠・地引雄一対談「同時多発テロ9・11以降の世界に僕らはどう生きロックはどうあるべきか?」より)

江戸アケミと伝説の新宿ロフトライブ

 ここで、70年代の日本のパンクの話をする前に、少し時代は下るが、一つの象徴的なバンドの事を書いておきたい。

  1980年代。彗星の様に日本のパンクシーンに登場した江戸アケミの「暗黒大陸じゃがたら」の新宿ロフト、87年2月15日のライブ予告チラシはまさにロフトに対しての挑戦状そのものだった。「2月15日のロフト消滅日に結集せよ! ロフトは再起出来ない。我々が腐ったロフトを潰してみせる」といった扇情的な台詞が並んでいた。

 ライブの数週間前から、電話、ファックス、やらせ密告なんかが頻繁に続いた。これらは全てじゃがたらの一人芝居だったようだ。しかしロフトスタッフは不安だったと思う。ロフト側の対策会議は続いた。「どうしましょう? 奴ら半端じゃないからやばいですよ。ロフトは潰されますよ。この日は強制的に中止にしましょう」と私に言ってくる。「そうか? ロフトも奴らの標的になったか? 商業主義ロフトか、参ったな。人の苦労も知らないで勝手な事言いやがる。でもちょうどいい標的なんだろうなロフトって。どこかバンド寄りな姿勢を見せながら、利益に走る」と私はちょっと複雑な気持ちになった。「ねっ、やっぱり中止にしましょう。とても奴らが暴れ出したら制止出来るもんじゃないですよ」とブッキング担当者Aはいう。「バカ野郎〜、そんなみっともないこと出来るか? ロフトは腐ってもロックの聖地だ! 潰せるものなら潰して貰おう。それもロックだ!」と若き日の私はタンカを切った。

 この時代のパンクシーンは相当すさみきっていた。70年代に日本にも派生したパンクロックムーブメントはパンク正統派(フリクション、S−KEN、リザードなど)が、その主流をハードコアパンクに譲り渡した頃だった。このじゃがたらの「決起」以降ハードコアパンクはさらに酷いものになった。確かにその表現がどう過激であれ、そこから噴出されるエネルギーとサウンド、メッセージのマッチバランスが成立していた時代は何を見ても新鮮で面白かった(この最後のシーンはじゃがたらとスターリンに象徴される)。最低限の音とかライブパーフォマンスの線引きはあった。ハードコアの最後の局面(ロフトのスケジュールからパンクを排除する頃)ではお客も演奏者もただ乱闘や混乱ばかりを期待し、恐る恐る怖いもの見たさと好奇心だけでやってくる連中ばかりになっていた。演奏が始まるとステージからビール缶やスティック、時にはシンバルまでが満員の客席に水平に飛ぶ。興奮した客席からもビールやコーラの缶が投げ返され、傘までがステージに飛んだ事もあった。私はもうそんなくだらない危険なハプニングに嫌気がさしていた。

 おっと江戸アケミの伝説の新宿ロフトライブの話に戻ろう。2月15日当日。新宿ロフトは、どうなる「ロフトvsじゃがたら」で超満員だった。私も傍観している訳にもいかず、何人かの屈強な若者を集め「防衛隊」を組織しロフトに向かう。こんな混乱、私にとっては10年近く前、混沌とした政治の季節の頃の内ゲバや機動隊との決戦で沢山経験してきていたのだ。午後7時、ライブの幕は切って落とされようとしていた。楽屋に入ってアケミと話そうと思ったが楽屋は内鍵がかかっていて無駄だった。そのうち何人かのイカレた若い連中が、店の折りたたみ椅子やテーブルを壊しだした。バルサンがたかれ消化器がまかれる。これはもうじゃがたらのライブを体験しようという雰囲気ではなかった。じゃがたらの挑戦予告通りの事が始まろうとしていた。

 パンク小僧になんぞ負けられるかとばかり、我が方も力で狼藉者の鎮圧にかかる。若干の乱闘の末、その連中を店外に追い出すことに成功した。好奇の目で見守る観客を前に私は怒鳴る。
 「じゃがたら! 早くライブを始めんか〜!」

この日のじゃがたらの演奏は歴史に残るくらい良かった

 この日のじゃがたらのステージは、私たちスタッフが絶句するくらいの凄い演奏だった。ボーカルのアケミがテンポの速い力強いドラムの音にのって登場し、絶叫し、マイクを持って「商業主義、日本のロックを食い物にするロフトを潰せ! 解体せよ!」とアジテーションし、自ら自分の額にフォークをあてて 血だらけになり、1mもあらんステージからそのまま手も着かず、落ちて来る。その形相は、まさに自らの身体を賭けてのロックとはこうだ! と言っているように見えた。演奏はアケミがどうあろうと休まない。興奮するお客は手を差し出してアケミの身体に触り、アケミが自らの身体から噴出させたドロドロの血をくみ取り自分の顔に塗りたくる。

 血だらけのままステージに上がったアケミは、今度は満員の客席に向かって数匹の白蛇を投げつけた。悲鳴を上げて逃げまどう若き女性パンカー達。誰が押したか鳴り響く火災報知器。店外には消防車が、救急車が何台も駆けつける。迷惑顔のビルの管理人が警察を呼ぶ。その混乱があってこそ、じゃがたらの突き刺すようなサウンドが、私の脳天を真っ白にした。お客も、演奏者も、そして私たちも会場全体が興奮し、いつの間にか一体化していた。凄いライブだ。これまで私はこれほどまで予定調和でない、行く先がどうなるか解らない、会場全体が異様に興奮したもの凄いライブだった。

 演奏終了後、私は楽屋のドアを蹴破った。緊張する楽屋。私は楽屋の隅にふてくされて斜めに私を見るアケミに言い放った。「アケミ、お前等メチャメチャやったけど、今日の音は最高だったぞ。これだけは俺が保証する。お前等は日本一のパンクバンドだ」と。しかし私は、じゃがたらを二度とロフトのステージにはたたせることはしなかった(その理由は後に書くことになるだろう)。アケミの投げた白蛇はその後発見されず、そして今もアケミとともにどこかで生きているに違いない。私はその1年後ハードコアパンクをロフトではやらないと宣言する。

 この挑戦的でスキャンダラスなライブでセンセーションを巻き起こしたじゃがたらの江戸アケミは、インディーズの帝王と呼ばれながらロックと戦い、音楽業界と戦い、世間と戦い、その生命を燃焼させて行った。1990年、江戸アケミの死によって一つの時代が終わり、じゃがたらは伝説となった。
(以下次号に続く)

「ロフト紳士淑女録 Who are you? 〜SHINJUKU LOFT 30TH ANNIVERSARY LIVEより〜」

ロフト紳士淑女録 Who are you?

(写真は左から)柴山俊之(Zi:LiE-YA/撮影:鈴木公平)/福岡風太/逸見泰成(マリ)/告井延隆&中野督夫(センチメンタル・シティ・ロマンス/撮影:今田 壮)/宙也&KEITH

ロフト席亭 平野 悠

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