<旅立ち前夜、那覇の街で、真っ赤な愛車を手に入れる>
いつものことだが、旅のはじまりは不安と興奮が入り交じる複雑な気持ちになる。初めてのママチャリダーとしての「旅の門出」もまたそうだった。
さて、4月8日夕刻に那覇に着いた私は、那覇の定宿、ゲストハウス「月光荘」に荷物を置くとすぐに、近くの自転車屋さんにチャリを買いに行った。『オキナワ放浪宿ガイド120』の編集部からは、一日大体40〜50km走る目安で、行く先のコースと泊まる宿が指定されていた。ママチャリで沖縄本島海岸線を、ぐるりと一周することになっている。そうなのだ、今回は取材の為の「旅」なのだと思うと、南国の夕暮れの中、「中途半端では終われない」と、なぜか心が引き締まるのを感じていた。
那覇の街角の自転車屋で私は、「すみません、沖縄本島をママチャリで一周しようと思うのですが、ママチャリダーって初めての事なんですけど……」と、まずは専門家(?)のお伺いをたてた。「15段ギア付きの、長距離走行用自転車が……」ぼそぼそと店のオヤジの返事が返ってきた。沖縄の人って、初対面の本土の人間には極端に口数が少ない気がする。「いや、この計画はママチャリでなければダメなんです。実は私はパンクも直せないんですけど、大丈夫でしょうか?」と、出来たらタイヤ修理のコーチでも教えて貰おうと思って、恐る恐る尋ねた。「パンクはその時の運、不運ですからそう聞かれても……」オヤジは商売不熱心な顔つきで書類に目を通しながら冷たく言う。これが東京の自転車屋だったら、みんな集まってきてパンクの直し方や色々教えてくれるのだが。
「ママチャリってこれしかなけど……」と言って出てきたのは、16000円也の真っ赤なカゴ付きのやつだった。ラクビーのボールのようなイタリア製のヘルメット(6000円)も購入した(このヘルメットはやはりあまりにもママチャリには似合わず、一度もかぶることはなかった・笑)。私は、真新しい自転車に乗ってまごまごと那覇の街を走り始めた。途中、100円ショップで雨具・ロープ・空気入れ・地図なんかを購入した。どこかでパンク修理キットを買おうと思ったが、「パンクしたら自転車を捨てるつもり」に意識を切り換えた。
<初日にして早くも身に染みて感じたママチャリの恐怖>
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▲那覇のゲストハウス、月光荘。こうやって、みんなで食事をしている。一番左が確か月光荘の主 |
午前9時、朝起きて空をのぞき込むと、いつ雨が降ってくるかわからないような憂鬱そのものな空であった。月光荘の主人に見送られ、出発。
第一日目の行程は、那覇空港〜ひめゆりの塔〜喜屋武岬〜平和祈念公園〜奥武島と、本島南部の海岸線を巡る。編集部からは「平野さん、沖縄の戦争の傷跡だけはしっかり見て来てちゃんと報告してください」とは言われているけれど、ママチャリ沖縄本島一周第一日目、距離感もつかめず、いつ目的地に到着出来るかもわからず、ちょっと走ると急な坂道に遭遇して、それがきつくって、ひめゆりの塔なんか見ては来たが、そんな事を考える余裕すらなかった。空は重い雲に覆われていて、「海が綺麗!」なんて思う事もなかったし、時折降る横殴りの雨は気持ちを萎えさせた。
第一日目にして、ママチャリは本当に長距離を行く行程には向いていない乗り物だということが良くわかった。これは多分日本固有の乗り物だ。マウンテンバイクやギア付き自転車とも、シティチャリとも大幅に違う。ちょっとの坂でも、立ち漕ぎをするのがとても難しい。登り坂には全く弱い。
夕刻、100mほどの橋を渡り、奥武島という、小さな人口1000人ほどの漁業の島に着いた。今夜の宿は、民宿「おおじま」素泊まり2000円。近所の漁師がやっている食堂でビールを飲んで夕食。この日使ったお金は泊まりを入れて3500円だ。ママチャリだと交通費がかからないから、一日使う金額はこんなもんだ。沖縄は食事が安いし、宿も安い。
<ごーやー荘(コザ)とTOUGH&COCONUT(うるま市)>
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▲TOUGH&COCONUTの若きオーナ(左)ーと、コンデション・グリーンのギタリスト(右) |
二日目、はっきりしない曇天の中、ママチャリを漕いで到着したのが、ゲストハウス「ごーやー荘」だ。午後3時頃着いた。この日は距離としても40km、アップダウンも少なく意外と無理なく行けた。
昼間のコザの街はまさにシャッター通りで、完全に死んだ廃墟の様だった。地元では「町おこし」に必死だが、「警察の酔っぱらい運転取締りがきつくなってから、コザの街は死んだ」とごーやー荘の若きオーナーは言っていた。
この日の泊まり客は7人。ごーやー荘近くにある銭湯で汗を流し、宿に戻ると、夜は若い連中が泡盛を酌み交わしながら三線の稽古。近所の三線好きのおばあちゃんが遊びに来ていた。宿の若きオーナーも三線にはまっていて相当の腕だ。泡盛を飲みながら、「ざわわざわわ 広いサトウキビ畑は ざわわざわわ 風が通り抜けるだけ」と唄っている。このメロディがいつまでも南の空にこだまし、私の心に沈殿してゆくのだった。
次の日は、もの凄い雨にて出発をあきらめ連泊する。その日は宿に籠もって、一日中いろいろな原稿を書いていた。翌日は真っ青に晴れ上がった。コザから西に向かい一気に海中道路を渡り、平安座島・宮城島・伊計島・浜比嘉島を制覇した。海中道路といっても、道路は海の中を走っているわけでなく、ただ長い橋が架かっているだけのきついコースだった。4つの島々を制覇するということは、島の山々を越え先端まで行かねばならず、さらに同じ道を往復する行程だから、なおさら辛い。
夕刻、うるま市昆布にあるTOUGH&COCONUTというゲストハウスに到着。ここのオーナーは、まだゲストハウスを開いて一カ月。沖縄の全てに感動して移り住んだ本土の人だ。まだちゃんとしたグランドオープンは出来ておらず、看板さえ掲げていなかった。私が仮オープンから10人目の客だと言われた。でも、すでに長期滞在の女性達がいて、宿のオーナの運転で彼女達と恩納村のビーチに食事に行った。こういうところが、宿主とゲストが一緒になれるゲストハウスの一番いいところだ。とっても素敵な宿で、私はこの宿の健闘を願いたいと心から思った。(以下次号に続く)
『オキナワ放浪宿ガイド120』
(編集:ロフトブックス/発行:山と溪谷社)
6月22日発売(詳細はP25)。おじさんの(涙なしでは読めない?)ママチャリ紀行も載っている
詳細はLOFT BOOKSホームページで
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今月の米子♥
生後9カ月、避妊手術をして戻ってきた。傷口を舐められない様にカラーをしている
ロフト35年史戦記 第16回新宿ロフト風雲録(1980年〜)
ハードコアパンクとはなんぞや?
先月号の記事「じゃがたら伝説」が多くの評判を呼んだので、時系列をちょっと飛ばし、しばらくはあの時代の「興奮」を引きずって、そのテンションのまま末期的状況下に至るまでの日本の「ハードコアパンクシーン」の時代を、そう、もう25年も前、その時の現場にいた私(と新宿ロフト)の立ち位置と共に書いてみようと思う。
ハードコア(hardcore)とは、「不良」「チンピラ」といった意味が込められたアメリカの俗語が元になっているらしい。元々は英語で「筋金入りの」「過酷な、厳しい」といった意味の形容詞だ。パンクロックから派生した音楽であり、攻撃的な歌詞が特徴。ポストパンクシーンにおいて、ニューウエイブなど、多岐に渡るサウンドを展開するバンドが現れた。これに対しほぼ同時期に登場した、オリジナルパンクの社会批判などの主張や、荒々しいサウンドなどをより過激に追求していったバンドを「ハードコア」という言葉で形容したのが始まりだ。つまり、パンクの新たな道を追求する「ニューウェイブ」に対し、オリジナルパンクのスタイルを頑なに守り、それをより深化させてゆくこと、「男気あふれるやつら(筋金入り=ハードコア)」という、相反する意味で名付けられた。
店長&スタッフからの呼び出し
1981年8月29日夕刻、私は新宿ロフトの店長以下スタッフ全員から呼び出しを受けた。おそらくあの日本のパンクの先導(煽動)者・地引雄一が最後的に仕掛けた、「FLGHT 7DAYS インディペンデントレコードレーベルフェスティバル」最終日の事である。
ロフト事務所から新宿西口ロフトまでは300mほどだった。小滝橋通りには、交通渋滞の自動車がぎっしり詰まっていて、クソ蒸し暑い残暑とメタンガスの臭いのする黒い排気ガスが低く澱んでいた。
公害を垂れ流しながら高度成長に突っ走る日本、このシーンの数年後にあの愚かなバンドブームがやってくる、その前哨戦でのパンクスの雄叫びともいえるものだったのだろうか? 行き場のない若者群像……髪の毛を逆立てたモヒカン、革ジャン、金属の鎖や鋲付き黒装束の若い男女が不気味に幾つもの塊になってたむろっている。
私は汗をかきながらロフトの入り口に着いた。日が暮れる前から、ロフトの前の駐車場で酒盛りしている連中もいる。「もうお祭りをやっていやがる。こいつらは店の中には入らずただ騒ぐのが目的な連中だ。しかし強制排除する理由がない。そんなことをしたらかえって混乱を招くだけだ」と私は舌打ちをした。こいつらは時々通行人を襲ったり、通る車にビール瓶を投げつけたりする本当に困ったやつらだった。ロフトの道向かいには「はとバス」が停まっており、田舎から東京観光に来たお客にバスガイドが何やら、この得体のしれない不気味な連中を説明している。「また観光バスかよ。一体どんな説明を田舎者にしているんだろう。ロフトがいくらはとバスの観光コースになっても、奴らが店に入らない限り一銭の得にもならんよな〜。お前らがそうやって煽るからこいつらがつけあがる」とぼやいて、酒盛りしている連中に「ここで焚き火は厳禁だぞ。そして喧嘩もだ!」と厳命し、私は店に入った。そんなことを聞く連中ではないことは私が一番よく知っていたが……。
この頃私は「ハードコアパンク……もうどうでもいいよ。でもこいつら一体どこに行くのかな?」なんて、若干の好奇心もあったが、自暴自棄になってもいたようだった。ちょうど、近隣住民による第一回目の「ロフト出て行け!」の署名運動と訴訟まで起こされていて、頭を抱えていた時期であった。
いくらこの異様な光景を面白がっているとはいえ、そして何でもありの懐の深い新宿だから許されているとはいえ、私自身でさえこの乱暴狼藉な光景にはいささかうんざりしていた。「もし俺が近隣住民だったら、先頭に立って『ロフト立ち退き運動』をしているに違いないな」なんて苦笑いと複雑な気持ちが交錯する中、私は薄暗い地下室に入った。ステージではちょうど、吉野大作とプロスティテュートのリハーサルが終わったばかりだった。
店に入ると、店長以下、PA、照明を入れたスタッフ全員が揃っていた。店長の蟹江が口火を切った。
「悠さん、もうハードコアパンクのライブはやめてください。昨日のようなライブは勘弁してください。もし我々の意見が入れられないのだったら、我々は全員やめさせてもらいます」
「えっ、何があったの?」と私はとぼけてみせた。彼らは怒り収まらぬ様子でこう言った。
「見てください、この臭いと汚れ、幾ら掃除をしてもこの臭いは消えません。多分この一週間は食事は出せません」
FLIGHT 7DAYS インディペンデントレコードレーベルフェスティバル
このイベントは、地引雄一氏と清水寛氏と、シティロッカーレコードの森脇美貴夫氏が仕組んだ自主レコードレーベルのイベントだった。
この時代ロフトは、コアなパンクからニューウェイブシーンにその主流を移行し始めて来ていた。後から振り返ってみれば、ハードコアパンクはこの日を頂点として壊滅的・末期的状況に至ってゆく岐路にあった。まだ「暴威」と名乗っていたのちのBOφWY、陣内孝典のロッカーズ、石橋凌のARB、大江慎也のルースターズ、中野茂のアナーキーを中心にシフトし始めてゆくころだった。もちろん、長谷川きよしや森田童子、大塚まさじなんかのフォーク系も続けていたし、44MUGNUMやアースシェイカーなどのハードロックバンドも、スケジュールの一角を占めていた。
また、インディーズレーベルが注目されつつある時代でもあったようだ。新宿ロフトを中心に、西新宿の小滝橋通り界隈はものすごい数の中古レコード店やブート盤(海賊盤)屋が増殖しつつあった。さらには、こういったレコード店のほかにも、街の輸入レコード店の片隅に「自主制作盤」コーナーが設けられるようになりっていた。これは大手レコード会社から見向きもされない弱小バンドにとっては画期的な事だった。レコード盤は誰でもその気になれば作ることが出来、輸入盤店で取り扱ってくれるようになっていたのだ。80年代前半、パンクを中心にそのバンド数は膨大になり、各バンドは競って自主制作のレーベルが誕生していった事がこのイベントを開いた背景にあった。地引氏達スタッフは自主レーベルの代表者で実行委員会を作り、次のような種々の雑多なバンドが出演することになった。
FLIGHT 7DEAYS インディペンデントレコードレーベルフェスティバル 出演バンド&レーベル
ジャングルズ(シティリッカー)/白石民夫/不失者(灰野敬二)/NORD PUNGO/コクシネル/あんぱさらむぱらん/サイイングPトリオ(以上、ピナコテカ)/ノンバンド/チャンス・オペレーション/パブロ・ピカソ/ジュネ(以上、テレグラフ)/スターリン/宮沢省一(以上、ポリテカル)/水玉消防団(筋肉美女)/吉野大作&プロスティテュート(アルタミラ)/スティグマ/ジル・ド・レ/バナナリアンズ(以上、アスピリン)/カトゥラ・トゥラーナ(マーキームーン)/プレッシャー(つるかめ)/杉林恭雄(MIMIC)/PTA's/陰猟腐厭(以上、クラゲイル)/栄養ボーイズ(ダークサイド)/スクリーン(スマートルッキン)/バクダット・ハネムーン(寿)/ペイルココーン(パフェ)/スタークラブ(クラブザスター)/電動マリオネット(QP)/非常階段/ぽぷらきん/NG/アウシュビッツ(以上、アンバランス)
伝説の非常階段新宿ロフトライブ
さてこの日、そう、私がロフトスタッフから詰め寄られた、もうやらないで欲しいと言われ問題になった前日のライブとは、「非常階段」というノイズバンドだ。この非常階段というバンドを、知らない人のためにちょっと説明しておこう。
ノイズミュージックでありながらフリージャズ的な要素も強い。ノイズとはいえ、どちらかというと非常階段は、ハード・ロックのフィードバックや、フリー・ジャズのインプロヴィゼイションに近い。とにかく、大音量であり即興演奏であることが非常階段の基本的なコンセプトだ。79年に京都で結成。ライヴ・パフォーマンスも常軌を逸しており、ステージ上で女性メンバーが放尿をしたり、汚物を散布したりなど、客が嫌がることをやっていた。
スターリン、THE 原爆オナニーズ、S.O.B.、サバート・ブレイズなど、他のバンドとの合体ライヴもやってきており、"原爆階段"と"S.O.B.階段"名義でのアルバムも出ている。リーダーのJOJO広重は90年代末、基本的にはエレキ弾き語りの3枚のソロ・アルバムをリリース。T・美川は、自らのノイズ・ユニット、インキャパシタンツでも活躍する。非常階段の『臓六の奇病』の一曲目「ゲロ」では、メンバーが嘔吐しているところを生録している。
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▲いかにとんでもないバンドだったか、この一枚の写真が全て物語っている。写真では匂いが伝わらないのが残念だ(笑)(写真提供:地引雄一) |
この「非常階段」というバンドを始めて観た時、私はかなりショックを受けた。まさに嵐の瞬間、見てはいけないものを見たような不思議な感覚にさせられてしまった。店とか店員の問題とかを一切考えなければ、私にとっては貴重なライブを観たという感覚だったように思う。店員の猛烈な抗議があって、その後私はこの非常階段ライブをロフトではなく、法政大学学館や神奈川大学で観戦することになる。この著しく激しいノイズを音楽といってよいのかどうか実に迷うところだが、私は音楽シーンの中にこういうものもありだと思っていた。
さて、その私を除いてロフトのスタッフから総スカンを食った非常階段のライブとはどんなものだったのか?
……そう、ライブの前半戦は、それはノイズバンドらしい、それなりにまともな演奏をしていたのだが、中盤にさしかかった頃、突然ステージ端のセーラー服を着た女の子が椅子に座りながら、客席に向かって放尿し始めたのだ。これを合図にノイズ音が巨大になり、メンバーの連中が狂ったようにギターやドラムセットを壊し始め、さらには客席に納豆の腐ったヤツや臓物や腐ったゴミなどをばらまき始めた。客席からは発煙筒や爆竹の音がし始め、スピーカーはその音を拾って飛んでしまった。
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▲ミチロウ率いるスターリン。数々の過激なパフォーマンスで名を馳せたが、実は音楽的にも圧倒的な衝撃力を持ったバンドだった(写真提供:地引雄一) |
折しも非常階段の前日にはあの遠藤ミチロウ率いるスターリンが伝説のライブを新宿ロフトでやっていた。ステージ上で全裸になり興奮した最前列の女性が、ミチロウのイチモツをくわえフェラチオするといった事件が起きた。
この現場の状況は、地引氏の名著、『ストリートキングダム』(ミュージックマガジン/1986年)に詳しい。
「8月の末、一週間プラスオールナイトギグで繰り広げられたイベントは連日盛況で大きな成果を収めたが、何よりも音楽の多様性に驚かされた。半分以上のバンドはこの時初めて見たバンドでどれもが新鮮で面白かった。(中略)しかしなんといってもこのイベントの話題の中心になったのはスターリンや非常階段のスキャンダラスなステージで、それは風俗的な事件として一般誌の取材まで押しかけた。(中略)非常階段は狂乱の暴力的なステージで早くから噂になっていた。発狂した様なノイズサウンドをバックに数人の男が汚物やペンキをまき散らし、手当たり次第に物を壊して暴れ回る。果ては女の子がステージにしゃがんでオシッコをする。ライブハウスは阿鼻叫喚の修羅場と化すが、しかしその暴力は自虐的なパーフォマンスとして、ある種の美しさを感じさせる。解き放たれた瞬間を作り出しているのだ。それにしてもステージ中にまき散らした納豆の臭いが翌日になっても消えないのには参った。その後1年ほど、僕は納豆を食べられないのには参った。(中略)新宿ロフトでのスターリンの狂乱のステージを目撃した時にはさすが唖然とした。初期のパンクロックに類似したシンプルでスピーディーなスターリンのサウンドはその中に日本的な情念を感じさせ、すざまじいばかりの扇情的なエネルギーが渦巻いている。鋭利な言葉の断片が投げつけられ、汚物がまかれる。会場は次第に狂気が波打ち、素っ裸になったミチロウのペニスを少女がくわえ込む」
新しい時代には新しい主役が登場する。この本格派?パンクシーンというブームはそれまでの音楽シーンに飽きたらない我々を大きく興奮させてくれたのは確かだ。可能性もとてつもなく秘めていた。そしてこの大きな社会をも揺り動かしたシーンは拡散し1986年、(東京ロッカーズが発足して)8年目にして終焉したようだった。結局ロフトでも、このあとハードコアは出演禁止になった。ロフトからの支持を失い放逐されたロッカー達は、それから様々な物を??得て、それからのストリートシーンに大きな影響を与え続け、私は「日本のハードコアパンクを壊滅させた張本人」とレッテルを貼られるようになった。これも歴史なのである。(以下次号に続く)
※先月号の「ロフト紳士淑女録 Who are you?」のクレジットが間違っていました。右上のベロを出した人物は、JOEさん(G.D.FLICKERS)ではなく、逸見泰成(マリ)さんでした。お二人ほか関係者、読者にここにお詫びし、訂正します。
※著者が先月沖縄旅行中につき、今月の「ロフト紳士淑女録」はお休みです。
ロフト席亭 平野 悠
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