第104回 ROOF TOP 2006年11月号掲載
「晩秋の東北紀行-1」

<キャンドルライトの感動を胸に北へ旅立つ>

▲東北道で福島に向かう途中、見事な虹に遭遇した。思わずパーキングエリアに車を止めた

東北地方の山々が晩秋の赤と茶色に染まる少し前、一週間ほど東北を旅してきた。といってもロフトブックスで編集した『ニッポン放浪宿ガイド200』(06年改訂 / 山と渓谷社)の中でまだ私が制覇していない気になる宿を6日間、車で回って来ただけなのだが、私にとってはとても質の高い価値ある旅だったと思っている。

『Rooftop』10月号の「おじさんの眼 特別緊急版」をご覧になった方はお分かりかと思うが、9月23日、下北沢再開発大型道路抗議イベント「キャンドルライトデモンストレーション」は、予想をはるかに上回る素晴らしい一夜になった。ガンジー主義の「無抵抗の抵抗」的に、「一人一人が自主的に街角に立ち、街を彩るキャンドルの光を見つめながらこの問題を考えよう」というテーマは、確実に実践できた。自分が深く関わったイベントが成功裏に終わり、私は、祭りの後の空虚さと感動が同居するなかで燃焼しつくした感じがあって、ちょっと「鬱状態」に入ってしまった。

いつもながら私の「鬱」からの脱出処方箋は「放浪旅」しか思い浮かばない。 基本的に私にとっての旅とは気の向くまま、東京に本当に帰りたくなるまで続けるものなのだが、たった6日間にも関わらず、それなりに何かを「会得=掴む」ことができた旅だった。キャンドルイベントでの自分自身が獲得できた「感動」と、この旅での「感動」の二つが私の心の中に息づき、躍動していて、涙が出てくるほどうれしくって、「やはり旅に出て良かった」という思いは今も続いている。


<星空とともに過ごした福島の夜>

▲「パパラギの里」は、渋民村の小さな山の上、承福禅寺の境内に静かにあった

旅の第一日目は、福島のユースゲストハウスATOMAに投宿した。素泊まり2980円のこの宿に泊まるのは2回目だ。車で10分ほど登ると、350円で入浴できる高湯温泉もある。この温泉がまた素晴らしく良い。

この宿のオヤジは天体オタクだ。宿には、一般公開されているものとしては東北第2位という、直径51cmのとんでもない天体望遠鏡が設置されている。美味しい夕食がすんで夜空に星が輝き出す夜9時頃、解説付きで望遠鏡を覗かせてくれる。この夜の客は私を入れて3人だった。「平野さん、今夜はよく空が澄んでいるので、肉眼では見えないナントカ惑星(名前は忘れてしまった!)を見せましよう」ということで、ビールを飲むのは後回しにして深遠な夜空を堪能した。


<パパラギの里という不思議な禅道場へ>

岩手県の中央部に石川啄木が育った渋民村がある。昔は飢饉の度に多くの餓死者が出、娘が売りに出されるという貧しい村だったそうだが、今はそんな面影はほとんどない。翌日、福島から北上した私は渋民にたどりついた。

誰もいない岩手銀河鉄道・渋民駅のプラットホームに佇みながら、石川啄木の短歌を思い出していた。小学生の頃、啄木の句になぜか大変感動し、動けなくなってしまったことがあった。ぼんやりと、50年以上前の敗戦直後の貧しき少年時代がよみがえってきた。

ふるさとの訛りなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたわむる

夕刻、私は緑に囲まれた急な坂道を上がり、寺の門前に車を止めた。小さな山の上にぽつんと禅道場が佇んでいる。「パパラギの里」は、『放浪宿』にほんの小さく載っているだけの宿坊なのだが、ふと立ち寄ってみる気になった。静寂に包まれた寺には人影が見えず、なんともいえぬ摩訶不思議な「妖気」が立ちこめているようだった。私の体はその「気のバリア」で前に進めない。事前に電話で宿泊の予約はしていたのだが、「お前はこの寺に入るには10年早い。煩悩を捨て去れ!」と、寺が私を拒んでいるように感じられてならなかった。

私は寺に入る勇気がなくなり、しょんぼりと山を下り、どうやったらあの強烈なバリアを突破できるのかと考え込んだ。東京にいる『放浪宿』編集担当の今田にも電話を入れた。

「あの寺には何か俺を拒むものがあって入れないんだよ、どうしよう? 他に近くにいい宿ないかな」と泣き言を言う私に今田は、「世界84カ国を股にかけた元バックパッカーが情けないこと言わないでくださいよ」と叱咤激励するのだった。「断固」という自身の常套句を胸に私は意を決した(この時私は、「ああいう寂し気な寺ってさ、網戸がなかったりいろいろボロかったりして快適じゃないんだよ〜」なんて煩悩だらけな発言もしていたらしい・笑。でも、強烈な「気」を感じたのも間違いなく本当だ)。


▲承福禅寺の和尚。解脱したお顔とはここまで澄んだ表情をしているのだ

それから先はあまりよく覚えていない。まるで夢遊病者のように、気がついた時には私は寺の中の個室にいた。
疲れきって自室のベッドでうとうとしていると、「夕刻のお勤めに参加されますか?」とドアの外から声を掛けられた。私は参加することにした。お寺のお勤めは3年前、四国歩きお遍路で宿坊に泊まった際に何度も般若心経を唱えた経験があったが、やはりあの荘厳な儀式は一里人としては緊張する。この日の泊まり客、というか里人訪問客は私一人だった。

夕食後、私より2歳年下の和尚に、「一体この寺に張り付いている磁場はなんなのか?」と話した。さらに、「私はいつも不思議な気を感じる体質で」と前置きし、四国歩きお遍路通し打ちの48日間で体験した色々な不思議体験についても話した。私のような同年代の宿泊者が少ないせいか和尚は、「なぜ乞食坊主になったのか?」という話を、酒も飲まず(当たり前か?)、たくさん聞かせてくれた。


<かがり火の中のパパラギの里>

▲「豪快に焚かれ私の来寺を歓迎してくれたかがり火

どういうわけか私を偉く気に入ってくれたらしい和尚は、私に「お主はただ者ではない」と告げた。寺の坊主を全員集め、私のために境内にかがり火を焚かせた。薪がバキバキ燃え、静寂が寺を包み込む中、和尚が編纂したあらゆる種類の混在した音楽を大音響で流し始めた。寺を包むような壮大な鎮魂歌が流れる。その半端でないスピーカーシステムを見ると、それがまたもの凄くマニアックにこだわっているのだった。和尚は、35歳で出家する以前は日本有数の熟練ピアノ職人だったというから、ここまで「音に対するこだわり」があるのだろう。
「この小さなお山は私が30数年前に来た時には、何千本というタイヤの不法廃棄場だったんだ。それを私は独り、托鉢をやり、橋の下で眠りながら、雪をかき分け一本一本片づけたんだよ」。
過去を懐かしむように、和尚はかがり火を眺めながら語ってくれた。

この貧乏寺は僧侶達が全国を回る托鉢で維持されている。そして、ただ死を待つだけの行き場のない老人や不登校児、引きこもりなど、人生に生き詰まってしまった人達が集まる道場でもある。和尚はこの地に「癒しの場」を作ろうと、修行僧達の先頭に立ち粉骨砕身している。翌日、のこぎりやカンナを持って汗水を流している彼の姿を見学し、感動している私がいた。


<初めての禅修行体験>

夜、休み際、寺の修行僧から「平野さん、明日早朝の座禅修行に参加されますか? 朝4時半から座禅が始まって、お勤め、寺の清掃をやり、6時半頃に一汁一菜とおかゆの修行食になります。もし参加するなら、今から軽く練習しますので道場の方にいらしてください」と言われた。好奇心だけが頼りの私はもちろん、座禅の組み方をはじめその道場のしきたりの指導を受けた。修行僧は言う。「とにかく無言です。それでないと無の境地には絶対入れません」。


▲慈恵修行僧。かわいいでしょ

次の朝、私は緊張して座禅修行に参加した。完全に足を組むことができない私は「半座禅」と呼ばれる姿勢をとった。始めてから20〜30分、足がしびれてもがき苦しんでいると、後ろから和尚が私の肩に「バシッ!」と喝を入れる。姿勢を「グイッ」と直された瞬間、足の痛みはなくなり、私は真白な壁に向かい合い、ほんの少しだが「無の境地」を体験することができたと思った。

次の日も私はその寺にとどまった。この寺に来て三日目、別れを惜しむ和尚から「鎮魂歌」のCDを頂き、その日から一年以上托鉢で回り続けるという修行僧を見送ってから寺を出発した。「平野さん、それだけあらゆる旅をしたのなら、この寺にとどまり修行しながら托鉢の旅をするのがよかろうに」という意味深な誘いを遠慮して、なんだか解らないけれど「貴重なものを得た、訪れて良かった」という感覚を胸に、私は山を下りたのだった。


<青森県六ヶ所村で「核燃料再処理施設」を見た>

▲六カ所村の核燃料廃棄物貯蔵施設の先には風力発電の巨大風車。核のゴミ捨て場と自然を利用した風車の対比に奇妙さを感じた

渋民村をあとにした私は、ただひたすら下北半島にある矛盾だらけの村、日本のチェルノブイリである六ヶ所村に向けて車を走らせた。

『Quick Japan』67号の政治特集で、大貫妙子さんと森達也さんの対談や大泉実成さんのコラム、小野登志郎さんのルポなどを読んでから、この村が気になって仕方がなかった。ウランやプルトニウムの再処理工場の本格操業を目の前にした、膨大な_税を使った補助金漬けでなければ生きてゆけない僻地の村の現状を見たかった。この村には核燃料サイクルに反対する村議会議員はおらず、有権者9000人のうちにも反対派は300人程度しかいないという。こんな危険な施設に反対を唱える人がほとんどいないとはどういうことだろう? これは下北沢の道路問題なんかとは全く比較にならないほどヤバい話なのだ。ここで再処理される核燃料廃棄物は、2万年も隔離せねばならない。これから先2万年もの間、人的ミスもゼロ、地震などの天災もなく、テポドンも飛んで来ないという前提でこの施設は作られているそうだ。

降り続く雨の中、車は六ヶ所村に入った。再処理施設近くでは道路はやたら豪華になり、見事なハコモノがたくさん現れた。公民館、老人施設、子供の遊び場。人口9000人の村になぜこれだけのハコモノが必要なのかは一目瞭然に理解できた。でも来年この核施設が稼働し始めたら、もう動燃はハコモノをつくり続ける必要もないし、この地に動員された建設労働者はほとんどいなくなってしまうだろう。ただ村人だけが、この=?危険な施設と心中するしかないのだと思うと、私は激しい雨の中で車を停めることもできず、「いいのか? ニッポン」と車中で考え込むばかりだった。(次号に続く)

web現代でコラムやってます
http://web.chokugen.jp/hirano_y/


今月の米子♥

この子は抱かれるのも嫌い。私の膝の上にも、寝床にも入ってくることがないのがとても寂しいぜ。 誰かこの子に言い聞かせてやって下さいな(笑)






ロフト35年史戦記 第21回 前編・終章(1982年)

<バンドブーム前夜の空しい日々>

何度も書くことになってしまうが、1980年代に入ると、ほんの数年前まで「一部不良の音楽」と言われていた日本のロックがどんどん市民権を得て、高校のガリ勉野郎までロックをするような時代になった。(ごく一部に過ぎないが)一山当てた成金ロッカーが偉そうな顔をしだし、「ロフトなんかダサくって出られないよ」というバンドも増えてきた。それまでロックなんぞに見向きもしなかった大手レコード会社やプロダクションの連中が、まだギターもまともに弾けず譜面も満足に読めない小僧達をチヤホヤしだした。街には雨後の竹の子のように「ライブハウス」ができて客の入るバンド争奪戦が始まり、ライブハウスは「売れるまで、大手メーカーからお呼びがかかるまで」の単なるつなぎの「ハコ」でしかなくなっていった。さらには、大手不動産屋、放送局、食品会社なんかが「ロックは商売になる」と見るや千人規模の大型の小屋を作り始めた。

ロックを支持するとかしないとか、生まれてまだ間もない日本のロックをどう育てるか、これからロックはどうあるべきか、なんて論理は通用しない。大資本の論理が幅を利かせ、若き表現者とロックジャーナリズムは「売れなきゃクソだ」という考えに大半が翻弄されてしまった。そして数年後、日本人全体が愚かなバブルに酔った時代には、「イカ天」「ホコ天」のバンドブームがやってくることになるのだ。


<「さよならニッポン」ロックを捨て世界へ>

1982年10月、新宿ロフト以外の他の店を閉店、暖簾分けした私は日本をあとにする。友達には「ちょっと出かけてくる」と言い残し、「平野、また旅か? お前は自由でいいな〜」なんて言われながら、今にも降り出しそうな曇天の下、誰の見送りもなく、バックパックを背負って無期限の世界放浪旅に出た。


▲1982年、シベリア鉄道の列車が見えるハバロフスク駅での若き平野(35歳)

まずは飛行機を使わない旅をしたかった。横浜からソビエト船でウラジオストクに渡り、そこから世界一長い9297キロもの鉄路・シベリア横断鉄道でモスクワまでゆき、さらに「解放前」の東ヨーロッパへ、というところまでは出発前に決めていた。まだ沢木耕太郎の名著『深夜特急』(86〜92年 / 新潮文庫)なんかなかった時代だ。これ以前にもアメリカやインド、ヨーロッパなど、短いながら何度か個人自由旅行をしたことはあり、バックパッカーとしての心得は少なからずできていた。かの共産主義国家・ソビエト連邦は、まだ個人自由旅行が許されていなかった。
「祖国が自分を必要としていると思えるまで、俺は絶対日本に帰らない」という蒼い決意は、まるで家出少年の様だった。出立の前夜、一番勇気が必要だったのは、やはり一緒に同居していた一人残された実父との別れだった。「やはり行ってしまうのかい?」。母が死んでまだ何年も経っていない。親父の淋しそうな言葉が背にのししかかって来るのを無理矢理振り払いながら、私は深夜、黙々とバックパックに荷物を詰めていた。年老いた親父に「もう日本には居たくないんだ」とは、とても言えそうもなかった。


▲1987年、ドミニカの首都サントドミンゴ、カリブの海岸通りに「Restaurante Japones(リストランテ・ハポネス=日本料理店)」をオープン。Mt.Fujiと小さな太鼓橋がある

早朝、一人家を出たときにはやはり涙が出た。見慣れた風景の全てが違って見えた。横浜港からバイカル号に乗りこむ。出航のドラムの音が響き渡り、ロシア民謡「走れトロイカ」が流れる。色とりどりのテープが切れ、船が岸壁を離れた時には感傷的になってしまい流す涙は止まらなかった。「さよならニッポン」という感覚と、「これは遊びの旅ではない。もう一度自己の立ち位置を見つめ直すんだ」という意識が全身を支配した。これから始まるだろう、そう、今までに味わったこともない未曾有のドラマチックな体験が待っていると思うと、どこか緊張もしていた。


<ロフト35年史戦記・前編 エピローグ>

その後5年もの間、私はバックパックを背負って放浪者として生きてゆくことになる。残念ながら40歳を迎える頃、体力的にも限界になり、旅を終える(最後の頃は病気ばかりしていた)。目標の100カ国制覇は完遂出来なかったけれど、世界84カ国を渡り歩いた。87年、命の危険、体力、精神力、語学力など全ての面でバックパッカーの旅先としては一番の難関と言われていた、サハラ縦断に挑戦。マラリアに罹りながらもなんとかやり遂げ、これで思い残すことはなし、と長年の旅暮らしに決着をつけたのだった。

しかし、やはりまだ日本には帰る気にはならず、私は日本以外の地に骨を埋める、という次の目標を自分に課した。旅の途上で訪れ、ラテンアメリカ特有の激しく情熱的な「メレンゲ」のリズムに魅了されたドミニカ共和国に日本レストランをオープン。カリブ海最後の楽園と呼ばれていたこの異国の地でおのれ自身朽ち果てようと決意する。

そして時を経て1990年、私は大阪で開かれた万国博覧会(花博)にドミニカ政府代表代理、花博ドミニカ館館長として来日する。その1年後には、バブルに狂った大家から立ち退きを迫られていた新宿ロフトに復帰することになるのだが。

ロフト35年史戦記はここで「前編」終了です。長い間この連載を読んでくれた皆さん、ありがとう。
後編(07年1月号から開始予定)では、ロックに関して「浦島太郎」状態で10年ぶりに現場復帰した私が、カステラ、ピーズ、KUSU KUSUなどにぶっ飛び、新宿ロフト立ち退き問題、下北沢シェルター立ち上げ、新宿ロフト20周年記念武道館ライブと、再び巻き込まれた怒濤の日々を語ってゆこうと思います。ご期待下さい。


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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