第103回 ROOF TOP 2006年10月号掲載
おじさんの眼 特別緊急版
下北沢キャンドルライトデモンストレーション報告

<下北沢がローソクの愛の灯に包まれた一夜>


「下北沢をつなぐ光の輪の中に、あなたも加わりませんか?
多くの人々に愛されている下北沢。ところが今、この街は大規模な再開発計画の危機にさらされています。このイベントは、下北沢の路地から路地をキャンドルライトで静かに照らし、下北沢の魅力をみんなで再確認しようというもの。下北沢にゆかりのあるアーティストによる音楽、ポエトリー・リーディング、ライブペインティング、舞踏など、下北沢が培ってきた文化の力と、街によせる人々の思いを集める静かな光の夕べを開催します。秋の夕べの90分間、この街をつなぐ光の輪の中に、あなたも加わってみませんか? 会場となるのは、幅26メートルの道路予定地の中にある世田谷教会の中庭です。」

これは、キャンドルライトデモンストレーションのフライヤーに書かれたメッセージだ。
主催は「Save the 下北沢」という市民グループ。路地が入り組み、歩いて回るのが楽しい街である下北沢に、現在、幅26mもの巨大道路を造る計画が進行中で、それに意義を唱えている。その運動の一貫として、9/23(土)、少し肌寒くなってきた初秋の夕べに、このピースフルなイベントが行われた。

集合場所の世田谷教会では、夕暮れ時からライブスタート。もじょらいじんぐ横山、曽我部恵一、もりばやしみほ、原みどり、佳村萌&勝井祐二&辻コースケ、おおたか静流、Candle JUNE(キャンドルパフォーマンス)、戸田真樹(ライブペインティング)。約1時間半のライブが終わると、あたりはすっかり闇の中に。参加者は幻想的なキャンドルの光とともに、下北の街の思い思いの場所へと散って行った。


←イベントトップバッターは曽加部恵一さん。
1時間後には渋谷でライブがあるというのに、忙しい時間駆けつけてくれた。
↑大型道路建設予定地で私たちに無償で敷地を貸して下さった
神父さんのスピーチ。

秋の夕日が沈み、参加者全員が持つキャンドルに灯された。綺麗で厳かで「街を壊さないで」という願いが込められた。


↑キャンドルジュンさんのスピーチ

↑下北沢のお店の中でも・・・。


<「Save the 下北沢」応援メッセージ>

私は東京をとても愛しており、もう数え切れないほど訪れていますが、“下北沢”という街を知ってから、東京という都市の生命力の核心に、はじめてふれたように感じます

個性豊かで活力にあふれ、とても親しみのもてるこの街を壊そうとするのは、許せないことですし、恐ろしい間違いです!

私は下北沢が今の姿のままで残ることを心から強く願います。
────ヴィム・ヴェンダース(映画監督)
(日本語訳:Save the 下北沢)


おれは、下北沢、好きだよ。

下北沢だけじゃなくて、壊したらもう戻ってこないものムム時間と言ってもいいし、歴史と言ってもいいけど、そういうものってほんとうに大事だよ。無くしたらもう二度と戻ってこないんだよ。築地にしてもそう。

だから壊すな!
────坂本龍一(ミュージシャン)


もちろん私には防災から考えた云ひ分はよくわかりません。でも日本人はあまりにも無残で容赦なく、東京のあちこちにまだ残っていた日本独特の魅力ある町々をすでに壊しています。

下北沢を銀座や渋谷、新宿のようにしてメこれで世界におとらない一流の町になったモなどと云って喜ぶオヂさん達がたくさんいることを想像しただけで、ゲロがでます。

私の外人芸術家たち友達は、下北沢の魅力には取りつかれています。こわさないで、このザワザワ下北沢を、なんとかそのままに残しておいてください。
────フジ子・ヘミング(ピアニスト)


応援してます。
再開発、絶対するな、とは言わないけど、誰もが認めるシモキタの美点を根こそぎにするような、大昔の計画は、全くナンセンス! 日本中に増殖している、のっぺらぼうの街はもう沢山!
僕のよく通う、下北のあるカフェのマスターは、再開発反対の意思表示をしたとたん、何者かに深夜、店の扉を壊される嫌がらせにあったそうです。大プロジェクトの陰には必ず利権絡みの汚ない思惑が渦巻いてるはず。いろんな人々の得意技を結集して街角を守っていきましょう!
────大熊ワタル(ミュージシャン)


大好きな街を壊されてなるものか!
てくてく歩いて何かを見つける街、
とぼとぼしょぼくれても誰かに逢える街、
愛する音楽に巡り会った街、
この街は生きているんだよ!
この街はふるさとなんだよ!
壊さないで!!!!
────おおたか静流(ミュージシン)


下北を練り歩くのが好きだ。下北のカフェでぼんやりするのも。一人で、あるいは誰かと。下北の様々な店を冷やかしてまわるのも好きだ。もちろん下北で飲み食いするのも。真昼であれ深夜であれ早朝であれ、ふいに下北の空を見上げるのも大好きだ。

だから他所に(時に外国に)住む友人が東京を訪ねて来た時は必ず下北沢に連れてくる。案の定、彼や彼女はみんな下北が好きになる。それまでは東京や日本にうんざりしていた彼や彼女でさえ表情を変える。それはきっと、日本の他の都市や街ではほとんど死に絶えてしまった魔法が、そう、コミュニケーションの魔法が、下北沢にはいまだに宿っているからにちがいない。

いいかげん私たち日本人は「利便性」の先に存在する「野暮」や「荒廃」や「退屈」や「孤独」に自覚的にならなければならない。そして自分たちが社会を動かしてゆく力を有してるのだということにも。

環七みたいな道路? 冗談じゃないよ。
────桜井鈴茂(小説家)


「下北沢だから」という理由だけではありません。これから都市計画のあり方を考える一つのポイントだと思います。この計画は何十年も前の都市計画と何ら変わりないでしょう。山林を削ってニュータウンを作り、削った土砂を海に埋め立て人工島を作り、双方ともにゴーストタウン化するムムムム。こんなあやまちを繰り返してはなりません。「人」と「街」がどのようにして成り立っているのかということをないがしろにしてはなりません。

既存のものの良さを生かす都市再開発をしていかなければならない時代です。必然がないものに存在の理由はないです。

あと、都内での自家用車利用への課税と、公共交通機関の充実を期待しています。
────岸田繁(ミュージシャン)

SAVE THE 下北沢 オフィシャルサイト
http://www.stsk.net/

web現代でコラムやってます
http://web.chokugen.jp/hirano_y/


今月の米子♥

ご存じ、真ん中が米子です。 上の段から順位の偉い中から場所が決まっている。一番上は野良で3歳で性格悪し。私からいつも逃げ回っている。誰がネコ缶の資金出しているのか解っていない奴だ。一番下はスコッテッシュで孤独が大好き2歳。





ロフト35年史戦記 第20回 新宿LOFT風雲録11(1980年〜)

<ライブハウスほどバカな商売はない>

1980年代前半、ハードコアパンクの時代が終わりインディーズブームの火がつきはじめると、多くのロックバンド達はメジャーに行くことが夢でありステータスとなっていった。都内に点在するライブハウスは、悲しいことにキャパ1000人の渋谷ライブインや2500人の渋谷公会堂、10000人の武道館に到達するためのステップ台としてしか機能しなくなってゆく。

私は、一人のライブハウスの経営者として、お客が少ないときは小さなライブハウスに出演するが、有名になったり動員が増すと、今まで長い間赤字に耐えてくれたライブハウスなんか見向きもしなくなる日本のロックシーンに絶望していた。ライブハウスとバンドが一生懸命制作、宣伝し、いろいろ方策を考え抜き頑張っていた手作りの両者の関係が、動員が増えだすと多くのバンドは小さなライブハウスには出演してくれなくなる。この構造に、いや、信頼関係の欠如に「売れ出したら困る……こんなバカな商売ってあるのか?」と思い続けていた。アルバイトをしながら細々とやっているバンドだってバイトなしで生活したいはずだし、僕らだってなんとか彼らが正真正銘のプロのミュージシャンとして存在して欲しいと思うわけだ。私は、ドカドカ無神経に入り込んでくる、ライブチャージも払わずに入り込んで来て青田買いをする大手プロダクションの連中に腹が立っていた。ましてやその連中にペコペコしているバンドマネージャーなんて見るのも嫌だった。

この悪循環を断ち切るために、現在多くのライブハウスが仕方なしに行っている悪名高き「ノルマ制」というシステムが生まれるわけだ。当時のライブハウスは、客が入らなかったら表現者から金を取るなんてことは考えもしなかった。


<もう一度、あの緊張と興奮の中に身を置きたかった>

82年のクソ熱い夏が終わる頃。私は日々の仕事に忙殺されながらその意味を立ち止まって考えることもできず、毎日がただただ流れてゆくのに苛立っていた。この時点で私は、小さいながらも「有限会社ロフト」という会社を維持し、4軒のライブハウスと2軒のロック居酒屋、などを経営していた。ほかに、ビクターと組んだレコード会社(「ロフトレーベル」)、著作権管理や『ROOFTOP』発行を主軸とする音楽出版会社や内装会社まで経営していた。一経営者として毎日、毎日が同じ事の繰り返し。それは病的なほど整然とした、無味乾燥な時間単位のスケジュールをただただこなしていた。

新宿LOFT開店時の膨大な借金を返済し終わった瞬間だったと思う。「なんのためにこれほどまで働くのか?」といった思いが心を支配し、全てを放り投げたい破滅的衝動に駆られた。時代は高度経済成長のまっただ中で、バンドブームやバブルのちょっと手前。世界は新しい時代を模索し始めていた中、日本だけがつかの間の平和と繁栄を謳歌していた。35歳でバツイチ独身であった私は、日本のロックにも、政治や社会にも、さらには市井の四畳半劇場的な小さな幸せにさえも絶望していた。私はどこまでもその存在が自由なはずだった。60〜70年代の激動の政治の季節を体験していた私は、もう一度あの時代のような毎日が緊張と興奮の場面に身を置きたかった。


<ロフト解散宣言>

ロフトという会社を経営していながら、私はいつも孤独だった。何年も経ってからだが、対人的にはもの凄くエラそうで嫌な奴だったと、友人に言われたりもした。

毎日が会議の連続、そして部下を引き連れての各店舗の視察。疲れ果てた体を引きずって誰も待ち人のいない部屋に帰る孤独な自己。82年9月、二百十日の強い嵐の深夜、私は自室で突然、「こんな日本で死にたくない。今世界は激動している。俺は何をしているのだ」と衝撃のように思った。「なんのためにこれほどまでに働くのか」という意味を失ったまま消耗しきった私は、「もう日本の音楽シーン、ロックシーンの中での俺の役割は終わった」と痛切に思った。言い換えれば自分の居場所、「何をなすべきか」を見失っていたのだ。

翌日、嵐が去った直後の、快晴のけだるい土曜の昼下がり。私は腹心の部下・佐藤に、「ロフトは解散する。できたらお前は、ロフトを何年月賦でもいいから買え。そして俺は日本を捨てる。無期限の放浪旅に出る。いつ日本に帰るかはわからない」と宣言した。佐藤は「ロフトを買う気はないよ。俺は悠ちゃんのように世界放浪したいわけじゃない。ロフトの解散は賛成だが、悠ちゃんのポリシーは尊重するから、しばらく新宿LOFTだけはやらせてくれ」と言った。

結局、烏山、西荻窪ロフトは大家に返すことにした。荻窪、下北沢、自由が丘ロフトはその時の店長に暖簾分けした。そして新宿LOFTは、私が日本に戻って来るまで佐藤が私から借り受けることになった。


<そして無期限の世界放浪の旅へ>

期限のない旅、日本人を放棄する旅、現代人にそんな事が許されるはずはないと思っていた。しかし一旦「決意」すると、それは意外と単純だった。恋人、仕事、お金、親……、全てのしがらみを断ち切った時に「自由」が手に入り、そうしたらどこで野垂れ死にしようと自分の勝手なのだと思った。そんなことより、これから始まるだろうドラマ、明日に向かって生きる。「目標は世界100カ国制覇なのだ!」と思い始めたら、興奮は収まらなかった。生き馬の目を抜く東京で、まがりなりにもライブハウス経営という一つの仕事を成功させた経験が、未知の旅への自信を裏打ちしてくれているようだった。どこの国に行こうが、どこの国に住もうが自分一人の生活ぐらいどうにでもなるさ。そんな「勝手流」でゆけるんだ。

そうして私は、ロックの現場から離れ世界へと旅立ったのだった。(以下次号に続く)


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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