第102回 ROOF TOP 2006年9月号掲載
「夏盛が逝く」

<脅威の電動自転車>

今年4月、辛い雨と海と風と高低差の多い沖縄本島をママチャリで回ってから、突然自転車に乗るのも飽きた。東京でも長らく続けていた自転車通勤をやめ、電車通勤に切り替えて見たのだが、どうも案配が良くない。深夜酒を飲んでいても、帰りの終電が気になってしまう(長年のポリシーとしてタクシーはどうしても乗りたくはない)。終電近くの電車の混み具合、会いたくない人と会ってしまうバツの悪さ、酒臭さと酔っぱらいの大声や喧嘩、ガングロギャルの醜態……、なぜか終電車は見たくないものばかり見てしまう。

▲これが噂の電動自転車「タイガー」だ。

四国お遍路で歩きもさんざんやった。車もバイクも、電車も自転車もみんなやってみた。あと残っている移動手段とはなんだろうってしばし考えてみた。「あとは一輪車通勤か?」とも思ったが、これは私には技術的にも不可能だ。迷いながらふと思いついたのは、電動自転車。「ママチャリ電動自転車」を自転車屋の店頭で買うのは美意識が許さず、ヤフオクでちょいと格好いい定価115,000円の中国製電動自転車を45,000円で競り落とした。

実際に乗ってみて、これは凄い、革命的だ、と思った。一回4時間ぐらいの充電で40Hぐらい走れる。1、2回漕げば時速30Hぐらいは軽く出て、あとはほとんど何もしないで会社から約7Hの家まで着いてしまう。舗道通行、一方通行逆走、信号無視、酒酔い(何回か捕まったが風船をふくらませられる事は一度もなかった)。都会では車やバイクより自転車は天下御免で自由だ。ヘルメットもいらないし、公園の中までそのまま入っていける。駐車もあまり気を使わなくていい。

通り過ぎる景色と風に吹かれながら、ウォーキングや犬の散歩の人に「チチリン」「こんばんは」と声をかけ、裏道や川べりの側道を進む。ちょっと運動をしようと自転車の電源を切り、エッチラオッチラ普通の自転車よりも重いペダルを漕ぐのも、何か悲壮感があって面白い。電気代も安いし環境にもいい。自転車が車にぶつかって死んだ話は聞くが、自転車が人をひき殺したという話は聞いたことがない。だから「非武装中立論者」の私の思想にもかなっている。そう、人を殺す位なら自分が死んだ方がいい。これが私の哲学なのだ。あなたもどう?


<史上最高齢の「新人」ロック評論家奮戦記>

さて、この夏も私は新人ロック評論家として、フジロックフェスティバルに参戦した。二日目の7月29日の土曜日、会場で松村雄策氏と会った。

松村「東京ではこの数年会った事ないのにフジロックでは毎年会うね。そこがフジロックのいいところかな?」
平野「ねえ、昨日のドノバン観た? メッチャ素晴らしくて感激したよ。ドノバンってあんな素敵なアーティストだったっけ?」
松村「えっ、あのドノバンが来てるの? 知らなかった。もう彼は相当な年だよな……」
平野「ほらこれだよ……」と私はスケジュールを見せた。
松村「うえ〜本当だ。観たかったな〜」

次の日、風の噂で雄策さんのメッセージが届いた。
松村「すっかり平野にだまされた。ドノバンはドノバンでも、ドノヴァン・フランケンレイターじゃないか?」
雄策さん、申し訳ない。実は私もステージを眺めながら思ってたんだよ。「俺たちが知っているドノバンにしては若すぎる」って……。でも雄策さんもロック評論家界の大御所なんだからさ、気付いてくれよな(笑)。
そんなこんなで今年のフジロックもいろいろあった。そして私はついに本物の「これぞロック」も発見した。それはジプシー・アヴァロンという小さなステージでの下山淳と仲野茂(アコギなSS)の二人だけのライブだ。つい3年前まで名前さえ知らなかった「レッチリ」の凄さにもぶっ飛んだ。さらに私は、NGOビレッジで「save the下北沢」の署名運動を手伝ったり、なんとこの歳にしてフジロックステージデビューまで果たしてしまった。トークセッションパネラーとしてステージに上がったのだ。このフジロック顛末記はweb現代で連載中のコラム「ロックンロール世界同時革命」に書くつもりだ。今月下旬には北海道のライジングサンに行く。なんせ遅れて来た新人、まだまだ観るべきバンドがA`?たくさんあるのだ。


<聞け! ニールヤングのメッセージを!>

▲62歳の誕生日。mixiのお知らせのお陰で、みんなに知られ るようなってしまって、至る所でケーキを食べさせられた。(笑)ありがとう。

現在の私は、確かにライブハウスロフトのオーナーであることは間違いないのだが、新人ロック評論家と名乗った以上、一切のしがらみやよいしょなど無視して、自分の思ったまま見たままを書き続けている。私は、「若者の音楽である日本のロックが60歳を超えたジジイにはどう見え、その私の雄叫びが果たして今の若いロッカーやロックファンに伝わるかどうか?」に興味があるし、それを面白がっている自分もいる。だから可能な限りライブハウスに足を運び、どんなバンドでも観るし、CDもよく聴くようになった。

私のロックへのテーマは相変わらず「ロック=反権力=不良の音楽」であり続ける。すなわち「9.11後の世界に僕らはどう生きロックはどうあるべきか?」なのだ。笑うなら笑うがいい。ここまで来たら私にも意地がある。

「最近ニール・ヤングが『リビング・ウィズ・ウォー』というアルバムを発表しました。徹底的な反ブッシュ、反アメリカのアルバムです。その彼がCNNのインタビューでこんなことをコメントしています。『誰か若いアーティストがこういう曲を作ってくれると思い、ずっと待っていたけれど、誰もやらない。だから六〇年代を知っている僕がやるしかないと考えて、このアルバムを作ったんだ』と」(『QuickJapan』vol.67/太田出版/森達也x大貫妙子インタビューでの森達也氏の発言より)

私はテレビは基本的に観ない。だから自ずと時間さえあればロックを聴き本を読みあさる。
…また夜中に降り出した雨。雨の音は悪くない。やがて風の音も加わった。私はひとりぽつねんと、書斎の壁一面にぎっしり並んでいる本の背表紙を拾い読みしている。適当に手にとった本を乱読していると、こんな俳句に出会った。なんと淋しい心境なのだろう。

「石のしたしさよ しぐれけり」萩原井泉水

web現代でコラムやってます
http://web.chokugen.jp/hirano_y/


今月の米子♥

避妊手術してからちょいとブスになったな。まあ、 変な虫がつかなくって私も安心だ。






ロフト35年史戦記第19回 新宿LOFT風雲録10(1980〜85年)

<新宿LOFT2代目店長・長沢幹夫インタビュー・2>

(前号より続く)
長沢幹夫が新宿LOFTの店長をやっていた時代('79〜'83年)、バンドの数も増えてゆき、ライブハウスから椅子席がなくなりオールスタンディングになり、それまでは週末にしかライブをやらなかった「ロック居酒屋」スタイルだった新宿LOFTも、毎日ライブを行うようになってゆく。長沢は、私が持参したロフトの全スケジュールが載っている『ROCK is ROFT』('97年/LOFT BOOKS)を懐かしそうにめくりながら、もう30年近く前の事を思い出していた。

長沢「僕もライブハウスに関わって28年にもなるんですよ。すげ〜な〜、ブルース・コバーン、リビングストーン・テーラーなんか出演したんだよね。これってトムスキャビン(スマッシュの前身)と組んでやったヤツですよね」
平野「ブルース・コバーンって3日もやったんだけど、客入らなかったな。お客さん30人ぐらいで関係者一同大あわてだったよ」
長沢「リビングストーン・テーラーもひどい客入りだったですよ。この人、ジェームス・テーラーの弟なんですよね」
平野「でも、トム・ロビンソンとかピーター・ゴールウェイはメチャクチャお客さんが入った」
長沢「外タレはよくお忍びでやって来て、突然誰かのゲストでステージに立ったりしていましたよね」
平野「'70年代後半から'80年代前半の音楽家のファッションというのも面白かったね」
長沢「そうですね。フォーク系の長髪の時代が過ぎ去って、ニューウェイブ、テクノ系のサングラスと清潔で簡素なシャツ、都会的なショートカットがメジャーシーンになっていったってことなんですかね? もう、長髪とか破れたジーパンとかの汚い格好ではミュージシャンは売れないっていうすり込みがあって、みんな髪を短くしちゃって……」
平野「同時期、一方ではニューウェイブ、テクノ系とは絶対相入れない、破壊的なパンク、ハードコアの連中がいた。アナーキーの仲野茂のモヒカン刈りは衝撃だったな。茂は肝が座っていた。あれは日本で初めてのモヒカンボーカル誕生だったはずだよ。そういえば長沢は'83年に、新宿LOFT店長から下北沢ロフト店長になるんだけど、どうしてだっけ?」
長沢「もう、僕があこがれていたURCなんかのフォークの時代も終わって、ロフトにもパンクバンドがどんどん登場するようになって。悠さんは面白がっていたかも知れないけど、僕はどうしてもパンクが好きになれなかった。特にハードコアはノイズと暴力だけの世界のような気がしていた。そこにはもう僕が求めていた音楽はなかった。だから自分から言い出したんですよ」
平野「そうだったのか。じゃ、最後に当時の面白かったネタを少し披露してくれる?」
長沢「悠さんがこだわっていた森田童子のリハの時、一人の男が童子に向かって『お前の歌のせいで何人もの人が自殺しているんだ!』って怒鳴ったときはショックだったな。その時、僕は音楽って凄い力を持っているんだなって実感した」
平野「きつい話だな。もっと面白い話をしろよ(笑)」
長沢「やっぱりロフト夜の番長達は凄かった、誰とは言わないけれどさ。近所の店から植木鉢かっぱらって来させたり。新人店員とか新入りバンドの連中は、“蛍”とかいって尻の穴に火のついたタバコを差し込まれて、店内の電気消して遊ばれたり、テーブルの下の鉄の輪の中に入れられて転がされたり。そうそう、一番ヤバいと思ったのは、コインランドリーの乾燥機に店員が無理矢理入れられて、コイン入れて回し始めたらガスが出てきてさ……」
平野「それはひどいな……」
長沢「当時ロフトは怖いという噂が一人歩きしていたんですよ。」
平野「10年近く前のロフトプラスワンに女性が一人で来たら犯されるという話しと同じじゃん。そう言えば、マッチ(近藤真彦)主演で『嵐を呼ぶ男』という石原裕次郎の映画のリメイク版が作られて、マッチ達正義の連中は新宿ルイードにいて、ロフトは暴走族とか悪ガキパンクの根城になっていたよ。マッチの弟がロフトに監禁されていて、助け出すっていうシーンがあったな。TBSのテレビドラマで刑事が『なにぃ〜? ロフトでまた殺人事件が起きた〜?』とか不良な悪いイメージでしかマスコミに載らなかった。実際やばいこともたくさんあったけどな(笑)」
長沢「悠さんは僕らがそんな撮影は断りましょうって言っていても面白がってOKしてしまうんですから、イメージは悪くなる一方だったですよ。だけど、人間ってそれはやっちゃいけないっていう境界線はあるじゃないですか? ビートロックの連中はそれがわかっていた。でもハードコアの連中は破壊することが目的のようでもあり、とても僕はついて行けなかったんですよ」


<盟友・今はなき渋谷屋根裏に栄光あれ!>

8月3日、新宿LOFTの30年の歴史を網羅した『ROCK IS LOFT 1976-2006』(編集:LOFT BOOKS/発行:ぴあ)が完成した。私個人としては、「??ROCK IS LOFT」なんて何だか偉そうだよなあ、とも思う。当たり前だが、日本のロックにとって重要なライブハウスは、何もロフトだけではない。

現在では珍しくも何ともない「ライブハウス」という空間が、それぞれの街の片隅にあり、そこが新しいロックの情報発信基地として機能し始めたのは、'70年代後半にライブハウスが、新宿と渋谷という東京の盛り場の中心ともいうべき二つの街に出来ていったのが大きいのかも知れない。吉祥寺・曼陀羅、荻窪のロフト、下北沢ロフト、高円寺・JIROKICHIなどの「中央線文化圏」から、新宿、渋谷のターミナル駅にまで進出してゆく流れは、同時にロックが世間一般的な認知を得てゆく過程ともA`?密接にリンクしている。

たかがオールスタンディングで無理矢理つめこんでも200〜300人しか収容できない狭い空間だが、ライブハウスがこの10年あまりの日本のロックの歴史を作り出してきたのは誰もが否定できないと思う。'80年代、日本のロックシーンは大きく変化した。ロックそのものがメジャーな存在になったし、ライブハウスが多くの都市に点在することにより、ロックがより若者の身近になった。'80年代以降、有名無名を問わず、ライブハウスを拠点としたロッカー達が日本の音楽シーンをリードしていったのは間違いない。

'70年代後半から'80年代にかけて、新宿LOFTとともに東京のロックシーンを支えたライブハウスに渋谷屋根裏がある。ロフトと屋根裏は、無二の親友のようでもあり(実際、どちらも汚く狭い所は似ていた)、一方でライバルのごとく互いに刺激しあっていた。この二つの空間は、ストリートに棲息しているアマチュアミュージシャンに希望を与える存在だった。それぞれがそれぞれのスタンスで積極的にミュージシャンを捜し出し、育てていった。

渋谷屋根裏は、新宿LOFTがオープンした前年の'75年、渋谷センター街のすぐそばに誕生した。一階がパチンコ屋、二階がキャバレー、三階がライブハウス屋根裏で、四階が屋根裏の楽屋。多くの駆け出しミュージシャン達にとって、下階のヤクザみたいな連中の視線にさらされながら、重たい楽器を背にあの狭い階段を登るのはしんどく、いつまでも忘れられないワンシーンだったろう。

当時、出来たばかりの新宿LOFTは西荻窪、下北沢ロフト以来のニューミュージック路線を引きずっていたのに比べ、屋根裏はまさしく自由奔放なブッキングをしていた。ロフトが、過去からこだわってきた動員力のあるミュージシャン達が次々とメジャーになると同時にロフトに出演しなくなり悪戦苦闘していた一方で、屋根裏にはこれからの時代を読める優秀なスタッフが大勢いて、次々に強烈な個性を放つ新人バンドを登場させていた。屋根裏は開店当初からニューミュージック系の出演をあきらめていたきらいさえあった。だからそのスケジュールのほとんどを、マイナーシーンの、名前も動員力もない表現者が埋めていた。

屋根裏は、お客が入らなくても平気で面白いバンドに場所を提供し続ける不思議な店だった。ロフトが無名な動員力のないバンド出演に躊躇しているのを尻目に、次々と新星バンドを輩出していった。一カ月間、昼の部と夜の部合わせて60本もの驚異的なブッキング。なんと平日の昼の部のイベントまで開催していたのだ。当時のライブハウスはノルマなどはなく、お客より出演者の方が多いのも常だった。そんな中、ライブハウス屋根裏は日本最大のマイナー音楽の「実験劇場」だったのだ。多くの若いバンド達が、屋根裏のライブで腕を磨いていった。

これはロフトにとっては非常に脅威だった。私がブルーハーツや戸川純、じゃがたら、そして「ハードコア不法集会」「消毒ギグ」などスキャンダラスな存在を知ったのもこの店だった。頭脳警察、RCサクセション、ローグ、サザン・オールスターズなども、初期には屋根裏の昼の部に出演していた。渋谷屋根裏というセンター街の片隅の薄汚れたライブハウスから、日本のロックには欠かせない多くの貴重なシーンが生まれていったのだ。

ライブハウスの代名詞的存在として、日本のロック発展期をロフトと共に歩んで来た渋谷屋根裏だったが、80年代後半になると、急速にブッキングがちぐはぐになっていった。それは屋根裏の優秀なブッキングスタッフのほとんどが辞めてしまったことと、赤字経営だったこと、当時の屋根裏の社長がほとんどロックを知らなかったことに起因していると私は見ていた。だから初期のように、情熱的に頑張れなかったのだろう。'86年、渋谷屋根裏はその10年の歴史を燃焼し尽くし、惜しまれつつも閉店する。その直接の理由はやはり、ライブハウスの宿命、近隣とのトラブルだった。騒音問題と近隣商店からの苦情の嵐に、ビルのオーナーがしびれをきらしたということだった。その後、屋根裏はアンティノック系列に入り、拠点を下北沢に移すことになった(現在は下北沢屋根裏と、場所を移転し'97年に再オープンした渋谷屋根裏の2店舗が営業中)。

※お詫びと訂正
先月号で「BOOWYの東京ドーム“LAST GIGS”」が「'98年4月」との表記がありますが、「'88年4月」の誤りでした。ここにお詫びし、訂正します。

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html







ロフト席亭 平野 悠

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