ROOF TOP 2006年8月号掲載
「今……ロック・ロック・ロックが旬だ!」

<ロックはとうの昔に死んだ、はずだった>

なぜか、このところわたしゃ日本のロックにはまっている。

もう長いこと私は、ロックなんぞに興味がなかった。30数年前、日本のロックの黎明期、東京にライブハウス・ロフトをいくつも作って、ロックに情熱的にハマッた時期もあった(最盛期は6店舗も運営していた)。ただし、あのころの私は、ロックを純粋に音楽として愛していたというのではなく、「カウンターカルチャー(=対抗文化)」としてのロック(やフォーク)を面白がっていたに過ぎなかったんだと思う。

さらには20数年前、突然嵐のように現れた「パンクムーブメント」に対してもやはりハマッていった。当時のメインストリームであったニューミュージックが歌うありもしない幻想を撃ち破る、「お前ら、現実を見ろよ! そうだよ、自分の足下を見ろよ。世の中なんてクソだらけだぜ! くそったれ、FUCK YOU! 全てをぶち壊せ!」といった、反抗的精神がただただ面白かった。全共闘世代でもある私は、自分達の青年時代以来、久しぶりに目の当たりにした「若者達の反乱」で何かが変わるのではないか? って、淡い期待さえも抱いたのだった。

それからさらに20数年、日本のロックにさして注目する事はなかった。世界では戦争や環境汚染、南北格差などさまざまな問題が発生し続けた。さらには9・11同時多発テロ以降のアメリカ帝国主義一辺倒の世界情勢など、事態は悪くなる一方だった。国内に目をやれば、日本の借金が800兆円、国債や年金まで合わせると1800兆円の借金という。○兆なんて、まさか豆腐屋じゃあるまいし、もはやどんな大金か想像もつかないくらいの額だ。日本という国はもう「沈没寸前」なのだ。それでも日本の多くのロックは、そういった現実問題に不自然なくらい無関心で無力なように私には思えた。日本のロックはもうすでに、「観賞用音楽」としてしか存在しないと思い続けていた。


<牙を抜かれてしまった「健全」な日本のロック>

▲私は「Save the 下北沢」の若き女性陣に囲まれながら、下北沢の町並みを守ろうと堅く団結しているのです

今の時代、中高生が「不良」や「引きこもり」にならないために親が高いギターやアンプを買ってやったり、学校側が積極的にバンドを組ませて文化祭なんかに参加させ、学校の教育方針に刃向かわない様に生徒を指導するための手段にも使われることもあるらしい。ブラスバンド部に代わって学校公認のバンドが、卒業式に「校歌」や「君が代」を演奏するところだってあるという。もうそこには日本のロックの黎明期、ギターを抱えて街を歩くだけで「不良」扱いされた時代の面影はない。そんな話を聞くたびに、「俺たちが愛し支持したロックが権力に取り込まれてしまった」と、苦々しく思ってしまうのは私だけだろうか。

「しかし50年代に生まれたロックは、それは誕生当初から明らかに抗議の音楽だった訳であり、歌詞の内容など軽く超えて、歌声、サウンドが一体となり既成価値観に対する衝撃的なビートへと結実して行った。これは凄い。20世紀最大の事件なのである」。

9・11直後、評論家の萩原健太さんがある雑誌でこう書いているのを読んだ。確かに約50年前の誕生から今日に至るまで、ロックはビジネスとしての側面を持ち合わせていたのも事実だ。ロックの持つ「不良性」は、それそのものが商売のためのキャッチコピーでもある。だが根底のところではそこに回収しきれない、社会に対する反骨精神的な何かがあるのもまた、ロックのロックたる所以だろう。にもかかわらず、そんなロックの歴史的意味などもうどこかにすっ飛んで行ってしまっているのが現状だった。


<新人ロック評論家・平野悠(笑)>

▲新宿南口の舗道になぜかおいらの写真が張り出してあった。これでおいらも新宿 癡名誉区民だ……って、そんなのいらんよ。新宿浄化作戦反対。風俗を残せ。裏ビデオ屋をなくすな!

今、わたしゃ、日本のロックを懸命に聴きライブにも足繁く通っている。そのきっかけは、昨年の夏の野外フェス、フジロックでのサンボマスター、ライジングサンでの銀杏BOYZのライブだった。

別に彼らが新しいサウンドスタイルをロックの世界に持ち込んで登場した訳ではない。そして彼らのステージに華麗さはない。ロックスターというよりも、みんな隣の八百屋のお兄ちゃんみたいな出で立ちなのだ(失礼!)。しかし彼らは、私の中で長く眠っていたロックへの情熱を再び呼び起こしてくれたのだった。

説教と絶叫。怒鳴り散らすパワフルなラブソング。長い間そんなことを大声で唄うのなんて格好悪いし恥ずかしいと言われ、多くのメジャーバンドが避けてきたテーマ。「絶望と愛」、「戦争と平和」。「エロとやらせろ! みんな、これでいいのかよ〜」と歌い上げる。イラク問題を、アメリカの横暴を、地球環境の重要性をMCで熱く語る。「ウェ〜、こんなバンドが出てきたか?」と私はビックリし、これが色々なバンドに関心を持つきっかけになった。彼らは戦争からセックスまでストレートにオーディエンスに語りかけ、コミュニケーションをとろうと試みている。

「これって、今までにないシーンだ」と私は感じた。しかし60歳を過ぎ、長らくロックなんぞほとんど見向きもしなかったオヤジとしては、これだけで「新しいウェーブが?爐来ている」と断言する自信はなかった。しかしまだまだ沢山いたのだ。怒髪天、向井秀徳、曽我部恵一、フラワーカンパニーズ……。今、確実に若者の支持を集めつつあるこのシーンが、どこへゆこうとしているのか。彼らのメッセージがどのような形で結実するのか。私は今、一つの目的を持って、日本のロックの流れを見つめているような気がする。そして私はできる限り、彼らの立ち位置を支え、見守ってゆこうと思っている。

梅雨空とあじさいの季節が終わり、初夏の陽光に大輪のひまわりが輝きだした。昨日も今日もアルコールなしだった。そして昨日も今日も一人だった。空の青い隙間を見つけ、ベランダに椅子を出して本を読んだ。明日は新宿LOFTに行って、絶叫バンドの対極にある、けだるい「らぞく」の、「じゃんけんぽん」を聴きにゆこうと思った。


今月の米子♥

米子はアメショー、手前の猫はスコテッシュ・ホールド。二匹とも血統症つきなのである。スコッテッシュは私の還暦祝い、米子は家出記念(笑)に買った






ロフト35年史戦記第18回 新宿LOFT風雲録10(1980年〜)

<風の便りに聞いていた新宿LOFT黄金時代>

「新宿ロフトと言えば、ロックファンやロッカーを目指す者にとって、絶対的なステイタスを持つライブハウスであるのは間違いない。常にストリートの発信の場であり続けるロフトの歴史は、そのまま日本のロックの歴史と言って過言ではない」(『STREET ROCK FILE』'98年2月号・宝島社)

こんなヨイショ記事を引っ張り出してきてみっともないのだが、この頃の新宿LOFTは、史上稀に見る黄金時代を迎えていたようだ。

ARBの後楽園ホールでの熱き死闘。インディーズブーム、そして「イカ天」とバンドブーム。ブルーハーツ、カステラ、スピッツの台頭。それらは全て、私にとっては海の向こうの遠い国の噂話に過ぎなかった。嘘か真か、「ロフトに出演しなければロッカーにあらず」といった伝説がまかり通っていた時代、私は、東京の喧噪から離れ、遠いカリブの海から日本人が金まみれのバブルに酔いしれてゆく有様を他人事のように眺めていた。5年にも及ぶ世界放浪の旅を終え、カリブ海の最後の楽園・ドミニカ共和国で市民権を取り、日本食レストランを開業。「俺はこの地で朽ち果てよう」と決意し、南国特有の激しく刺激的なメレンゲのリズムと、貧しいけれど濃密な、日本ではすでに失 癡われてしまっていた地域共同体の中に身をゆだねていた頃だ。

'98年といえばその年の4月、日本でロックを大衆化させ、メインストリームに最も影響を与えたロックバンド、BOφWYが東京ドームで“LAST GIGS”を開催した年だった。そんな噂を聞くに及んで私は、「そうか? 確か新人バンド・BOφWYが初めて俺の前に現れたのは'81〜'82年だったか。私が世界放浪の旅に出る直前、ロフトで最後に仕掛けた若き不良バンドだったが、そのバンドが天下を取ったか? 凄いな」って思うことしきりであった。


<新宿LOFT2代目店長・長沢幹夫>

6月18日土曜日、初夏の日差しが照りつける中、私は自宅から下北沢の街に向けて自転車を走らせた。長沢幹夫氏(48歳)にインタビューするためである。彼は新宿LOFTの2代目店長であり、現在は下北沢ロフトの店長をやっている。85年、私は世界放浪の旅に出るにあたって、新宿LOFTだけを残して他の店は全て当時の店長に暖簾分けし、ロフトの看板ごと経営権を譲った(つまり名前はそのままで、各店舗の経営はロフトグループから独立した)。彼もそういった経緯で、下北沢ロフトを自らの手で取り仕切るようになったのだった。

「すみません。もう後1時間ほどで今夜のライブの準備をしなければならないんで……」と言いながら、長沢は約束の喫茶店に現れた。

平野「長沢も面白い人生やってるな。ライブハウスのオーナーなのに、日本フライフィッシング界のトップでもある。いったいどっちが本業なんだ?(笑)」
長沢「そもそも僕が釣りの世界にハマッたのは、もう25年近く前、悠さんと誰かのレコーディングに伊豆のスタジオについて行って、レコーディングなんかほったらかしにして釣りに行ってからなんですよ」
平野「長沢はフライフィッシングの世界では有名になって、今や上州屋の講師までやってるし、ビデオまで出している。お前、確かフォークシンガーになるために、福島の山奥から出てきたんじゃなかったっけ?」
長沢「いや〜今じゃ、自分がステージで唄うのはほとんどあきらめましたよ。代わりにフライフィッシングがあるけど、とてもそれだけでは食べていけないんですよ」
平野「そもそも長沢がロフトに入ったきっかけって何だったの?」
長沢「新宿LOFTのオープニングセレモニーのラインナップを見てぶっ飛んで、家出少年の様に福島から上京したんです。フォークシンガーになりたかったんで、どうせ働くんなら音楽のそばがいいって思って、できたばかりの新宿LOFTにアルバイトで入ったんですよ。その頃は、新宿LOFTでも結構URC系のフォークをやっていたんですよね」
平野「そうか。長沢も夢見る音楽少年だったんだ」
長沢「当時の新宿LOFTって酷かったんですよ。時給350円ぐらいで、見習い期間中は飯だけしか出なかった。でも俺、ライブ観たくって毎日行ってましたよ。飯と酒はタダで出してくれてましたね」


<ナンパ、ケンカ、タダ呑み──深夜の新宿ロフト狂騒の日々>

平野「アルバイトから始めた長沢が4年たって店長になったのは'80年代前半か。その頃ってどんな音楽シーンだったの?」
長沢「ARB、ルースターズ、アナーキーなんかが活発な頃で、ミュージシャンと店のスタッフ、お客さんの距離がめちゃ近かった時代ですね。打ち上げなんかお客さんと一緒にやっていましたね。あの頃、どんなにお客の入りが悪かろうと、店側は出演者に“ブラック50”っていうウィスキーのボトルを一本プレゼントして、『君たちお金ないだろうからこれで打ち上げしていけば』って。みんなタダで呑めるもんだから、その一本のウィスキーのボトルをめがけて、他3鐵のライブハウスで演奏が終わった連中まで飲みにやって来たり」
平野「それでみんなで盛り上がって、一大宴会になって深夜のセッションなんかが始まったりね。もちろんケンカやナンパもあった?」
長沢「そうですね。だからライブが終わってすぐ、女の子のお客さんがほとんど帰っちゃったりすると、バンドマン達は寂しそうな顔してたなあ(笑)。一番の思い出は、閉店真際の午前4時頃、(石橋)凌さんから電話がかかって来て、『今から行くから店あけろ、セッ 癡ションやるからPAをたたき起こせ』って言うんですよ。それで凌、キース、桑田(佳祐)、鮎川(誠)、泉谷(しげる)さん達がやって来て、セッションが始まって。簡単なコードの打ち合わせだけで、あとは酒飲みながら延々ブルース。凄いですよね。今のミュージシャンって突然のセッションなんかできないですよ。そんなのが毎日のようにあった」
平野「ロフトのスタッフってみんな出演ミュージシャンをリスペクトしているから、彼らのどんな要求も聞くしかなかったんじゃない?」
長沢「店員なんかまるで奴隷ですよ(笑)。とにかく金持っていないで飲むヤツはいるし、『腹減った、何か作れ』って言われれば作るしかない。ツケ伝票がたくさんあって、とても請求できないんだけど、事務所にバレると困るので隠したり。ボトルの期限切れの古いのを飲ませたりしていましたけどね。でもさぁ悠さん、あのツケ伝、ロフトでタダ飲みした連中に送りつけてやりましょうよ。今は偉くなって稼いでいるヤツもたくさんいるんだから……(笑)」
平野「そうか、どうりであの時代、会社が儲かってたという実感がなかったわけだ(笑)。当時って、ライブハウスのギャラがロフトに出ているような連中の収入のほとんど全てだったんだよ。だからチャージバックの交渉は双方真剣だったな。事務所の家賃が払えなくなると『ロフトに出るか?』っていう感じで、バック率80〜90%の攻防戦は凄かったんだよ。今みたいに『ウチのシステムはこうですから……』なんて説明したってみんな納得しなかった(笑)。まだ80年代前半は動員があるバンドは多くはなかったよな」
長沢「いや〜、ロフトの黄金時代っていうけど、ライブでのお客はそれほどでもなかったですよ。僕はライブが終わってからの居酒屋の店長という意識が強かった。一番の役目は喧嘩の仲裁。キースが怒ると始末に負えなかったし、土方上がりだった池畑(潤二)さんがキレると、店内が一気に緊張した。(仲野)茂はとにかくどんな奴にも喧嘩をふっかけて、そのあとなぜかニコニコ一緒に酒を飲んでいたなあ」


<BOφWYの不良っぷりはずば抜けていた>

長沢「打ち上げといえば、一番凄かったのはやっぱり当時のBOφWYのマネージャーだった土屋(浩)さんかな? BOφWYにやっと客が入り始めた頃、ビーイングに切られて事務所は全くお金がない。打ち上げに残るお客さんから2000円ぐらいの会費をとって、店には『おい、一人1000円の会費で頼む。後は事務所の家賃の支払いだ〜』なんて。もちろん、ライブのギャラちゃんと貰った上でそれですからね」
平野「長沢店長と氷室(京介)の乱闘未遂事件ってのもあったよな」
長沢「悠さんがBOφWYを連れて来て、このバンド動員力ゼロだけどウチで面倒見ることになったからって。新人バンドDAYにやっと突っ込んだんだけれど、リハーサルの順番待ちの最中に突然氷室が、『おっせ〜な、おい! 俺たちはいつやれるんだよ!』って凄い剣幕で僕に突っかかってくるんですよ。そんな新人バンド初めてですよ。で、『なんだお前は!』って殴り合いになりそうなって。そしたらそこに高橋まことさんが偶然現れて、「あれ〜幹夫じゃん」って。まことさんと僕の兄貴が元々友達だったんですよ」
平野「その頃はまだビーイングに切られる前で、俺は長戸大幸社長に言ったね。『頼むよ、店長に喧嘩ふっかけるバンドなんか前代未聞だよ。これ以上やったらBOφWYの面倒は見ないからね』って」
長沢「僕も悠さんに『あんな不良バンド、僕に押しつけないでくださいよっ』て。それが大ブレイクしてしまったんですよねえ」
(以下次号に続く)

『ROCK is LOFT』
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新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


「ロフト紳士淑女録 Who are you? 〜SHINJUKU LOFT 30TH ANIVERSARY LIVEより〜」

ロフト紳士淑女録 Who are you?

(写真左から)曽我部恵一 / BOWWOW(撮影:鈴木公平) / イノウエアツシ(ニューロティカ)(撮影:オオワタリヨウコ) / 山下久美子(撮影:鈴木公平) / 遠藤賢司

ロフト席亭 平野 悠

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