<梅雨の合間の星空に、めくるめくパッカー時代を思い出した>
季節の変わり目の6月、雨上がりの深夜。私は東京郊外にある自宅3階のベランダに椅子を出し、遠い夜空を眺めている。小さな流れ星を見ながら、もう25年も前のバックパッカー時代最後の旅、サハラ砂漠の満天の星空を思い出していた。
毎晩シュラフを砂漠の中に埋め、首だけ出して、マラリアにかかった弱った身体を休めた。ただ何も考えず、真っ暗な闇の中に身をさらけ出して空だけを眺め、深淵な宇宙を眺め、「俺ってここで人知れず死ぬのかな?」なんて思い、人間っていかにちっぽけな存在なのかを感じ入っていた。何とも言えず神秘的で幻想的な気持ちになり、神の存在を感じる瞬間でもあった(こんな体験は、都会生活ではまず無理だ)。
この夜、私の脳裏には、バックパッカーの旅の中で体験した世界各地での出来事が、めくるめく走馬燈のように思い浮かんでは消えていった。そんな思考に陥ったのも、昼、会社で偶然見かけた「地球一周の船旅」というピースボートのパンフレットが影響していたのだろう。
<世界には訪ねてみたい場所がまだまだある>
私には、世界中を回るバックパッカーの旅にはまっていた時期が、10年ほどあった。しかし、約100カ国以上、いくら世界中を旅したとはいえ、私が行きそびれた国や地域はまだたくさんあった(当時は米ソの冷戦下だったので、足を踏み入れられない国や地域も多かったのだ)。だが60歳を越え、今さら背負子(しょいこ)をかついで若い連中に混じって陸路国境を越え、自分の身体を心配し、至るところで盗難やボッタクリに遭い、今夜泊まる場所を心配するバックパッカーの貧乏旅行など、すでに無理だろうということは充分過ぎるほどわかっていた。
そんな今の私にとって、船で世界を回り、寄港地からオプショナルツアーで行きたい場所に行けるというのは、ものすごく魅力的なことだった(目をつぶっていても行きたいところに連れて行ってくれるのだ……なんと安易な……昔だったらこんなツアーなんて断固拒否していただろうが……)。
書斎に戻り、むさぼるようにパンフレットのページをめくった。
今度のピースボートの船旅は、103日間。アジア〜中東〜(スエズ運河)〜ヨーロッパ〜東アフリカ〜カリブ諸国〜ベネズエラ〜(パナマ運河)〜オセアニアと回り、横浜に帰ってくる。
特に私の目にとまったのは、「ギアナ高地への旅6日間」というオプショナルツアーだった。ここだけは死ぬまで一回は行ってみたい、あこがれの夢のような世界遺産の地だった。「もう一度、あのUFOと遭遇できるかもしれない」と夢はふくらんだ(この時代私は何度もUFOと出会っているのだ)。ベネズエラから船を離脱して(その間船は移動している)ギアナ高地があるカナイマ国立公園に行き、パナマで再び船に合流するツアーコースだ。
<翌日、「最後の旅」に出発する決断をした>
次の日、私はピースボート事務局に電話を入れた。
「今週中に予約金を振り込めば、178万円が150万円に割引されます」と言われ、あわてて150万円を振り込んだ。老後の資金に貯めておいた預金を引き下ろしてしまった(笑)。
なんだかんだやはり欲張りな私は、いろいろなオプショナルツアーも併せて申し込んだ。マチュピチュ、イースター島、ナスカ文明の地……。そうすると結局、追加で100万円近くの支払いが必要になった。ちょっと高すぎないかと思ったが、しかしそんなことは言ってられない。全て自分で段取りが必要な貧乏旅行をする力は、もはや私には残っていないのだから。そんなことを友達の作家・森達也さんに話したら、彼は船上でトークショーをやったりする、いわゆる「水先案内人」として、何日か乗り込む予定だと聞いた。これは嬉しいことだった。
わずか2日ほどで、103日間の船旅に出ることを決断した。こういうものは勢いが肝心で、あれこれ考えると結局実行できなくなるのが常だ。それに、60歳を超えてからの私には、「もういつおっ死んでもおかしくない年になった。自由に動けるのは今しかない!」という強迫観念が常にあるのだ。
ピースボートはアジアをはじめとする各地の人々と現地での交流を行うことで国際交流と理解を図るという趣旨により、青少年を運営主体として長期の船旅を企画・運営しているが、実際には対価が発生することから株式会社の「ジャパングレイス」という会社が旅行業者として企画・実施している。
この企画の発端は、日本のアジア侵略を「進出」と書き換え、被害国の人々が抗議した「教科書問題」である(誤報に端を発して国際問題となった。報じられた教科書とは別に「進出」との書き換え意見があったことも判明した)。世界中の市民と交流するに当たって、平和・民主主義・人権から地球環境問題など、具体的には、地域紛争やHIV問題など、地球上が抱える重大な問題をテーマに扱ってきた、政治的意図を持つ船旅企画である。
敢えて何らかの政治的・外交的問題を意識して渡航先の多くを選ぶこと、明確に反米・反体制的な立場を打ち出していることなどから、その行動や成果には強い賛同と激しい否定の両方がある。主催者の辻元清美が政治家として世間に露出するようになってからは、さらに非難が目立つようになった。
(Wikipedia「ピースボート」より抜粋)
第63回ピースボート世界一周のクルーズは、8月末に出発する。乗員定員は800人だという。インターネットで検索すると、左翼の船だとか、金儲け主義だとか、ピンクボート(結構じゃないか・笑)だとか、散々ネット右翼の攻撃にさらされている。わたしゃ反米主義者ではないけれど、別に左翼洗脳船だとは思わないな(それでもいいけど)。女性が6割以上乗っているっていうのは楽しそうだな。100日以上同じ船上で生活をすれば、きっと何かドラマがあるに決まっている。
デモや反戦運動などで、ピースボート系の連中の知り合いは多い。本当は、私が乗ることを事務局に知られたくないのだが……。まっ、いいか? まさか「平野さんは絶対何か問題を起こすから、乗らないでくれ」って言われたりはしないだろう(なんせ200万以上のお金を振り込んだんだからな・笑)。
船に乗ったら、この連載でもちゃんと定期的にレポートするよ。
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ギアナ高地・テーブルマウンテンにあるエンジェルフォール。世界最大の落差の大瀑布だ。いかにもUFOが現れそうな幻想的な光景じゃないか。 写真提供:片岡恭子
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今月の米子
猫って言う動物は1日のほとんどは寝て過ごす。
コアラは1日20時間以上眠るそうだが、米子も負けてはいない。
この写真は私の息子(20歳)が撮った。
やはり良いカメラにはかなわない。
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サハラ砂漠に日が落ちる。360 °砂平線だ。もうすぐキラキラ星の世界だ。無数の人工衛星の光が空を通り過ぎて行く。
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50°近い灼熱地獄の中トラック小隊は数台がお互い砂にはまったとき助け合って進む。休憩避難場所はトラックの陰に逃げ込むしかない。昔はラクダだったのだろう。私たち旅人はこのトラックに交渉して乗せてもらい(勿論有料)道なき砂漠を縦断する。
(85 年、11月撮影)
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ロフト35年史戦記 ロフトプラスワン編ーその6
特集「ロフトプラスワン・今は亡き伝説の一日店長たち」
第2回/孤高の服役囚 奥崎謙三
「ゆきゆきて神軍」から「神様の愛い奴」まで
<プロローグ>
ロフト35年史戦記はあの奥崎謙三先生を特集する。
1997年。映画『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三が13年と8ヶ月の服役を終えて出所した。自称「神軍平等兵」は何を語り、何を訴え、何をしたのか? 運命の糸(=因果鉄道 (c)根本敬)にあやつられ、特殊漫画家・根本敬の「幻の名盤解放同盟」、大宮イチ、藤原章、へーやん、そしてLOTFT/PLUS ONEは、奥崎謙三独特の個性というかパワーに翻弄され、「勝敗なき勝負」を戦い続けることになる。
果たして今は亡き怪物・奥崎謙三を文章に書ききれるのかどうか、私にははなはだ自信がない。
<出会い>
史上初の「トークライブハウス」が新宿・富久町にオープンしてまだ1年も過ぎていない春だったと思う。勿論、ロフトプラスワンは開店以来ず〜っと赤字が続いていたし、ロフトグループのやっかいものでもあった。そんなある日、一人の若い男が私に企画書を持ってきた。物静かなちょっと暗い感じの青年は重松修と名乗った。
「あの〜、奥崎謙三さんが来年府中刑務所から13年の刑期を終えて出所するんです。僕は今奥崎さんの身元引受人をやっている重松修と言います。」
「僕もあの映画『ゆきゆきて神軍』(原一男監督作品)は見ました。空前の単館大ヒットをとばした凄い作品でしたよね。僕もあの映画を見てショックを受けました。学生時代には奥崎さんの著作『ヤマザキ、天皇を撃て!』を買って読んだこともあります。まさに妖怪・奥崎謙三でしたね」
「それで今僕の手元には奥崎謙三さんの未公開フイルムがあるんです。本人がニューギニアで8ミリカメラを回して撮影した作品なんですけど、これを見たがっている人は多いと思って、できたらここで上映出来ないだろうかと思って・・・」
「そう、奥崎さん来年出所するんだ? できたら奥崎さんが出所するまで、何とか奥崎イベントを続けたいね。出所しても必ずまた何かやりそうな人だから、チェックはしておきたいですね。それで出所したときここで出所記念トークをやれれば最高だね。世間の話題を独占できる。そうか? 奥崎さんの身元引受人ってもっと年配の人がやっていると思っていたけど、君みたいな若者なんだ」
「はい、奥崎さんてわがままで誰とでもケンカしてしまう人なんです。もう僕しか身元引受人をやる人がいなくなっちゃって・・・」
<ゆきゆきて神軍・奥崎謙三の出所>
96年5月4日、奥崎謙三身元引受人・重松修が一日店長のイベントは開かれた。来客数13名。客の中にあの独立夜間学校「ライターズ・デン」主宰・藤井良樹氏もいた。初公開という8ミリ映像は無声でなんのテンションもなく、奥崎夫婦のただのニューギニア観光映像でしかなかった。約2時間、主催の重松修はただ黙々とほとんど面白くない映像を流し続けた。放映1時間もするとお客の大半は帰ってしまっていた。私はかなり怒っていた。フイルムはつまらないし、解説は全くないし、お客は少ない。そのお客も途中ぞろぞろ帰ってゆく。イベントが終わって私と重松君と藤井良樹と酒を飲んだ。もうイベントはやらないと言う私に、藤井氏が、次回は自分が司会をやる、だから何とか奥崎さん出所まで続けられないものだろうか? と助け船を出し、彼が協力するという条件で私は定期開催を約束した。
そしていよいよ奥崎謙三の出所日である1997年8月19日。「熱烈歓迎! ゆきゆきて神軍・神軍平等兵・奥崎謙三出所記念トーク」の開催が決定した。昼間に杉並公会堂で『ゆきゆきて神軍』を上映し、夜にロフトプラスワンで凱旋トークを行う予定だ。しかし、またここで前代未聞な珍事が起きた。なんと奥崎さんは(支援者も含め)自らの出所日を間違えていたのだ。8月19日は刑期満了日で、出所日(つまり娑婆に出れる日)は翌日だったのだ。もうこれには苦笑する以外なかった。
あの20年間刑務所に入っいた元赤軍派議長・塩見孝也が「経験者から言わせて貰えば、13年も刑務所に入っていて出所日当日にイベントなんかできるはずがない。出所日なんていうのはもう、精神的にパニックになるはずだ。第一、権力側は、出所日に記念トークをやるなんて権力をなめてんのか、こら!って思うし、イベント時刻に合わせて釈放するはずがない」と言っていたのが印象的だった。
一度は流れた「奥崎謙三出所記念トーク」は、8月23日の昼の部に緊急決定し、告知もほとんどされないまま、イベント開催日を迎えた。こうして因果鉄道はロフトプラスワンに停車し、私は奥崎謙三と乗り合わせた乗客の一人となって行き先不明の旅に出発した。
<イベントレポート・奥崎謙三出所記念トーク>
文:加藤梅造
1996年8月23日、昼過ぎ頃。靖国通りに面したロフトプラスワンの入口には数名の関係者が奥崎謙三の到着を待ちかまえていた。真夏の新宿はアスファルトが焼ける程の暑さでどの人も数分おきに汗を拭っている。あるいは暑さのせいだけでなく、これから起こるであろう出来事に対する緊張の汗も入り交じっていただろう。狭い店内は既に満員だった。急遽イベント開催を決定したためほとんど宣伝ができてなかったが、口コミだけで多くのお客さんが集まってきた。報道陣も多く、中には突破者・宮崎学、一水会・鈴木邦男、見沢知廉など只者ではない顔ぶれもあった。
しかし、開演時間になっても奥崎謙三は現れなかった。まだ近くのホテルにいるという連絡が入り、ロフト席亭・平野悠がステージにあがって奥崎氏が遅れることを観客に告げた。
この日集まったほとんどの人にとって生で奥崎謙三を見るのははじめてのことだが、大きな期待と同じぐらい大きな不安も混在していたはずだ。それまで奥崎のイメージといえば映画『ゆきゆきて神軍』の姿があまりにも強烈だった。映画で知る奥崎は、「なぜここを撮影しない!」と原一男監督を怒鳴りとばしたり、かつての上官に戦争責任を追及して突然殴りかかったり、しまいには自分が元上官を殺す場面を原監督に撮影しろと言って、監督がそれを断ると一人で上官の家に行って上官の息子に発砲し、ついには獄中に送られた人物だ。スクリーンで見るだけならいいが、現実には関わりたくないと思うのが普通だろう。しかし、その現実の奥崎謙三が間もなくここにやってくる。果たして無事に終わるのだろうか?と不安に思っても不思議はない。もちろん僕もそう思っていた。
奥崎不在のままイベントは始まった。司会の平野の他、身元引受人の重松修とその妻である大崎ヒヨコ、出所後奥崎の運転手を務めていた大宮イチがステージに上がり、3日前に府中刑務所から出所した奥崎の様子を話した。それによると、奥崎は刑務所の前でマスコミを相手にひとしきり演説とパフォーマンスを行った。第一声は「マスコミの皆さんありがとうございます。神軍平等兵、奥崎謙三ただ今凱旋いたしました!」だったそうだ。その後は、ホテルの自室で支援者を相手に一睡もすることなく話し続けているという。
<神様演出の演技をご覧下さい>
「奥崎さんが到着した!」
入口通路の誰かが叫んだ。弛緩した会場が突如ざわつき緊張が走った。根本敬、藤井良樹らに付き添われ、真っ白な軍服を着た奥崎謙三が入口に立った。
「みなさんありがとうございます。奥崎謙三です」
僕の曖昧な記憶では、この時それほど拍手は起こらなかったと思う。いや、みな拍手をするのを忘れていたと言ってもいい。奥崎は入口付近の椅子に座り込み、水が飲みたいと言った。胸には亡き妻の骨壺を抱えている。かなり疲労している様子だったが、ただならぬオーラを放っていることは確かだ。やがて、藤井、重松と共にようやくステージに登壇すると、隣にいた重松をいきなり怒り出した。机をドンドンと叩きながら「だからあなたはダメなんだ!」と怒鳴り続ける。観客は奥崎が何を怒っているのかさっぱり分からないがとりあえず様子を見守った。すると今度は目の前のお客さんに向かって話しだした。
「最高の演技だと思いませんか。だめだと思ったら、だめだと言ったらいいんだよ。なにも、付き合いなんて必要ないんだよ。思ったらはっきり言えばいいんだ! ものごとはっきりしないやつは俺は嫌いなんだ。どうですか? この演技は」
唐突に奥崎から質問されたお客さんもさぞかし驚いたことだろう。それでも一人のお客さんが「素晴らしいと思います」と答えたのはさすがだった。
「思います? おべんちゃら言ってもだめですよ。私、芝居しているんじゃないですよ。違うんだから。カメラ意識してやってるんじゃないですよ。神様演出の演技をご覧下さい。これ、金もらいたくてやってるんじゃない。とにかく、誰が何と言おうと、これは最高の映画です。世界中の者がどうぬかそうとね、俺はこれがナンバーワンなんだ」
彼は、これは最高の演技と言いながら、芝居しているんじゃないとも言う。矛盾しているようにも思えるが、これが奥崎を理解するためのキーワードの一つ「神様の演出」だ。どれだけ怒鳴ったり激高しようとも、奥崎の中には常に自分をカメラで撮っているもう一人の奥崎がいる。自分の行動はすべて神様の演出であり、神様監督の映画なのだ。
ステージ上の奥崎は喋りっぱなしだった。奥崎が目指す世界・万人を一様に生かす「ゴッド・ワールド」について、また自身が服役中に編み出した血液をサラサラにするための秘法「血栓溶解法」について、にわかには理解できない話を一方的に喋り続ける。かといって周りを見ていないわけではなく、客席が退屈な様子になると、突然お客さんに向かって「ありがとうございます。私お金あったらみなさんに百万づつでも差し上げるのに、お金がないんです。だから聞きたくない方はお帰り下さい。帰りたけりゃ、みな帰れ。帰れ、帰れ、帰れ、帰れ、気に入らんやつは!」と怒鳴りつける。お客さんも全く気を抜けない。
そしてイベント終盤。残り時間を気にしだした奥崎は、夜の部まで延長してできないのかと言い出した。壇上の藤井が「それは難しい」とやんわり制すると、今度は目の前にいたプラスワン店長の脇田に向かって「絶対不可能なんですか?」と詰め寄った。「別のイベントがあるのでだめです」と答えた脇田に、「私が世界中のお金を差し上げてもだめなんですか?」と食い下がった。困ったように首を傾げた脇田に対し間髪入れず奥崎は「だめだったら、首を傾げずにもっとはっきりおっしゃったらいいんです。そういう態度がいやだと言うんです」と激高。「私も早く帰りたい。何も銭ももらえず、一文にもならないのに、こんなもん・・・・」
そして突然、奥崎謙三はステージ上で崩れ落ちた。他の出演者が急いで机をどけ、座布団を敷いた。奥崎は倒れたまま血栓溶解法を始めた。みんなで奥崎を担ぎ、とりあえず店外に運び出した。顔面蒼白状態で横たわった奥崎は「こんな暑い所に…独房の方がもっと涼しい…」と力なくつぶやいた。一向に様態のよくならない奥崎を5階の事務所に運ぶことにした。出所記念トークイベントはこれで終了となったが、しかし今思えば、これはその後に続く長いストーリーの序章に過ぎなかったのだ。
店の外はいつのまにか激しい雷雨となっていた。これも神様の演出であったのだろうか。(続く)
(文中敬称略)
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奥崎謙三
元日本軍兵士(独立工兵第36連隊所属、階級は上等兵)、バッテリー商、著述家、自称・神軍平等兵、自称・非国民、反天皇活動家、アナーキスト。天皇パチンコ事件、天皇ポルノビラ事件といった過激な反天皇活動や、映画『ゆきゆきて、神軍』などで知られる。
●年表
1921年 2月1日兵庫県明石市に生まれる。
1943年 1月末独立工兵36連隊に転属。
1946年 復員船中で、復員者3000人分の食料を横領しようとした船長の腹部を刺す。
1947年 石地シズミと結婚。
1951年 神戸市でバッテリー商(サン電池工業所)を開業。
1956年 不動産業者・延原一男を殺害。(懲役10年の判決「傷害致死」)。大阪刑務所第2区へ下獄。
1969年 皇居新宮殿の新年一般 参賀にて、天皇裕仁に手製のパチンコで4発のパチンコ玉を発射。(懲役1年6ヶ月の判決「暴行罪」)。
1976年 銀座松屋・渋谷西武・新宿丸井の屋上から、天皇一家のポルノ写真(ポルノ写真に天皇一家の顔をコラージュしたもの)を印刷した「宇宙人の聖書!?」の宣伝ビラを約4000枚ばらまく。全国指名手配。独立工兵36連隊の生き残りである元軍曹宅を訪問した直後にパトカーに発見され逮捕。懲役1年2ヶ月の判決。
1981年 サン出版より「田中角栄を殺すために記す」を刊行。田中角栄に対する殺人予備罪で書類送検。「不起訴」
1982年 「ゆきゆきて、神軍」(疾走プロダクション、監督・原一男)クランクイン。
1983年 12月、元中隊長・村本政夫宅で発砲、長男を負傷させる。神戸市兵庫暑に出頭。広島拘置所に収監される。
1986年 妻・シズミ死去。
1987年 懲役12年の判決「殺人未遂、銃刀法違反、火薬類取締法違反」。
1988年 熊本刑務所に入所。
1997年 8月20日満期出所。「神様の愛い奴」撮影開始。
8月23日新宿ロフトプラスワンにて出所記念トークイベント。
1998年 7月「神様の愛い奴」ロフトプラスワンで上映。
2005年 入院していた神戸市内の病院で死去。享年85歳。
『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html
ロフト席亭 平野 悠
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