http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/ おじさんの部屋

第129回 ROOF TOP 2008年12月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間の船旅に挑戦」

第3回 マラッカ海峡〜インド〜アフリカ〜紅海
ロフト席亭 平野 悠

9月27日(土)/晴れ/航海21日目
<インドの最革新州で反核集会が開かれる>

マラッカ海峡を過ぎてインド洋に入った。多くの巨大タンカーとすれ違う。明後日はいよいよコーチンに接岸する。インドに入るのは4回目、22年ぶりだ。勿論船での入国は初めてだ。旅人だった頃、私はいつもカルカッタから空路入国して北の方ばかり目指していて、ほとんど南の方は足を踏み入れたことがない。 インドに陸路で入国するのは当時は相当困難だった。
インド人は嫌いだけどインドは好きだというのが昔のパッカーの常套句で、当時インド人は評判は良くなかった。しつこい外人相手の物売り、路上に生まれ路上で死んでゆく最下層の人たち。リキ車マン。赤を中心とした原色。熱い乾いた大地。失業者の群れ。インドは広い。 まさにガンジス川を中心とした悠久の大地だ。
コーチンがインドのケララ州だと初めて知った。もう40年以上も前だったか、ケララ州はインド共産党が政権をもっていて、いつも中央政府に反抗している州だとは聞いていた。現在も共産党が与党だ。核保有国・インドの最も革新的な州で、ピースボートの被爆者とインド反核団体との2000人規模の集会が開催予定だとか。これは参加せねばと思う。


9月28日(日)/晴れ/航海22日目
<Sさんの大成功自主企画とYさんとの別れ>

Yさんは明日コーチンで下船する。なんとか別れの言葉をかけたくって船内を探すと、最上階の展望デッキで一人海を眺めていた。しかし、やはり言葉をかけづらい。
「Yさん、今夜Sさんの自主企画があるんだ。それに同室者として出席して盛り上げてから、波平(キャビン酒場)でお別れの乾杯しようよ」と言うのが精一杯だった。 「Sさんのデビューは今夜でしたか? 僕の最後の日に……間に合って良かった。いいです。参加します」と、遠くを見つめながらぽつんと言った。
船がシンガポールを出発した頃だったと思う。我らがスーパースター、田舎者のSさんが張り切って、「平野さん、ちょっと相談があるだがや」といつになく私にすり寄って来て、「おら、自分で自主企画やろうと思うべや」と突如切り出したのだ。
なんでも「古民家保存協会」の会員でもあるSさんが、故郷紹介も含めて「船上の都会の人たちに古民家と田舎暮らしを紹介したい」という事なのだ。
私は張り切っているSさんに恥をかかすわけにはいかないと思い、一緒に講演会のレジュメを作り、宣伝の為に船内を走り回る事になったのだった。
午後6時、私たちが集めたサクラ組を含めて、フリースペースにはなんだかんだで40人近くが集まった。集客は大成功だった。若い子の参加者は「田舎に住んでみたい」と言い、定年退職組は「残された人生、百姓をやりたい。古民家を買いたい」と感想を述べた。Sさんの木訥な福島弁はウケていたし、その人柄に好感を持つ人がたくさんいたようだった。約1時間が瞬く間に過ぎた。Sさんは相当緊張していたらしく、終了後そのまま部屋でぐったりしてしまった。
夜10時、私とYさん二人は、キャビン前方の居酒屋波平にいた。横浜を出てから22日目、Yさんは我々同室者以外、他の乗船者とはほとんど口をきいていなかった。だから本当に寂しい送別会になった。Yさんはほとんど酒を飲まない。ビール一杯で真っ赤になった。
「この船旅、まだまだ先は長いですね」と珍しくYさんが口火を切った。「スエズ運河とパナマ運河、通ってみたかったな〜」とYさんは遠くを見ながら吐き出すように悔しそうに言った。
「事の次第はわからないけれど、その事件の始末とやら来年に延ばせば良かったのに」「もう決めてしまった事だから……」
考えてみれば私は、このYさんの事をなにも知らなかった。どうせまだまだ先は長い、いずれわかる日が来ると思っていたが……ついにそれも出来なくなってしまった。
この日の波平は閑散としていた。明日は乗客期待のインドだ。予定滞在時間は10時間ぐらいしかない。いつもの若者達の騒ぎもなく、暗い海面を船は淡々と進む。
「ちょっと船酔いしてきました。もう戻ります。明日の準備もありますから」とYさんは言い、「そうですか? 明日は、僕も被爆者集会に参加するので多分見送りは出来ないですが、いつまでもお元気で」「平野さんも良い旅を」 別れの儀式は徹底的に簡素だった。
私たちが出会ってから20日間、Yさんはついに私には心を開かなかった。ちょっと残念な気したが、仕方がなかった。日本での連絡先を聞こうと思ったが、それすらも躊躇われた。これから私は私のドラマを作り、私の全く関係ないところでYさんのドラマは進行する。もうお互いは関係ないのだ。なにか「悲しいな」って感じた。そしてその日はそれ以上、酒を飲む気がしなくなった。


9月29日(月)/晴れ/航海23日目
<あわやインドに置き去りに?>

午前10頃、約2時間遅れでインドはコーチン港に着いた。
乗客のほとんどは各種ツアーに散っていった。ふと気がつくと、Yさんが荷物を持って、「平野さん、Sさん、長いことお世話になりました」と言い残し、あっけなく下船していった。部屋には、取り残されたように私とSさんがいた。
コーチン市ではピースボートと市が主催して、約2000人規模の「被爆者集会」が開かれることになっている。帰船リミットは午後8時。9時には船は出航する。
被爆者集会は午後4時からスタートした。月曜でもあり、4日も船が遅れた関係か、インド側の参加者は100人ぐらいと少なかった。壇上には、コーチン市長はじめ裁判所長官など市の幹部、この企画の主催者の一人、折り鶴会の川崎哲氏や被爆爆たちが並んだ。メッセージの交換など、この手の集会にありがちな展開は私にとっては面白くなかったが、この記念集会に一日本人として参加出来たことだけで満足だった。私は、長崎の童話出版社の社長・Kさんと一緒に会場を途中で抜け出し、Kさんが行きたいと行ったユダヤ人街にオート三輪タクシーで向かった。
7時15分、そろそろ帰船しようかとタクシーを探し、地図を見せて値段交渉をすると、「OK! ミスタル。50ルピー」と言う。ここからならば15分で船まで着けるはず。通常市街からは最低でも150〜200ルピー以下はないと聞いていたので、「これはいい」と私たちはそのタクシーに乗った。しかし30分近く走っても、いっこうに港に着く様子がない。
気が付けば、帰船リミットまであと15分しかなくなっていた。タクシーは埠頭とはまるで違う場所に着いた。ここで初めて、運転手が英語が喋れず、地図も読めないと知った。私は焦った。外に飛びだし英語と現地語が出来る人を探し説明させ、運転手を怒鳴りながらスピードを上げさせた。それでも運転手はまた道を間違え、時間はついに8時を過ぎた。Kさんが持っていた国際携帯電話で船に電話を入れた。船側は「8時45分には出航する。それまで間に合わせてください」と言うのみだった。私はますます焦った。タクシーはどこを走っているのか見当もつかない。外は真っ暗闇だ。
8時10分、長い橋を渡ると遠くに船の明かりが見えた。「あそこだ! レフトタウン!」。私は運転手に方向を指示し、スピードを上げさせた。8時20分、タクシーの車内から船の姿が消えた。この時点で私は船に置いて行かれることを覚悟した。たかが1日程度の外出、手元にはピースボート発行のIDカードと700ルピーぐらいしか持っていない。ここで船に置いて行かれたらどうするのか不安で頭がパニックになった。過去世界百カ国近くを旅し、あらゆる経験を積んだはずなのに……。コーチンから次の寄港地、アフリカのエリトリアまでどうやって行けばいいのか見当もつかなかった。めんどくさいから日本に帰ろうかと思った。船からKさんの携帯に電話がかかって来た。
「今どこにいる!?」「わからん、さっき船が見えたから近くにいるはずだ」「運転手と話したい」「運転手は地図も読めないし、道もよく知らない新人らしい」……運転手に携帯を渡した。運転手と船側がなにやら話している。その時、突如、ピースボートの大きな船体が目の前に現れた。「間に合った!!」と思った。
運転手に500ルピーを渡し、私たち二人は船に走った。船の入口には責任者の上野氏が心配そうに待っていた。なんと、船はこの日初めて定刻に港を出港したのだった。


9月30日(火)/晴れ/航海24日目
<極度の落ち込みがやって来た。やばい。鬱が来た>

昨日のアクシデントのせいで疲れがたまり、一日なにもする気になれず、寝てばかりいた。夜、一人で酒を飲み、キャビンで星空を見る。昨日の事が悪夢のように思い出され、「この旅もめんどくさくなったな」って思い、家に帰りたいなと思った。歌舞伎町のネオンが恋しくなった。愛猫はどうしているのだろうか? と、ふっと思う。
極度の落ち込みがやって来た。やばい。鬱が来た。また自分が嫌になり始めた。この性格が嫌だ。なんであんな事を、あんな言いぐさをしてしまったんだろう……。穴があったら隠れたい、土下座して謝りたいと、過去のさまざまな嫌な事が浮かび上がって来る。こうなると終わりが見えない。死ねない癖に死にたいと思う。生きている量の多さを確認するしかない。死の量に生の量が打ち勝つしかない。安定剤と眠剤を何錠か飲み、眠るしかない。
しかし、満点の星空のもと、友部正人や森田童子、斉藤哲夫、遠藤賢司らの70年代フォークを聞いていると、なぜか気が晴れたのだった。


10月1日(水)/晴れ/航海25日目
<格好の取材対象をまたみつけたのだが……>

最近、60歳代のスゴいオバさん軍団が船内を闊歩している。3人組。若い男を物色している?
タバコスパスパ、ド派手なドレス、厚化粧。「ネイルサロンってヨーロッパまで行かないとないわよね。シンガポールでやってもらったネールがもう禿げて来たわ」だって。
これは取材しがいがあるぞ!しかしどうやって近づけばいいのだろう……


10月2日(木)/晴れ/航海26日目
<乗客同士の交換日記に参加する>

朝、船内放送。ソマリア沖で海賊が出没しており、付近を航行する船舶に警報。船はアラビア湾をわたる迂回路をとるので、エリトリア到着は数時間遅れるという。キャビンからイルカが見えたとみんな騒いでいる。トビウオもたくさん見えた。
午後、「交換日記をしよう」というイベントに参加。総勢30名近く。私以外は全員が10代〜20代で男は3人、おじさんはもちろん私1人。交換日記というからには1対1なのかと思っていたのだが、1グループ7人だ。1対1なら誰か面白い若い子を見つけて、援助交際でも申し込もうと思ったのに(笑)。若い子達からニックネームをつけられた。「マリオさん」だと。
そして、第1回目の日記は私になってしまった。私は記念すべき第一回「交換日記」にこんな文章を載せた。

交換日記第一作目の栄誉に与りました、東京都出身の平野悠(60うん歳)といいます。(中略)
初恋は? とのお題目ですが、私はいわゆる全共闘世代で、あの60年代後半から70年代前半の政治の季節に青春を送りました。やはり大学は毎日バリケード封鎖で、私もマルクス主義の洗礼を受けてしまって、朝から晩までヘルメットとゲバ棒を持って走り回っていました。そんな青春のまっただ中、私はバリケードの中で恋をしました。街頭で石や火炎瓶を投げ、「いつ機動隊や右翼や大学当局が大学封鎖解除をしに来るのか」といった、とても緊張した中での恋でした。相手の女の人は、私とはセクト(党派)の違う活動家でした。お互い愛し合っているのに、ちょっとしたセクト間の争い事(内ゲバ)で別れる事になってしまいました。
愛は党派闘争に負けました。勿論それまでにはいろいろな淡い恋はたくさんしましたが、なんともこれはとてもリアリティのある恋でした。でも意外と充実した青春でした。余り悔いはありません。
お後がよろしいようで……。

マリオ 拝


10月3日(金)/薄曇り/航海27日目
<南米帰りの年配夫人と知り合う>

昼食の時、浜松の0子さんと同席になった。彼女は、ウエイターが南米人だったので「アグア ポルハボール(水を下さいませんか)」というスペイン語を使った。「えっスペイン語が出来るんですか?」と声をかけ、会話は始まった。
彼女は現在独身で60歳は過ぎているが、ちょっと目立つ顔立ちのオバさんなのだ。旦那が南米のある国に長期赴任になり現地で生活すること25年で、旦那に現地人の女が出来、すったもんだのあげく単身日本に帰って来たそうだ。
「お子さんは?」「3人。その国に置いてきたわ。だって日本で育てる力がないもの。私貧乏だから……。早く誰か見つけて安定したいわ」と悲しそうに言う。思わず「だって、この船に乗るお金持ってるじゃないの?」と言いたくなったが我慢した。
「なんてひどい旦那だ」「日本から遠く離れた地でひとりぼっちになった気持ち、わかる?」「わかりますよ。実は僕もカリブの島国、ドミニカ共和国で日本レストランと貿易をやっていました。事業に失敗して、日本に帰ってきたんです」「そうなの。あんたの事知っているわ。船内じゃいつもパソコンに向かって原稿書いている。作家って言う噂よ」「まさか?」「作家で私のこと書こうとしているのでしょ」「そんなことありませんよ」
なんだかんだ南米の話をしている内に食事の時間は過ぎた。「またお話しましょう」と言ってすんなりこの場は別れた。



10月4日/航海28日目
<この旅に飽きているのだろうか?>

船の左側前方にイエメンの灯台が見えた。数十匹のイルカが船を追ってくる。澄み切った空。別にそれほど騒ぐことでもあるまい、江ノ島に行けば見れるさ、なんて思ったがあまりにも乗客が騒ぐのでつい私も見に行った。うん、確かに感動的だ。宙返りをやった。イルカの宙返りは人間が訓練してそうさせるものだと思っていたが、自然のままのイルカもするんだと思ったらなんだか嬉しくなった。
最近、乗客同士がみんながどんどん仲良くなって、挨拶を交わし楽しく一緒に食事をしたり、早朝や3時のお茶を飲んだりしているのに、私は何か言いようのない孤独を感じている。ほとんどの食事は一人でとる。デッキでも誰にも近寄らず、一人の席を探す。あれこれ話しかけられても相づちぐらい、話す言葉がなく先に席を立つ。若い子とも話すのがかったるい。話していても面白くない。この旅に飽きているのだろうか? 日本人が煩わしくなってゆく。これが何の制約もない自由なひとり旅なら、『地球の歩き方』に載っていない地域に行けば、日本人から解放される。そしてまた、日本人と話したくなると戻って来ればいい。だがこの船旅はそうはいかない。
これでは面白い出会いや取材が出来ない。何とか自分の心をかきたてて頑張らねば、と思ったりするのだが……。




10月5日/晴れ/航海29日目
<まさしく今、戦争をしている国の人々の暗い表情だ>

午後1時、エリトリアのマッサワ港に着岸。アフリカだ。エリトリアは独立して15年、アフリカで一番若い国だそうだ。30年にも及ぶエチオピアとの独立戦争の傷跡が至る所に残っている。まだエチオピアとの国境紛争が続いており、多くの若者は国境線で戦っているという。
夜半に汗びっしょりになり、咳が断続的に出る。朝から若干の発熱もある。どうやら風邪を引いたらしい。「今日はどこにも出ず一日寝ているしかない」と思って午前中は寝ていた。だが船が港に着岸すると、どうしても船外に出たくなった。これも長年の習性か? どうもこういう場面に来るとテンションが高くなる。25年ぶりのアフリカだ。
地図を貰って船外に一人出る。暑い。50度あるのか? 港周辺は戦禍の跡だらけだ。ちょっとしたビルやモスクの上部はすっ飛んでいる。街路には人っ子一人いない。そういえば今日は日曜日、さらには今は昼寝の時間だ。体の調子がすぐれず、20分も歩くと、いつの間にかこの町を探索するのがめんどくさくなった。もちろん頑張って動き回れば色々な事に出会えるのだろうが、船に帰り、夕刻までまた寝た。
午後7時、エリトリア住民との「交流会」に参加してみた。
町に一軒だけある映画館の前の広場が会場だった。トレーラートラックの荷台がステージ、周りの街路灯が照明で、スピーカーやマイクはピースボートから運ばれた。エリトリア青年会議側からは民族音楽の披露、ピースボートの青年達はソーラン踊りや太鼓。盛り上がっているのは日本側参加者だけのようだ。地元のエリトリア人見物客のほとんどは無表情で突っ立って腕組みをしたまま。手拍子を煽っても、少数の子供がちょっと踊り出した位なのだ。不思議だった。エリトリア人のリズム演奏に入った。リズムが激しく回るのに、住民の笑顔がない。アフリカの抜けるような笑顔がないのだ。周囲に秘密警察や軍隊などいないのに、取り巻く群衆はうつろな表情で見ている。それは10年ほど前に訪れた、北朝鮮の民衆の表情に似ていた。ピースボート側から、サッカーボールと英語本のプレゼントが手渡される時だけ、ちょっと住民の笑顔が見えた。私は少しだけほっとした。
果たしてこの事実(?)を若い子達はわかっているのだろうか? としばし考え込んだ。まさしく今、戦争をしている国の人々の暗い表情なのだ。
私はしょんぼりしてしまった。船に戻りキャビンに行くと、30歳過ぎの女性達の声がき聞こえてきた。「誰々さんが男の部屋に入って行くのを目撃した」と話している。




10月6日/航海30日目
<核兵器廃絶を願うには左翼も右翼もない>

前日午後11時、定刻出航。船はアデン湾から紅海に入る。右側がアラビア半島で左がアフリカ大陸だ。川崎哲さんがこだわっている、船内の折り鶴プロジェクトのイベントに2回も参加した。
今日のテーマは、長崎の原爆被害者の証言記録だ。テープから流れる肉声は、もう苦しくて聞いていられない。延々と50人もの被爆者の体験談が続く。当時を思い出したのだろうか、高齢の女性のすすり泣く声が聞こえた。重すぎる。
「怒りの広島、祈りの長崎」というのだそうだ。淡々と証言者は自分とその周辺に起こった原爆の恐ろしさだけを証言してゆく。そこにはアメリカ軍への恨み、日本軍国主義への怒りは全く入っていない。ただ事実だけを語る。原爆投下の後、逃げまどう住民をアメリカのグラマンが機銃掃射を浴びせる。サングラスをかけ、ガムを噛み笑いながら殺してゆく若い米兵達の顔がはっきり見えたそうだ。「祈りなさい。これは神が我々に与えた試練です。その試練に喜んで耐えなさい」と浦上教会牧師は言ったそうだ。
いつだって被害者はそうだ。原爆だろうが交通事故だろうが、飛行機事故だろうが、薬害エイズだろうが……。北朝鮮に連行された拉致家族の気持ち、枯葉剤、劣化ウラン弾に苦しむ人々……どれが人災でどれが天災で、どれがマスコミの話題になって、どれが隠されたのか? 何が避けられて何が食い止められたのか? 被害にあった当事者たちはそんなことを考えるゆとりはない。問題はそれらの悲しみを繰り返さないためには今、何が必要でどんな行動を起こさねばならないか? 報復か? その加害者に死刑を……?
午後、折り鶴プロジェクトの交流会の記録ビデオを見た。ベトナムでの枯葉剤被害者と日本の原爆被災者の交流会、核保有国のインドで国の核政策に反対するコーチン市との集会、そしてエリトリアの青年会議を船に招き原爆写真を見せ、いかに原爆が恐ろしいか交流した記録だ。核兵器廃絶を願うには左翼も右翼もない。まさにこのピースボートの行動がそれなのだ。そんな風に思った。



10月7日/航海31日目
<株価大暴落のニュースが飛び込んで来る>

海の色が急に色濃くなった気がした。空は真っ青。船は時速16ノット(30キロ)で進んでいる。イルカが船と並ぶよううにしてぴょんぴょん跳びながら何匹も泳いでいる。
このところほとんど乗客と口をきいていない。何か言いようのない「めげ」が自分を支配している。日本の株が一時1万円割れをしたニュースが飛び込んできた。凄い。私が日本を出発した時には1万3000円前後だった。ネットを繋ぐことが出来る私がいつも在住している図書室では一部のオヤジ共が騒いでいる。この一週間で300万失ったと顔色を変えているオヤジもいる。今が買い時だとばかり国際電話を入れているオヤジもいた。ヨーロッパでは「アメリカの終わり」という記事が溢れているそうだ。「そうか? アメリカの天下は終わったのか?」「それで日本はどうなるのか?」そんなことを思うがこの船にはほとんど情報がない。
夜、酒場で長野県の土建屋をやっていたオヤジと一緒になった。「脱ダムの田中康夫前知事。公共事業持ってこなきゃ知事失格ですよね」「ありゃ〜ダメだ。公共事業がなければわしら、食えなくなる」。ほんの冗談で皮肉で言ったつもりだったが、相手は真剣に答えて来た。「東京では今、多摩川とかの河川のコンクリートを剥がす工事が進んでいますよ。こんな事に税金を使われたら払う方はたまったもんじゃないですよね」と言うと、おやじの言葉がとまった。険悪な空気が流れた。私は逃げるが勝ちと思い、「ではお休みなさい」と言ってひょいと席を立った。こんなオヤジもピースボートに乗っている。(続く)




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ロフト席亭 平野 悠

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