ROOF TOP2004年5月号掲載
遥かなるペルシャの
イラン・イスラム共和国からの報告2
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▲これがペルシャの市場だ! ペルシャ猫、ペルシャ絨毯と言うがイラン猫とは言わないな。街で出会う女性はみんな黒一色だ。思わずこの黒衣を剥ぎ取ってしまいたい衝動にかられるがそんな事をしたら「石打」の刑だ。
対米追随以外、 日本の生きる道は本当にないのか?
ヨルダンのアンマンからイラクのバグダッドに向かっていた3人(その後にさらに2人)の日本人が人質にされた。そしてこの犯行グループが「自衛隊を3日以内に撤退させなければ人質を殺す」と要求してきた。この事件は日本中を大騒ぎにさせた。日本の世論は「卑劣なテロに屈するべきではない。奴らは自業自得だ。助ける必要はない(70%)」という形で大きく右にぶれた。
おまけにテロに屈しなかったという小泉首相の支持率まで上がる結果になった。 大手銀行が破綻し、“自己責任”である銀行家はただただ「申し訳ありません」と頭を下げ、 何兆円もの税金を国民から巻き上げて自分たちの不始末の補填に使われた時、 世論は「自己責任なのだから税金は一切使うな!」というコールが起きただろうか?この差は一体何なんだ! ただの“弱い者いじめ”じゃないか?って思うのは私だけなのだろうか?
このイラク人質事件に対する私の何とも“やりきれない思い”は、この3人がヒューマニズムに溢れる善意の活動家だったこと──本当に今やらなければならないことをしようとした人達だったことに起因する。イラクのストリート・チルドレンの為に日本でカンパを集め、彼らの家を造ろうとした若き女性。アメリカが無差別 にばらまく劣化ウラン弾の被害を調査し、全世界にその悲惨さを報告するために行った18歳の青年。ギリギリまで被写 体にカメラを向け、この愚かな戦争を犠牲者の側から撮ろうとしたカメラマン。世の中にはNGOやNAPOや各種のボランティアの人たちの献身的な活動があって、「こういう人たちがいればこそ、まだ人間って素敵だな〜」って思え、「自己責任だ〜!」って騒いでいる平和ボケした奴らに「じゃ〜あんたがやってみろよ!」って言いたくなってしまう。
いくら小泉首相が“復興平和支援”と力説しようが、航空自衛隊はアメリカ兵や武器を輸送しているし、イラク人から見れば明らかにアメリカの手先なのだ。今や19ヶ国にのぼる無差別 拉致事件の根源は、言うまでもなくブッシュ大統領の対イラク戦略の失敗にある。米軍に完全包囲されたアルジャジーラでは日本の戦国時代のように街が米軍に包囲され、補給路は断たれ、子供や老人を含む600人ものイラク人が殺され、その無差別 攻撃は住民の避難先であるモスクにまで及んでいるのだ。まさにイラクがベトナム化しようとしているということだ。この現実に対し、日本政府はただただアメリカの言いなりになっているのが最大の問題だと思うのだが、本当に“対米追随”以外に経済大国・日本が生きる道はないのか? このことを今こそ日本人の一人一人が考えていかねばならない時にあると思うのだ。
イランってどういう国? =イラン・イスラム共和国の基礎知識
イラクの人質事件で被害に遭った日本人とその家族にもの凄いパッシングの嵐が吹き荒れる中、わたしゃ、そのイラクの隣の国、それもイスラム原理主義ゴリゴリの国を訪れた時のことを書こうとしているのだ。
え〜と、イランっていう国は国土、宗教、資源、歴史、文化、どれ一つをとっても極めて豊かな国だ。国土は日本の4、5倍、人口は6,200万人、地下に眠る天然資源は実に豊富だってことは前回書いた。
西暦622年にイスラム教が起こり、このペルシャに伝わったのは642年。以後ペルシャはイスラム教徒の支配下に置かれることになる。国民の99%がイスラム教シーア派だ。国際的な統計によれば全世界のイスラム教徒は約12億、キリスト教系各会派総計が19億というから、イスラム教は世界第2の宗教ということになる(この宗教を全部敵に回してしまったアメリカのネオコンも大変なことをしたもんだ)。 さて、イスラム教にはシーア派(16%)とスンニ派(80%)があって、この両派を決定的に分けるものはモハメッド(アラーの神の天啓を受けてイスラム教の教えに目覚め、彼こそ神が使わした予言者と定めた)。そのモハメッドさんは西暦632年に世を去ったあと、彼の後継者を誰にするかで論争が起き、イスラム教徒の総意に基づいて後継者を選ぶべきだというグループ(スンニ派)とモハメッドの血を受け継ぐ者の中から後継者を選ぶべき(シーア派)だという意見が対立したんだそうだ。
イラン訪問最初の驚き ──独裁国家では政治の話は禁物なのだ
今回のイラン行きの私の好奇心は、このイランはアメリカが名指しにした“悪の枢軸国家”の一つだったからなのだが、この数年アメリカと何とか“協調路線”、いわゆる穏健派のハタミ首相が失脚しまった現在はどうなってしまったのか気がかりだったこともある。
それも、スンニ派が多数を占める今は囚われの身であるフセインのイラク(この国は世俗主義の国で、厳密にはイスラム原理主義ではない)ではなく、あのイスラム原理主義者・故ホメイニ師がアメリカを追い出し革命を起こした国なのだ。私がイランに行くことの意味はまさにここにあると言えた。成田〜ソウル経由テヘラン行きのチケットは、一番安い航空券ならば5万円台で買えたのだが、私の健康状態が万全ではなく、いつでも帰国できるように1ヶ月オープン(101,000円)を買った。
飛行機が真夜中に着くというので、テヘラン最初の日は“安宿”泊まりはやめて『地球の歩き方』にも載っている、日本から予約したテヘランの中心地近くにある中級ホテル(一泊50ドル)に泊まった。朝起きて、がら〜んとしたホテルの食堂でナンと紅茶の朝食を摂り表通 りに出るのだが、この日は丁度イスラムの祭日(イランシーア派最大の祭り、アシュラー)にぶつかってしまって、人も車もほとんど通 らず商店はシャッターを閉めたままで、街を散策しようにも何もないのだ。途中このお祭りのパレードに出会ったが、あまり私の興味をそそるパレードではなく、何とか小さな食堂を探しあて、そこに昼食を食べるため腰を下ろした。
丁度隣に2人の紳士風の客(背広を着ていたので多分高級公務員)が英語で話しかけてきたので、嬉しくなって私が日本から持参したハタミ前首相の本『文明との対話』を見せて、「私はハタミ首相をリスペクトしている。ハタミ首相はどこにいるのか?」と尋ねたところ、その2人の紳士は急に黙り込んでそそくさと店を出てしまった。街には銃を持った軍隊や怖そうな秘密警察がいるという緊張した雰囲気ではなく、実に物資は溢れ平和な風景に見えるのだが、内実のイランはそんな甘い国ではないと初めて緊張した。
▲ここは病院ではありません。これが安宿のドミトリーの部屋だ。一泊3ドル。
日本で10年も働いていたという青年との出会い
とにかく街ではほとんど英語が通じない。ホテルのレセプションですらなかなか通 じないのだ。これではこの国の事情を全く知ることが出来ない。しかしラッキーなことに、街を歩いていると流暢な日本語を喋る青年に話しかけられた。考えてみれば、このテヘランでは日本へ出稼ぎに来て働いたことのある人たちが大勢いるのだ。
その青年B氏は17歳の時に日本にやって来て、10年間もの間イリーガル(違法)で千葉県で働いていたという。私は彼にイランについて多くのことを質問した。彼が話してくれたイランの実状はこうだ。リビアの独裁者カフィー大佐がアメリカに屈服し、イラクが米国とその同盟国に侵略占領されてフセインが捕らわれ、次のアメリカの標的はこのイランであるということ。そして、オイル欲しさに何とかいちゃもんをつけて侵略して来るに違いない、と。
だからアメリカとの協調路線をとろうとする穏健派のハタミ首相は失脚し、イランは以前のゴチゴチのイスラム原理主義に戻ってまたアメリカに立ち向かおうとしているのだという。すなわちこの間、イランではイスラム穏健派と原理主義の死闘が繰り返され、ハタミは民衆の圧倒的な支持を受けていた(85%の支持率)が、しかしそのハタミ改革はイランの政治で絶対的権限を持つ“イラン聖職者会議”の同意を得られず挫折してしまった。2ヶ月前の選挙では改革支持派のほとんどは立候補すら許されなかったというし、国民の80%がハタミに幻滅し選挙に行かなかった。この国の聖職者たちはアメリカ侵略に備え“核”を持つことに執着しており、対抗しようとしているのだそうだ。我々はそれをビデオに収めた。
さて、問題はその後に起きた。あのB氏が夕刻慌てて私のホテルを訪ねてきた。 「僕は半年前に日本から帰って来たばかりで、この国の秘密警察がどんなに怖いか知らなくて、今日話したことを僕の弟に話したら弟が真っ青になって、そんなことが警察に知れたら兄貴が警察に捕まるだけでなく、家族や親類までに被害がかかってしまう。だからそのビデオ・フイルムをどんなことがあっても取り返してこいって言われた」と言うのだ。
その表情は無念という感じだったし、「僕はそんなこと怖くはないが、その迷惑が親や親類兄弟までかかってしまう」と言うのだ。彼の要請を受け、残念ながら我々は彼の目の前でテープを消すしかなかった。
その青年B氏は「僕は日本にいた10年間、自分が日本人から受けた数々の親切を少しでも返したいんだ」と力強く言い、私は「日本人っていう人種は中東やアジア、南米から出稼ぎに来る外人に対して平気で相当の差別 をしているやらしい国民ですよね」と切り返すと、「私は10年も日本にいた。確かに初めの都市での1〜2年はいわれのない差別 を受けたことはあったけど、その後田舎の工場で働いた時は本当に色々みんなから親切にして貰ったよ。特に田舎のお爺さんやおばあさんに…だから僕の第2の祖国は日本なんだ」と話していた。
▲情報の〜と。このの〜とはどこの安宿にもあって旅の生きた情報が沢山自慢話風に書かれていてこれから未知の土地に行くものにとってとても貴重なものだ。 ここに書かれている「ニセ警官」にはちゃんと私は声をかけられたよ。残念ながら写 真は取り損なった(笑)
まだ生きているイスラム法──
マシュマド・ゲストハウスの怪 (宿の情報ノートより)
イラン人は何とも親切すぎるくらい親切だ。バス代を払ってくれたり、チャイ(紅茶)をごちそうになったり、道を訊いてもそれは親切に案内してくれ、街を歩くと「ジャポン、ジャポン、ナカタ、ナカタ」という声が飛び交う。
さて、指定された原稿枚数が少なくなってきた。だからこの旅で一番面白かった話に移ろう。
喧噪と排気ガスとこれでもか〜っていうくらい交通ルールを守らないテヘランの街はずれに、マシュマドという日本人バックパッカーが集まる安宿(ゲストハウス)がある。このゲストハウスのフロントに岡村君という超親切なセクハラ青年がいた。彼は片言の日本語を喋り、日本のテレビ・タレント、岡村隆史(ナインティナイン)に似ているところからこのあだ名を付けられた。
彼はその宿に日本人の女の旅人がやって来ると、必ず「あなた疲れている。僕マッサージがうまい。無料でやってあげる」と言って、強引に自分の部屋に連れ込んでやらしいことをするのが唯一の楽しみらしい。
ある日、その宿に来た日本人女性がその岡村君の誘いに乗って(最初、彼女は断ったそうだ)マッサージをされた(どのようなマッサージをしたかは不明)。「彼女はとてもエンジョイしていた」(岡村談)そうだが、彼女がチェックアウトしてから岡村君にポリスから電話がかかって来て、かの岡村君が警察署に出頭すると、なぜかその彼女がいたという。
彼女は「どうして私の身体に触ったの? 許せない」とポリスに訴えたのだった。岡村君は「合意だった」と主張したがその事件は大きくなり、日本大使館や警察署長まで巻き込んで、結局はその日本人の女性の言い分が通 り、74回ものムチ打ちの刑とテヘランから10年の追放になったんだとさ〜。
しかしこの「宿」のオーナーの賄賂(500万リアル)により減刑になり、私がこの宿に泊まった時にはレセプションに立っていた。もっと悲惨なのは、談話室にある情報ノートにこの事件の経過が事細かに書かれてあり、それが日本語であるため、未だかの悲劇の主人公・岡村君は気がついていないのだそうだ。
ちなみにこのイランでは、たとえば自分の妻が浮気をしてばれた時、その罪の刑はその亭主が決めるという。またイスラムの女性の黒衣は男が女性を他の男から守るためにあるんだそうだし、イスラムでは結婚の時に女性は絶対的に処女でなければならないというのが掟で、改革が進んだハタミ政権の時には処女膜再生手術が病院で平気で行われていたそうだ。
ロフト席亭 平野 悠
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