ROOF TOP2004年6月号掲載
自然に抱かれることの感動をあなたに!
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岐阜の山奥で田の神祭り=奉納芸『ムシムシフジムスメ』を観る
5月の連休の最後の日、名古屋のロック歌舞伎・スーパー一座座長の原 智彦さんから、岐阜県美濃白川町にある原さんの山荘の野外舞台で開かれる『田の神祭り』における奉納芸『ムシムシフジムスメ』の公演に泊りがけで来ませんか? という誘いがあった。
この山荘には、私は以前(もう10年も前か?)一度招待されたことがあった。そこは名古屋中心地から車で約2時間かかり、その山荘の敷地面積は実に広大だった。山荘のベランダから遥か向こうの山の麓までが原さんの所有であり、「平野さんも是非隣に住みにおいでよ、勿論土地代なんてタダみたいな値段だからさ〜」と言われ、「確かに自分も老後は田舎暮しを考えているけど、電気も水道も、電話(携帯)も通じない所ではとても生活できないよ、第一東京からは遠すぎるよ」って真剣に言う私を見て原さんは微笑していた。
その山荘には、近くの沢から天然水を引いた風呂があり、天然水を薪で湧かすお風呂(露天風呂もある)の心地よさというか柔らかさや、山荘を吹き抜ける風と畑からとれた数々の新鮮な、勿論無農薬の野菜を肴に飲む酒のおいしさに感激した覚えがある。まさにテレビドラマの『北の国から』みたいにその感動は忘れることができないでいた。
その後私は真剣に東京を脱出し田舎暮しを夢見るようになり、ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』とか『あなたでもできる家庭菜園』なんて本を読みふけり、百姓予備軍になるための手始めに東京の自宅のベランダで“ガーデニング”なんぞをやり始め、ナスやキュウリ、ピーマン、トマトなんかを植えてみた。だが、こればかりは朝夕の決まった時間にちゃんと水をやらなければならず、宵っ張りの私には朝は起きられず、夕刻時は会社に行っていて自宅にはいない訳で、結局はこんなことには余り興味のないかみさんが全部やる羽目になって、すなわちこの挑戦も1回で挫折となった。
しかし、私の“東京脱出計画熱”はまだ覚めなかった。そして沖縄なら海は綺麗だし、東京では失われた共同体が残っているし、温かくって住みやすいだろうっていう訳で、沖縄本島のヤンバルクイナやハブの住む今帰仁〈なきじん〉の山奥にあるファーム牧場(ムーミン牧場)の風変わりな芸大出のおやじと仲良くなって、そこの土地を買うか借りるかしてゲストハウスを中核とした“おらが村”を作る計画を真剣に練っていた。この計画は、岐阜の山奥だと誰も興味を示さないが、沖縄というと誰もがとても凄い興味を示してくれて「自分もその計画に参加したい」という東京人が沢山いたのはビックリした。
さて、私と友人が岐阜の山荘に着いた時にはもう100名近くの老若男女があちこちで酒を酌み交わしていて、『ムシムシフジムスメ』の開演を待っていた。
山荘からちょっと下った緑に囲まれた盆地にアズマヤがあって、チラシには「ロック歌舞伎・スーパー一座座長、原 智彦が日舞『藤娘』を青葉の眩しい野外ステージにて新演出でお届けします。美味しい空気と美味しい料理、幻想的な藤の精の世界をお楽しみ下さい」と書かれており、開演は日没からだという。
この山荘にはやはり以前私が訪れた時と同じで電気はないし、携帯電話も通じない人里離れた別世界なのだ。午後6時半、薄曇りの陽が沈み始めると辺りは冷え込んでくる。和太鼓の奮い立つようなソロと共に周りの緑に黒いとばりが支配する頃、『ムシムシフジムスメ』が始まった。
大自然の中に藤の枝が紫色にちりばめられた舞台があって、照明は十数個並べられたカンテラとロウソクと懐中電灯で、役者に当てるスポットライトだけだ。この照明効果はなんとも素晴らしい。勿論、写真を撮るためのフラッシュも厳禁だ。舞台の袖に置いてある小さなラジカセから幻想的な音楽が流れ、白装束の踊り手の“舞踏”が始まった。ラジカセから流れる幻想音楽が終わると、横山マーボさんのパーカッションが火を噴き始める。約2時間にもおよぶこの公演は、客席と舞台が周りを取り囲む自然を意識して一つになったなかなか見事な演出であった。
舞台が終わってもその興奮は冷めず、たき火を囲んで踊り手やこの公演を支えてくれた名古屋の“反戦グループ”の若者達と朝まで酒を飲んだ。ここではどんなに騒ごうと誰も文句を言ってくる隣人はいない。暗い山々に向かって若者達が大声で何度も何度も「奴らの足音のバラード」(はじめ人間ギャートルズ)を歌うのがとてもこの大自然に合っていて印象的だった。
やはり東京を離れられない自分を発見して愕然とする
私が“自然回帰=ど田舎移住作戦”というか実践計画を“完全放棄”(?)したのは、まさに四国お遍路の過酷な歩きの最中だった。 弘法大師・空海さんは大自然に融和する“境地”の修行の中で大日如来を見、「吾永く山に帰らん」と名言を残した。私は私で“大自然との融和”とはどんな意味があるのか? なんてことを不如意ながらなんとか必死に感じようと、ただ黙々と“愚直に歩く”毎日を繰り返し、自然に身をゆだねることを念じていた。「ふむ、これからはなんとかぜい肉を落として虚飾を排し、死への準備をするためには、“捨てる”“慈悲(和解)”“喜ぶ(感謝)”ということなんだな」と、なんとか納得させようと必死になっていた。
しかし、人間の原点である歩くことをおろそかにした報いとして、所詮自堕落な生活しかしてこなかった私の行く手の毎日は困難を極めた。国道の白線で区切られたわずかな幅の歩道を歩き、疾走する大型トラックにおどかされ、過酷な山道を道に迷いながら独り歩き、ただ「辛い、辛い」とうめていた。途中、どんな景色を見ても、由緒あるお寺の本堂に向かって般若心経を一心に唱えても自分の魂は萎えていくばかりで、「あと何時間歩いたら今日の修行は終わる、あと何日修行したらこの辛さから解放される」ってことばかし考えるに至って、さらには寺で瞑想している最中に歌舞伎町のまばゆい怪しげなネオンが目の前にちらちら浮かぶようになってきていた。この“修行”の最中に「こりゃ〜絶望的だわさ」って思ったものだ。
そういえばその昔(20年前)、5年におよぶ世界を回るバックパッカーの果て、私はカリブ海の小さな島“ドミニカ共和国”に住み着いていた。市民権も取り商売(レストラン・貿易会社)も始め、毎日どこまでも蒼いカリブの海を眺めながら暮らしていて、「俺はもう日本には帰らん! 俺はここの土地で骨を埋めるんだ!」と当初は決意していたのだが、やはりたかが5年の歳月程度で、困ったり、悲しかったりした時には日本(東京)での楽しかった思い出がキラキラしてきて、だんだんそれが強力(いろんなことがあった)になってしまって結果的には日本に戻って来たことと同じように、やはり私は日本が好きだし、東京(混沌とした街、新宿)が大好きなんだということを歩きお遍路をやっている時に痛いほど思い知らされたのだった。
ワークショップ・米作りに参加
そんな折、環境問題にはまっているロフトの加藤梅造から「千葉の田舎に田植えに行きませんか?」というまたもや自然からの誘いがあった。なんでも梅造の知り合いに自然農法で田んぼを営む人がいてそこで田んぼのワークショップが開かれているとのこと。そろそろ“田植え”をしなければならない時期にあるんだそうだ。それで、会社ではいつもリストラ状態で、暇を持て余していて面白そうなことは何でも首を突っ込む私は即刻OKで参加を決めた。
5月13日、なんとウィークデイの早朝、田植えメンバー5人(なんとその中にはロフトの小林社長までいた!)はワゴン車ロフト号で一路京葉道路を抜け、九十九里方面に向かう。高速を降りなんの変哲のない国道を1時間も走っただろうか? 長柄から谷津田に入り、低い緑の山々に囲まれた入り江のような奥にこの田園を営む中野雅蔵さんと郁子さんのログハウスがあった。
この田園で循環型の米作りをしている中野さんはやはり“元ヒッピー(パッカー)・脱サラ・都会脱出組・エコロジー派”のロマンを持った素敵なご夫婦であった。我々が到着し、中野さんへの挨拶もそこそこに用意をしている前面には田んぼが広がっていて、水が張られ、米の青い苗が束になって用意されていた。
靴を脱いで半ズボンになり、早速膝の半分ほど浸かる泥沼に足を踏み入れた。素足が泥水に浸かるあの独特な感触は、過ぎ去った遠い昔の私の少年時代を思い起こさせた。50年も前の私が住んでいる世田谷の松沢村は、まさに牧場と田んぼと雑木林が延々と続いていて、武蔵野の原風景が残っていた。
終戦直後だった。みんな貧しかったが、近くには自然の幸が至る所にちりばめられていた。この田園の風景が余りにも素晴らしいので、東京中心部では結構な名所にもなっていて、田んぼでザリガニやドジョウを捕まえ、銀ヤンマを鳥餅をもって追った日々を切れ切れに思い返しながら、田に苗を不規則に植えていった。
あなたが世界を変える日一一これ以上、この星をこわさないで
今、私の手もとには辻 信一さんが訳したカナダの12歳の少女セバン・スズキさんが環境サミットで語った伝説のスピーチ『あなたが世界を変える日』(学陽書房 刊)という全65ページのかわいい本がある。
この本を読んで泣けてきたのは私だけでなく、だからなぜかどうしてもこの本を紹介したくなった。
オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのかあなたは知らないでしょう。
死んだ川にどうやってサケを呼び戻すのかあなたは知らないでしょう。
絶滅した動物をどうやって生き返らせるのかあなたは知らないでしょう。
そして今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのか、
あなたは知らないでしょう。
どうやって直すのか分からないものをこわしつづけるのはやめてください!
このわずか6分間のスピーチは人々の強い感動を呼び、世界中を駆け巡り、いつしか“リオの伝説のスピーチ”と呼ばれるようになった。
ロフト席亭 平野 悠
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