ROOF TOP2004年9月号掲載
還暦=60th
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還暦という途方もなく重い事実
2004年8月10日。私は還暦の朝を迎えた。何か気は沈んでいく一方だった。この還暦は何日も前から私の友人、私が運営する掲示板や会社でもわいわい騒いでしまったこともあり、周囲ではいろいろな催しを計画しているとの噂もあった。だからそんなことが余計煩わしくなって、いろいろなところから来るお祝いの電話やメールを(本当に失礼ながら)なぜか無視し、その何かとてつもない“還暦という重い事実”(?)から逃げ出したくなった。
アブラゼミの不快な雑音を聞きながら、一人遅い朝食をぽつねんと食べていた。「今日もきつい暑さになりそうだ、いやだな〜」ってこの30日間毎日思っていたことがついポロリと口に出た。そうなると今日という日に起こるだろう何もかもが“不快”だな〜と予想され、無性に腹立たしくなってくるのを止めようがなかった。
そんな時にはいつもそうなのだが、誰にも干渉されない世界が欲しくなって、何か現実逃避というか遠くの知らないところへ行きたくなる。何とも我が儘な私は「今日だけは誰とも会いたくないな〜」って繰り返し思った。この日だけは誰からもお祝いの言葉を欲しくはなかった。だから必然的にこの重い事実を一人ぼっちでどう“処理”しようかとしばしあれこれ考えてみた。
赤いちゃんちゃんこと三角頭巾をかぶって家族や孫に囲まれて、はしゃぎながら現在の幸せを噛み締めるのも愛嬌としては悪くないと思ったが、どうしても私の“美意識”とは相容れないと感じた。第一、自堕落でろくな生き方をしてこなかった私はそんな“周囲”を持ち合わせてもいない。
私の同年代の連中はこの還暦という事実を全く無視して、それはまるで他人事のように60歳という年齢を隠すように知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。そんな友人達の表情を思い浮かべながら突然、「俺は違うぞ〜、どっこい俺はまだ生きている!」と人生の区切りを確認したい感情が沸々と湧き上がってきて…私はこの事実と思いっきり対峙しようと思った。ただ一人、孤独にこのどうしようもなく避けることの出来ない事実を人知れず“よいしょのどっこいしょ”って背負ってみようと思った。
還暦を納得するための行動開始!
食後の苦いコーヒーを飲みながらいろいろ考えてみた。そう、「60歳と対決するにはどうするべきなのか?」って…。
初め私の頭に浮かんだことは、富士の樹海をさまよい歩いて、そこで森林浴をしながら60年の過ぎ去った過去を一つ一つ点検してみようということだった。しかしこの行動にはいろいろ準備が必要だし、まさか自殺するつもりなどさらさら無いので諦めた。
しばし古い時刻表を引っ張り出してきて、“どこぞの地で一人還暦祝い”(?)をしようかにらめっこしてみた。そんな中、私が住んでいる京王線の桜上水から“鈍行”で60番目の駅に降りて、駅前の喫茶店で(あればの話だが)コーヒーでも飲んで帰ってこようとふっと思いついた。1歳から60歳までの“年輪”をその一駅一駅の短い区間の中で瞬間的にでもいいから思い起こし、ノートに書いてみようと思ったのだ。そして「うん、これは断固鈍行でなくてはいけないな」なんて空想してみた。「60歳の年輪を引きずって、その折々の車窓から一体何を思うのか? 何を思い描くのか?」っていう興味もあった。
早速時刻表で桜上水駅から60番目の駅を東西南北あれこれ調べてみた。1時間近くの時刻表とネットとの悪戦苦闘(?)の結果、甲府から身延線(甲府〜富士間)の19番目の駅に下部温泉駅がちょうど60番目に当たった。「よし! 身延線は今まで乗ったことがないし、出来たら“信玄隠しの湯”と謳われた下部町営温泉でも浸かって来よう」と思った。
身延線をインターネットで調べた。「(身延線は)決して有名な路線でもなく、人の目を引く古い列車や奇抜な列車が走っている訳でもありません。しかしなぜか懐かしさが漂う静かな路線…雑誌などにほとんど取り上げられない身延線です」と書かれていたのも何か好印象で、面白そうで心を掻き立てられた。
追憶── 各駅停車の鈍行の旅
自宅を出たのはもうお昼に近かった。今日の私の“規定”によれば、駅までの歩きの10分間は0歳だ。駅に向かう歩きの中で、私が生まれる以前の“永遠=無限”の時間の不思議さを思った。地球の誕生を、宇宙の初めを空想してみた。そうすると何ともちっぽけな私の“人生”を思い返すのが辛くなった。
駅に着いて、特急の待ち合わせの時間が5分近くあった。「さぁ〜1歳だ」、追憶を開始しよう。桜上水から最初の駅、下高井戸まで2分ぐらいか? 慌ただしく私はプラットホームに立ったままノートを広げ、何か書こうとした。
広島・長崎に原爆が落とされ、10万人もの大量虐殺のちょうど1年前に、東京爆撃の戦局の厳しい中で私は双子の兄として東京に生まれた。そして終戦の年に私の連れ合いの双子の弟が母に抱かれたまま空襲の中で死んだ。わずか1歳で死んでしまった弟のことを何十年か振りに思った。もし彼が生きていたら、きっと私の人生も180度変わっていたような気がした。
井の頭線の明大前から吉祥寺まで10駅ある。都会の電車は忙しない。慌ただしい乗客の乗り降りの中、吉祥寺に近づくにつれて井の頭公園の森が見え、国木田独歩の『武蔵野』を思い、私が子供の頃に育った世田谷の素朴な田園風景を連想した。切れ切れの思い出はとどまることを知らず、私の“列車”は吉祥寺に着き、オレンジ色の中央線に乗り換え、私は八王子行き鈍行列車の人となって一路甲府に向かった。
八王子で長距離鈍行甲府行きに乗ると、列車の周りは深い緑の山の中を走り甲府盆地に入った。そうやって車窓から移りゆく景色を眺めながら本当にいろいろなことが浮かんでは消え、過ぎ去った青春のあれこれの“蹉跌”を噛み締める列車の旅人となった。
大月を過ぎる頃には、私はもう40歳に近い頃の思い出に浸っていた。27歳でバツイチになり、40歳までの私は独身だった。守るべきものが何もないのをいいことに、私は会社を解散し、6店舗あった店を暖簾分けし、新宿ロフトだけを人に任せて“無期限世界100ヵ国制覇放浪の旅”に出た。
この時代、世界は激動していた。まさに第2次世界大戦以降の東西冷戦構造が崩壊しつつあった。ソビエト支配下の東ヨーロッパでは権力に対する抵抗運動が産声を上げ、難民がヨーロッパの国境に殺到し、ベルリンの壁が崩れかかっていた。とにかく揺れ動く世界に出て、自分が青春時代に夢想した“革命”をこの目で見たかった。「世界はこんなにも激動しているのに、俺は何をしているのだ?」と苛立っていた私は、平和ボケした日本を脱出したかったのだ。世界の状況の中心に行きたかったのだ。そんな一通りのバックパッカーの旅は、5年の歳月の中で私にとってバックパッカー最後の挑戦“サハラ砂漠縦断”をやり遂げ、制覇した国は84ヵ国で終わったが、まだ日本へ帰りたいとは思わなかった。
次のテーマは、それまで続けた無責任な旅人はやめて、ちゃんとした仕事を持って外国で暮らしてみたいという未知への挑戦を開始することだった。私が“骨を埋める覚悟”で選んだ国は、カリブ海の最後の楽園と言われた人口600万の国、ドミニカ共和国だった。スペイン語もほとんど判らないまま私は市民権を取り、日本レストランと貿易会社を5年もの間経営した。サントドミンゴ市の日本人商社会に入会し、天皇誕生日には日本大使館に招かれることも体験できた。
素敵な鈍行列車は甲府盆地を抜け、どこにでもある近代的で何ともつまらない甲府の駅に着き、私は“駅そば”を食べた。身延線の発車時間を気にしながら、「まぁ、よくもあんなことが出来たよな〜、やはり若いって凄いことだ」と実感し、もう戻っては来ない最後の無鉄砲な青春時代(?)を懐かしがった。
なんにもない身延線
▲やっとこさ下部温泉駅ホームにて「私の還暦行事は終わった」と一人記念撮影。
甲府を出た身延線鈍行列車は笛吹川を渡り、富士川沿いの山間を東海道線の富士駅に向かってゆったりと進む。列車は小綺麗で、車内は真っ黒に日焼けした高校生の男女で結構混んでいた。浅い眠りが私を軽く襲い、私はまた自分の追憶の世界に入った。
1990年(46歳)、私はドミニカから完全撤退した。5年に及ぶ世界放浪が終わり、更にドミニカに拠点を構えてから5年の月日が経っていた。レストラン開店5年目にして、私を慕って日本からレストランへ働きにやって来てくれていた元ミュージシャンの“レストランテ・ハポネス”店長(サンスケ君)が突然自殺をした。私の心は張り裂けんばかりとなって、どこまでも蒼いカリブ海に向かって泣き、傷心した。彼をカリブ海の見えるサントドミンゴ市の共同墓地に埋葬した。もう日本では見られない土葬だった。
その年の春、大阪花博にて私はドミニカ政府代表代理、花博ドミニカ館館長として日本に戻って来た。これがドミニカに対する私の最後の“落とし前”であった。これで私の人生を狂わせた“日本嫌い=日本脱出”は終わり、私は一軒だけ残っていた新宿ロフトに復帰することになった。
列車はもう夕焼けの中を疾走している。間もなく下部温泉駅に着き、列車は私一人をプラットホームに残して去っていった。そして私は「終わったな」と一人つぶやき、タイマーをセットしてデジカメで記念撮影をした。
還暦記念として猫を買った
▲「我が輩は猫である。名前はまだ無い」
下部温泉で一瞬この地に泊まろうかどうか迷ったが、東京に戻ることにした。一人ぼっちで見知らぬ温泉宿に泊まることに、なぜか恐怖に似たような感覚が支配したからなのだ。
下部から富士駅までは特急列車に乗った。閑散とした列車内に電灯がつき、窓ガラスにくっきりと60歳の私の顔が浮かんだ。大粒の雨が夜の列車を叩き付け、水滴が窓に何本もの筋となって流れ、私は窓に浮かぶ60歳の自分を見据えていた。
窓ガラスに投射される自分の姿を眺めながら、本当になぜだか判らないのだが、2年前私の目の前で車に轢かれて死んだ愛猫を思った。“新しい人生の出発”(?)に猫が欲しいと思った。その時私は、何日か前に酔っぱらってペットショップを覗き目が合ってしまった猫を買おうと決めた。
新宿に急いだ。深夜のペット屋で目的の猫(スコティッシュ)はまだ檻の中で、私に買われるのを待ってくれていたと思った。カードで支払いをし、ぐちゃぐちゃ説明する店員の説明を遮って、私は生後2週間の猫をこの手で抱き上げた。
私は還暦の日のつれづれに意識的に過去を追憶し、何かを伝えようと思い、旅の列車の中で書き連ねたノートを前に何となくの空虚さを噛み締めていた。
今私はパソコンのキーボードの前に座っている。私がこんなことを書きたくなったのは“還暦”のせいであり、これからさらに生き抜く処方箋を発見したいためであり、この一日、過去60年間の時間の流れが私の脳の中で逆流してくるのを止めようがなかったのだと思う。
人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ。(田山花袋)
ロフト席亭 平野 悠
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