おじさんの眼 第79回

戦争の大儀とは何だったんだろうか?

 また堅い話になってしまうが勘弁して下さい。
 今、私の手元にはアメリカのパウエル国務長官の「(イラクに)いかなる備蓄も発見されなかった。発見することはないだろう」という新聞記事がある。イラクに大量破壊兵器があると主張して“疑わしきは罰する”で国連を無視し、先制攻撃権を主張したのは米国だった。開戦直前に嘘っぱちの数々の証拠を振りかざし、平和への脅威が差し迫っているかを切々と世界に訴え続けたのはパウエルだったはずだ。アメリカと同盟国は開戦を承認するべく国連決議を無視し、戦争に走った。
 日本の小泉首相も御用評論家達も、アメリカの主張を支持した。「大量破壊兵器はいずれ見つかる。戦争は正しい」(正しい戦争なんかこの世に存在しないことは歴史が証明している)と小泉も奴らも言い続けてきた。日本政府もついに、あの悲惨な敗戦のあと脈々と守り続けた「平和憲法」をぶち破って日本が“戦争が出来る国”であることを目指して自衛隊を派遣した。そしてイラクでは何の罪もない一般市民や子供や老人の人々が無数に死んだ。それでもアメリカは撤兵しないという。
▲空爆されたバグダッドの病院あと
 この戦争がアメリカやイギリスの世界制覇と石油利権のための戦争だったことははっきりした。世界の環境問題で最も重要な案件「京都議定書」をいまだに拒否し続ける巨大エネルギー消費国、アメリカ。沖縄では民間地にアメリカ軍事ヘリコプターが墜落し、日本の捜査権すら認められなかった。「これでも独立国なのか!?」と情けない思いを持つのは私だけか? 沖縄のジュゴンが住む辺野古ではまた米軍基地の拡張がされようとしている。それでもブッシュは再び“世界のリーダー”アメリカ合衆国大統領選に当選するだろうという。小泉首相ものうのうとしている。
「何だこりゃ〜」と一人腹が立った。誰も責任をとらない。何十万人もの人が殺されたというのに?

3年目の落とし前

▲ピース連隊旗を羽織ってみる平野さん。
 世界を一瞬にして変えたと言われる“衝撃の9.11”も3年目を迎えた。
 私は残暑厳しい中、世田谷の自宅から自転車に乗って『ワールド・ピース・ナウ〜NO MORE WAR! NO MORE 9.11!』の集会場に向かった。会場である明治公園はガラガラで、ほとんど気勢は揚がっていなかった。この日、世界中の都市では“反戦”デモが行われていた。会場で『週刊金曜日』のT記者と会った。「イラクで戦争はまだ続いていて、日本の自衛隊も今なおイラクにいるというのに何てことだ! 多分、先進国では一番参加者が少ないな。どうなっているんだ! 日本の国民は…」とT記者と私はお互い嘆き悲しんだ。
▲これが恐怖の桃色下痢ら(失礼ゲリラ)だ。平野を探せ!
 デモ趣味者(笑)の私は、自分の掲示板の常連や以前から知っている顔を会場で探したがほとんど見当たらない。いつものデモだったら、私の仲間は十数人になりちょっとした隊列が組めて結構恰好良かったのに…。結局、私と一緒に歩いてくれる人数は3人でしかなかった。
 仕方がなしに、私達はこのデモの中で一番面白そうな“桃色ゲリラ”の集団の隊列に入った。この集団の先頭はDJカーである。小型トラックに乗った若きDJが、それは私がびっくりするようないい選曲をしていて、約4キロの道のりを私はリズムに合わせて踊りながらデモした。デモの隊列が表参道から246号線に入った頃には目の前で流れるスピーカーのサウンドに疲れ、隊列から離れて前のおじさん、おばさんの上品な隊列に入ってみた。何とこの集団は“賛美歌”を歌っていた。前の隊列は賛美歌、その後ろはロックだ。そのアンバランスさが何だかとてつもなく面白く感じられた。

3年前、私は9.11直後のNYにいた

 初秋の土曜日のけだるい昼下がり、ビールの酔いが心地よく秋風にさらされ、私はその賛美歌隊の音色に聴き入り、ふっと、この同じ賛美歌を3年前NYを襲ったテロ直後の「ユニオンスクエアー」でも聴いたなと思った。同時多発テロ直後の広場には、無数の蝋燭と星条旗と“行方不明者探し”のチラシの渦の中、多分キリスト教団体であっただろう人々が広場にひざまずき、鎮魂歌を歌っていた。
 私は3年前の9.11同時多発テロ直後にニューヨークに飛んだ時のことを、周りの沿道を歩く平和そうな市民の街の風景と合わせて一人ぽつねんと思い出していた。
 3年前の同時多発テロの次の日、深夜帰宅した私の目の前で愛猫が車にはねられて死んだ。まだ生暖かい血だらけの猫を抱きながら、私は道路の真ん中で呆然と立ちつくしていた。その日から私はタバコをやめた。そしてなぜか突然NYへ行こうと思った。
 NYでは、アメリカの巨大な悲しみと怒りのエネルギーが私を襲ってくるのをどこかで意識していた。私がNYに飛んだのはケネディ空港が再開されてすぐだった。再びの航空機テロを警戒して、私が乗った日航ジャンボは20人程度のお客しかいなかった。ジャンボがケネディ空港の上空に差し掛かると、2機の米空軍戦闘機がスクランブル発進して着陸まで護衛しているのがジャンボの窓からはっきりと見え、私は緊張した。
 この“同時多発テロ”直後のNY訪問記事は3年前の小誌にレポートしているので詳しくは書かないが、あの全世界の富の象徴と言われたツインタワーが崩れ(私はこのツインタワーが大嫌いだった)、グランドゼロに訪れた時にはこの焼けただれたツインタワーの下に3万人近くの人々がまだ眠っていると言われた。
 私はNYに住む友人の名工大教授S氏の案内でいろいろな集会に参加してみた。私が日本から持ちよった「このテロの根本的な原因はアメリカの中東政策にある」という論理を不用心に持ち出した時、こてんぱんにみんなから罵倒された。
 陽気な表情の消えたマンハッタンはその時のアメリカを象徴していた。おびただしい軍隊と厳つい私設警備員は、当たり前とばかりに無造作に通行人の鞄の中まで探る。街角には星条旗の氾濫と「ゴッド・ブレス・アメリカ」(アメリカに栄光あれ)の陳腐なナショナリズムの嵐の中、私は信じられないほどの異様な感情の切れ方をしていた。
 摩訶不思議な巨大なオーラがマンハッタンを支配し、深夜のアイリッシュ・バーで後から後から出てくる涙を拭いようもなく、私は嗚咽していた。そして、「テロは絶対に許せない」から「アメリカの報復もやむを得ない」に同化しすり替わってゆく自分の意識を不思議に見つめていた。
 今のNYは、新聞報道によると“反戦”一色だそうだ。20万人規模の反戦デモが繰り返されている。だが、今私と同じように“反戦デモ”に参加しているニューヨーカーも、9.11直後は「アメリカの報復もやむを得ない」と思っていたに違いないと思った。
 約4キロのデモが終わり、私はまた一人になった。閑散とした夕暮れの明治公園でぽつねんとし、「うん、落とし前は終わったな」と何かしらの空虚さを噛み締めながら、私は重い腰を上げ“魔界都市漂流街・新宿歌舞伎町”に自転車で向かった。

“サンハウス復活”と“らもはだ 最終回”

▲絶叫する柴山俊之…ナンセンス〜!異議なし〜!
 今夜の新宿ロフトの出し物は凄い! と一人つぶやき、夕刻に新宿通りの「味源」で自転車を止め、味噌ラーメンを食べながらスケジュールに再び目を落とした。
『THE COVER』と題されたイヴェントは、アナーキーの仲野 茂のプロデュースだ。何とそこには総勢20人にも及ぶ表現者達の名前が列記してある。その中には柴山俊之、鮎川 誠、奈良敏博、坂田“鬼平”紳一らの名前がランダムに書かれてあり、このラインナップを見たら昔のロック・ファンならぶっ飛ぶはずだと思った。だってこれって思いきりあの伝説の、めんたいロックの元祖“サンハウス”じゃないか!? カヴァーだろうが何だろうが、このメンバーが揃っていて“サンハウス”をやらないわけがないと思った。
 早速店に電話を入れ、“サンハウス”のタイムテーブルを聞くと出番は9時過ぎからだと判った。時間がまだ早いので、新宿ロフトに行く前にプラスワンの『らもはだ 最終回』を覗いてみた。
 中島らもさんは大麻でパクられ、全く反省の言葉すらないまま(笑)7月15日深夜に出先の階段から転落、その治療のため入院し、26日死去した。もう何回もプラスワンで『らもはだ』というイヴェントを開いてきた斉藤プロデューサーがらもさんが死んだ日、事務所の階段のところで一人泣いていたのを目撃したことがあった。
 私はらもさん本人と話したことすらないのだが、何かそのことが印象的でプラスワンに行くと、らもさんという主人公がいないステージで次から次へと思いもかけない大物ゲストが現れ、和やかな催し物になっていた。松尾貴史さんが突然「ブッシュのバカ!」って叫んだり、鮫肌文殊さん達がらもさんの思い出話に耽ったり、大槻ケンヂさん達が音楽をプレゼントしたりで、“面白らもさんの追悼ライヴ”らしくみんなニコニコ明るい雰囲気のライヴを垣間見た。「やっぱりらもさんってみんなからこれだけ愛されていたんだな〜」ってつくづく思った。「らもさん、本当にプラスワンを愛してくれてありがとう。ご冥福を…」と心の中で思った。
▲元祖めんたいロック“サンハウス”
 しばらくして私の足は歌舞伎町のネオンと雑踏の中をかいくぐってロフトに向かった。ロフトに着くと、ちょうど柴山俊之が若い連中を引き連れ、今流行りの(?)コラボレーションの真っ最中だった。
 その後次々と豪華セッションは続いた。鮎川 誠&シーナのセクションもバックは若い連中だったし、ホストの仲野 茂も鬼平さんのドラムと下山 淳のギターの中で気持ちよく唄っていた。
 その昔、新宿ロフトを支えてくれたミュージシャンも今はみんないい親父になってしまって、しばし私は何となく感無量の世界にいた。

みんな忘れていなかった9.11

 7月に実現した伝説のバンド“ルースターズ”の復活(?)に続き、この歴史的な“サンハウス”復活(?)レポートは原稿枚数の関係もありここで書くことは無理なのだが(私の『さすらい人写真掲示板』を見て下さい)、さて会場ではあの偉大なサンハウスの演奏も終わり、最後は『THE COVER』恒例、エンディングの大セッション大会だ。
 20名近くの音楽家がステージに並んだ。何とも驚いたことに、その豪華セッションの間奏の間に一人の若き表現者が現れ、突然今朝の朝日新聞の切り抜き記事「ピート・ハミル(ジャーナリスト/作家)に聞く」のインタビュー記事を演奏の合間に読み上げた。
「NYの事実…テロの衝撃は、160もの言葉を話すNYの人種を含めた多様性が克服したんだ。…ひどい状態だが、自分の居場所はここだ、だから何かしなくっちゃという考え方につながる。米メディアのイラク報道は私の人生で見た最悪の一つだ。…その日ユニオンスクエアーには尋ね人の写真を掲げた人や住民が自然に集まった。連帯感があった。男が一人サックスでブルースを吹いている。奴隷制という最悪の状態から救いを求めた音楽だ…」
 それを聞いていた私は思わず「すごい!」って思った。ここにいる老いも若きロッカー達も、9.11とは無縁でないことをちゃんと判っていたんだよなって思った。
 そんなたくさんの感動を胸にしまい、私はやはり打ち上げにも顔を出さず、自転車に乗って駅に急ぐ酔い客の合間をぬって深夜の歌舞伎町を後にし、いつもの銭湯に急いだ。
 何とも「3年目の9.11」は私にとって感激深く長い一日だった。

ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→