ROOF TOP 2005年2月号掲載
 …こんな感じで2005年は明けたのだが…
斉藤さんファミリーと。私の両隣 斉藤さん(左) 横山 (右) ▲

思考停止な世の中と自分

 2005年も明けて、多くの人との新年の挨拶もあって、「さて、平野さんは今年どんなテーマで騒ぐんですか?」という若い人から好奇な切り返しの質問が来ることが多い。そのたびに私は少々慌ててしまう。今年のテーマとか展望とかが右も左も真っ暗闇なこのご時世、“希望とか、今年はこれはだけはやっていきたいな”っていう新年いつも思うことがいくら考えても何も出てこないのだ。もう私の周りの同年代はリストラや倒産や定年が現実問題となって、そして気がつくとこの何十年もみんな一人でバラバラになって生きてきたのだと気がつく。冬のキラキラするカーテン越しの太陽を浴びながら、私はそんな悶々とした正月を送っていた。

 1月15日の朝日新聞で、作家の吉岡 忍さんが『自ら動く人間を育てよう』というエッセイの中でこう書いていた。

「世の中動かない。止まっている。使われる人間は寂しい。一人でバラバラに生きることしか知らないから、リストラや倒産、定年でやめたとたん友達は散ってゆき、一気に萎えてしまう。そこに十数年来の景気低迷、大規模災害、犯罪の多発、社会保障制度の破綻、米政府に引きずられっぱなしの戦争協力、…個々ばらばらに使われることしか知らない人間にはどれも手も足も出ない問題ばかりである。自分からは動かない、動きたくない、動けない大人達は傍観を決め込んでいる…」と。

 ふっと気がつくと、このところあらゆる場面での“思考停止”に陥っている自分を発見する。思考停止とは簡単に言ってしまえば“考える”という作業をやめてしまうことだ。すなわち、そのことに対する判断を放棄して既成の判断を無批判に受け入れてしまって、いつも成り行きに任せてそこの“安全地帯”(実は安全でも何でもないのだが…)に逃げてしまう状況のことなのだと思う。

 この思考停止を克服する為の姿勢としては、“むき身の自分をさらけ出し、突っ込まれ叩かれながら考え続けること”なのだろうが、そんなめんどくさい“議論”(ディベート?)はやめて、とりあえず「そうですか? あなたの気持ちも良く判りますよ」という、まず癒しの言葉の前ふりというか「私はあなたにとって安全な人間ですよ」というところから話は始まり、当然そんな議論だから中身はあまりなく、最後は「まっ、いいか」という中途半端なお話で終わってしまう。

 確かにこの国はとんでもない方向に突き進んでいると思う。“戦争へと突き進み、国民を徹底的に監視する暴走国家日本…なぜこんな社会になってしまったんだ?”という苛立ちは、“では、これからどういうスタンスで生きていけばいいのか?”という命題にぶち当たってしまい、座骨神経痛の私の身体はやはり動きそうもないのだ。

 正月早々、獄中20年非転向で戦い抜いた塩見孝也氏(元赤軍議長)から電話で言われた「なっ平野、若い奴も中年も動かない、だからだな〜権力との戦い方を知っている俺たち世代が捨て身になって動かにゃ〜この国は救えんのだよ〜」という言葉が突き刺さってくる。「でもな〜、もう俺たちは棺桶に半分足を突っ込んでいる世代だぜ。60、70年代のあの栄光ある運動を壊滅させてしまった犯人だった訳だし、もう俺たちが先頭切って運動する時代ではないと思うよ。若い奴らが『今のままでもいい』って言うんだから、もう知らんよ。わたしゃ、公安に付き回されたり、デモをやってお巡りにぶん殴られるのはもういやだよ」とは言うのだが、やはり今年も、日本の成り行きを毎日怒りながら過ごしていくのかと思うと悲しくなってしまう。“政治とか国の成り行きなんか無視する生き方もあるわい”とは思うのだが、やはりどこかで、あの60数年前に日本が無謀な戦争に突き進んでいったことが頭によぎる。そして戦後、双子の兄弟として育った私はかけがえのない弟を亡くした。医者は居ない、薬はない、ミルクはない中で私の弟は母の手の中で死んでいった。

 「本当に私たち庶民は、日本軍は絶対負けないと思っていたし、最後には神風が吹いて鬼畜米英をやっつけてくれると信じていたの。政治家や軍人、マスコミに躍らされた私たち一人一人が馬鹿だったのよ。今から考えると悔やんでも悔やみきれない。なぜあの時、私たち一人一人が身を挺して戦争に反対しなかったんだろう? って…」という死ぬ前の母親の言葉がいつも私の脳裏から離れずにいるのだ。


杜の都・仙台は雪模様だった

▲斉藤さんの苦労で地方紙にまで登場させて貰った

 今年1月11日。仙台のライブハウス「パークスクエア」の斉藤 良さん(イベン都仙台を熱く語る会)の招きで、いわゆるトークライブを行った。「ライブハウスの原点と未来〜新宿ロフト・ロフトプラスワン・そしてネイキッドロフト」という誰が決めたか偉い大げさなタイトルで開催されることになった。

 私と同年代の斉藤さんは、あの『ロックンロール・オリンピック』を開催し続けた人であり、ロックのライブハウスを続けながら、仙台の文化を発信し続ける為に月何度かのトークイベントを開催している仙台の著名な文化人だ。我がロフトとはほとんど親戚付き合いの関係にある人でもあるのだ。

 何とも私にとっては初めての出張トークである。だからまず、「果たして2000円もの大金を出して私の話なんか聞いてくれる人はいるんかいな? ましてやお山の大将でいられる東京とは違って仙台で…」という不安があり、実は相当びびっていた。

▲雪景色、好きだな。

 1月11日の昼過ぎ、東京駅から東北新幹線に飛び乗る。東北の表玄関・仙台と言っても、新幹線に乗れば約2時間で着いてしまう距離なのだ。重い今にも泣き出しそうな曇り空の東京を出て、郡山あたりから車窓はホワイト全開の雪景色となった。


 車中、一人ぽつねんと「果たして俺は今日何を話せばいいのか?」てなことをしばし考えてみた。ライブ居酒屋のロートルおやじが歩んできた歴史などたかが知れている訳で、わたしゃ、みんなの前で語れるほどのものは何も持っていないと実感したし、何度も“役不足”という言葉を噛みしめていた。確かに途中いろいろあったが、30年以上にもわたる“ライブハウス”経営を思い返してみるいい機会でもあるな、と感じていた。

 なぜにもこんなに長いスパンでロフトを経営していたんだろうか? 私の周辺にいたロック教の連中と同様にロックを心底愛していたのだろうか? “ロックこそ我が人生”みたいな意識があったのかどうか…と自分自身真摯に突き詰めてゆく作業をしてみた。だが…「こんなおかしな時代に、ロック(若者に置き換えてもいい)は一体何をしているんだ!」と問いつめても何も出てこない意識の貧困さに悶々としている自分があった。相変わらず私は70年代から80年代の、時代の最先端を切り開いていた先鋭的で面白かった日本のロックやパンク・シーンを思い返すしかないことを知った。

▲これが恐怖の仙台名物「牛タン定食」

 私を運んでくれた列車は、小雪の舞う仙台駅に滑るように到着した。仙台のホテルでしばしの休憩を取って、夕刻トークの会場のライブハウス「パークスクエア」に着くと、もうプラスワンの横山はPAさんとライブの準備の真っ最中だった。会場では斉藤さんが待ち構えていて、「平野さん、仙台名物牛タンを食べに行きましょう」と言われ、牛タン専門店に連れて行かれて何とも苦手な牛タンの夕食を食べた。

▲なにやらマル秘映像の数々が上映された。

 食事が終わって会場に着くと、何と50人近くのお客さんが来ていた。多分必死になって客集めをして頂いたであろう斉藤さんには頭が下がる思いだった。ちょっと“予定調和”っぽかったけれど、プラスワン横山の百戦錬磨の司会は絶妙だ。私はただ横山のテンションと進行に合わせていけば良かった。ほろ酔い加減の中、ライブは何事もなく終了した。プロデューサーの横山が昔のロフトで行われたバンドの貴重なライブ映像などをあれこれ披露してくれて、来て頂いたお客さんもそれなりに喜んでくれたようだった。仙台の仲間にただ感謝。


歌舞伎町で知り合った非情な友達

 昨年、クマシノ伍長という不思議な男と友達になった。私にとっては60歳を過ぎてから初めての友達ゲットだ。

 彼は重度の身体障害者であり、アクティブに行動する青年でもある。「わしらだって、いっちょ前に性欲もあるし、エロビデオは見たいし、風俗だってラブホにだって行きたいよ! 行かせろ〜!」って偉い張り切っている奴だった。

 わたしゃ、今までいわゆる“身障者”と友達になったことがないので、この友達をとても大事にしている。

 一緒に酒を飲んだり、この写真のように歌舞伎町の裏ビデオを探しに行ったり…。


 プラスワンは車椅子の彼にとっては結構居心地のいい空間だったようだ。だからプラスワンにはクマシノの特別席まで用意してあるし、従業員を始めみんなから好感を持たれている。
 そんな彼に…わたしゃ、ある挑戦をしてみた。
 1月3日の『プラスワン新年会』の帰り、「おい、クマシノ、お前川崎から車で来ているんだってな、今晩俺の家まで送っていけ! くだらん好奇心かも知れないが、クマシノがどうやって車に乗って運転するのかを見たいんだよ」と言ってやった。クマシノは「そんなの見たいんすか〜、いいっすよ」って気軽に引き受けてくれた。ちなみにこの車椅子の値段は40〜50万円するそうだ。


 車椅子から運転席まで行くのが7分、 運転席で肘とハンドルを固定し、ブレーキ、アクセルを固定するまで5分以上かかった。思わず「凄いな〜、クマシノは一人こういう作業をして初めて自動車に乗ることが出来るんだ」と思ったら、何か知れない言いようのない感動がそこにあり、一瞬私の目が潤んだ。「俺たちが日常やることの10倍以上はかかっているな」と思ったら、何か適当に酔っぱらって、「おい! 車で送って行け!」って言う自分が恥ずかしくなった…けど、クマシノも変な気を遣われるのはまっぴらとばかりに平然と運転し始めた。「やっぱあんたらは凄いよ! たくましいよ! その“生き様”とても素敵だよ!」って思った。

 手足が不自由な人が一人で車に乗り、運転するってどれだけ大変なのか、一度私も見て体験したかったし、何か、身障者に私の家まで送ってもらうって、とても犯罪的な気がして、言いようのないスリルがあるという感じが私の脳裏を支配して…変な感じだったな〜。そう、一つ一つの作業を見ていると「こりゃ〜大変だな」と思えた。出来たら代わってあげたいと痛切に思った。

 クマシノの車の運転はうまい。見事だ。深夜の桜上水まで送ってもらい、車の赤いテールランプを見送りながら「今日も良い体験をしたな、ありがとうクマシノ」って感謝した。

 君も機会があったら一度クマシノに家まで送って貰うといい。 きっと何かを得られると思う。

 ハンディとか感動とか、人間って何だろうなとか、生きるって…とか、クマシノの車に乗ってそんなことを感じられたら、クマシノも送ってあげる甲斐があるっていうもんだ、と思うのだが…。

ロフト席亭 平野 悠

↑このページの先頭に戻る
←前へ   次へ→