ROOF TOP 2005年3月号掲載
 ロフト35年史戦記
 …千歳烏山ロフト編 (1971年オープン)
おじさんの眼アーカイブス:中央、両手に花の会社員時代の平野 (髭無) ↑

ロフト35年

写真1

 この連載コラムも84回目にもなる。ロフトプラスワンのオープンと共に書き始めて途中何回かの休みがあったが、もう10年近くも毎月書き続けていることになる。何とも息の長い話だ。

 息が長いといえば、このロフトプラスワンも今年でオープンから10年の節目を迎える。おっととと…まだあるぞ。新宿ロフトも来年で30周年になるのだ。ついちょいと前に20周年ライブを武道館でやったと思ったら、もう30年も経っちまった。更に加算すれば、ロフト1号=千歳烏山店誕生(1971年)からもう35周年にもなるのだ。わたしゃ何と35年間もロフトに草鞋を脱いでお世話になっているのである。

 しかし「だから何なんだぁ〜」という声が若いロッカーの奴らから聞こえてきそうで、「権威とか伝統とかに依拠するなんて最低〜!」と言い続けてきた私自身の歴史もあって、私は時折身の置き所がないような感覚に襲われる。

「老兵は静かに幕を…」とは思うのだが、今さら行き場所のない私はロフトのみんなの迷惑も顧みず、まだまだロフトに居候を続けることになりそうだ。


春を迎えるに当たって ロフトの歴史を執筆しようと思った

 長いことロフトの歴史を一冊の本にまとめてみたいなって、それは漠然とではあるが思い続けていた。何とも35年の歴史があるロフトなのだ。そんな簡単な作業ではないし、ロフトが始まる以前の経緯(いきさつ)を含めると約40年近くになってしまう。だからなかなか書くことができないでいた。

 小雪のちらつく今年2月の寒〜い日の深夜、新宿からひたすら愚直に自転車を漕いで(片道45分)自宅に帰ると時計はもう12時を過ぎていて、誰もいない書斎の机の上には愛猫一匹が静かに私の帰りを迎えてくれていた。

 同じ机の上には、送られてきたばかりの『「噂の真相」25年戦記』(岡留安則・著/集英社・刊)という本がぽつんと置いてあった。

「そうか? “噂真”の岡留さんが25年なら、俺はロフト35年だな?」なんて突拍子もなく思った。そんなことがきっかけとなって「とにかく、俺も書くっきゃない!」と何故か思った。だから毎日ノートパソコンをリュックに背負って家を出て、時間が出来ると漫画喫茶やコーヒーハウスに入り込んで、せっせと原稿を書いているのだ。

 とりあえずロフト1号店である「烏山ロフト」のことを思い出しながら書いてみた。出来たてホヤホヤの原稿だけれど、是非読んで下さい。


かくしてジャズ喫茶・烏山ロフトは開店した

▲ 残念ながら残っているのは、このチラシ1枚限り。
 思い出は当時関わった全ての人の中だけに……

 東京は京王線の千歳烏山駅のはずれに7坪の木造モルタルの店舗物件を見つけた。1970年末のことである。この千歳烏山に初めての店を出店した理由は、ただ私の住んでいる自宅から近かったということ、そうすれば私達の幼なじみや同級生が来てくれやすいといった単純な理由でもあった。

 ロフト1号店「烏山ロフト」がほんのささやかに完成しオープンしたのは、1971年の3月だった。東京は春一番の風が心地よく吹いた日だった。その時の私の意識は、過去自分が関わったヤクザな革命運動とも左翼とも縁を切るつもりだったし、そんなこともう俺には関係ないと思った。まるっきり喫茶店経営なんて不慣れな私は、ただ目の前にある課題(店を作ること)の一つ一つを片づけるしかなかった。

 1971年というと、高度経済成長の波に乗って脱サラがはやっていた時期でもあった。町ではかけそば一杯、コーヒーがそれぞれ100円、週刊誌が80円の時代でもあった。7坪の家賃が1ヶ月=3万5000円、店内には当時でいえば一応商売ができる4チャンネルのステレオを備えた。店の名前は「烏山ロフト」とした。

 この7坪の空間が私のお城になった。毎日、朝11時に店に入り、まずはアナログ・レコードに針を落とし、それからサイフォンでコーヒーを沸かしながら店の掃除をする。コーヒーを入れるのには自信があった。誰もいない店内、いつも開店時はコルトレーンのサウンドと2人きりだった。私は最初のお客さんが入ってくるまでのこのほんの数十分の時間をとても愛していた。隅々まで水を打ったように静かな店内、生のコーヒーの香りが心地いい。好きなフォー・ビートのリズムが心地よくスイングするなか、入れ立てのコーヒーを飲みながら最初のお客を待つ。気の利いたメニューなんてなかった。コーヒーとウイスキーの水割り、焼きそばぐらいしか作ることができなかった。しかし、当時のジャズ喫茶なんてそんなものだった。


60年代のジャズ喫茶事情…方針転換

 60年代当時、ジャズ喫茶はカウンター・カルチャー(対抗文化)として若者文化を担っていた。

 当時のジャズ喫茶はいろいろな厳しいルールがあった。「おしゃべり禁止」「居眠り禁止」だったり、「2時間以上は追加オーダー請求」なんかの決まりがあり、「ただ客は黙ってジャズを聴け!」といったふうに、店側の「ジャズを聴かしてやるんだ!」という傲慢な姿勢の店が大半であったような気がする。店内は薄暗く、店員は何とも威張っているところがあり、偉そうだった。なかなかリクエストは取って貰えないし、ジャズ・ファンはこうあらねばならないという変な強制があって、ジャズ通しか寄せ付けない雰囲気があった。客はただうつむき加減に席に座り、足でリズムを数えながら文庫本を読むのが精一杯という空間だった。巨大なスピーカーから流れる、耳をつんざく爆音がジャズ喫茶の自慢だった。

 まだ当時の若者にとってステレオを買う余裕なんてなかったし、ウォークマンもなかった時代だ。たとえステレオ装置を持っていても、木造モルタルの4畳半程度の部屋で大きなサウンドでジャズを聴くことなどできるわけがない。まして60年代当時、レコードLP1枚の値段は2000円以上したし、ブルーノートのLPの空輸便は3000円以上もした。当時の大卒の初任給が6万円という時代である。ジャズのLP1枚得るのに肉体労働のアルバイト1日分にもなった。その日アルバイトが終わって日当を握りしめ、輸入盤専門のレコード屋さんによく駆け込んだ。だから1枚1枚のレコード盤が宝石のごとく大切に思えた。

 そんな経緯があったので、ジャズ喫茶はステレオもない、レコードも買えない若者達に支持され、ジャズ喫茶はほとんどの町にはあり、それなりに繁盛し経営できていた。


ジャズ喫茶・烏山ロフトはかくして方針転換した

▲ かつてこの場所に烏山ロフトがあった。「あれから35年だったんだなぁ」と独りむせび泣く私だった。

 お店は何とか開店できたが、2〜3週間もすると一通りの“お祝い客”の波が退けて、店には誰も来なくなった。開店当初は昼間の12時から店を開け、夜の11時頃に店を閉めていたわけだけど、そんな生半可な営業で経営が成り立つはずがなかった。

 お客がほとんど入らない。だから売り上げが悪い。家賃が払えない。売り上げは1日1万円以下の日が続いた。蓄えた貯金はどんどんなくなっていった。私は焦っていた。

 1杯120円のコーヒー代、小さな店内、長時間席を占領する貧乏学生。男ばかりの世界。ジャズ喫茶はほとほとお金にならぬものだと痛感したりもしていた。これではとてもやってゆけないと思い、営業時間を朝の4時までにすると、確かにお酒の売り上げは若干伸びたが今度は夜中に行き場がないチンピラ風の連中が集まってきた。店は酒を中心に売ることによってますます荒んだ場所になった。

 こんな店にジャズなんか聴きに来る若者はいない。店の経営状態は、店員に払う給与さえままにならなかった。毎日「今月で店は閉めよう」とばかり思っている日が続いた。心の中では「また元の出版業界か広告会社に戻りたい」という意識があったのだと思う。客がほとんど来ない店をやりながら、新聞社や出版社の試験を何度も受けたが、やはり就職試験には合格できなかった。

 そんな悪戦苦闘のなか、半年が過ぎた。当時私は27歳で、人生で一番“自分の将来”を考えるようになった。私はそれなりに腹をくくった。そう、「逃げ場はもうどこにもない」と確信したのだ。この“城”で将来を考え、捨て身の勝負をするしかないと無意識に決断をした。「どうしたらお客さんが来てくれるだろう?」といった最大限の課題に自問自答の悶々とした日が続いた。

 ジャズ喫茶・烏山ロフトは、自慢できるものが一つもなかった。圧倒的に少ないジャズのレコード、しょぼいスピーカー・システム、店の立地条件も悪く、かわいい子がいるわけでもなく、美味しいものを食べさせられることもできなかった。これではお客さんが来ないわけだと思った。そして私が出した結論は“ジャズ喫茶経営”を放棄することにした。例えば、私が学生時代によく通ったジャズ喫茶である新宿の「DUG」や吉祥寺の「ファンキー」の営業の仕方を真似るのはやめることにした。

 幸い、烏山の近くに桐朋音楽大学や白百合女子大学があって、そこの女子生徒がちらほらお客さんとして来るようになっていた。私はその女子大学周辺にポスターを貼り、毎日毎日チラシを配った。店内では来るお客さんの一人一人に声をかけ、レコード枚数の少ないことを素直に詫び、私が大してジャズを知らないことを白状し、誠心誠意むき身の自分をさらけ出して一人一人のお客さんに対応した。店内には漫画や同人誌を置き、ガリ版刷りの新聞も作った。お客さんとお客さんが交流しやすいように「落書きノート」という連絡ノートを置き、コミュニケーションができるようにした。

 この「落書きノート」は荻窪ロフトまで続いたが、これは数々の伝説を呼んだ。このノートの主な執筆人は、あの若き坂本龍一氏や『平凡パンチ』などにライターとして執筆していた生江有二氏、当時でも明治大学の全共闘で頑張っていた『日刊ゲンダイ』の二木啓孝氏などがいた。誰もがビックリするような論文やルポ、雑文などが書かれ、それはお客さん同士に語り継がれて、更にはいろいろな面白い常連連中が書き出した。特に生江氏のルポ記事なんか素晴らしく読み応えがあって、感激したものだった。73年、この「落書きノート」はNHKの朝ドラの主題ともなった。この貴重なノート全てが、NHKのディレクターになくされてしまったのは今考えても残念であった。

 私は特に、近くに住む女子大生を大事にした。女性の多い店にすると男の客が必然的に集まってくるという理論は、学生運動やサークル運動の組織論で培った戦法だった。これなら私は得意だった。私は大胆に店外活動を徹底した。野球チームを結成したり、スキー・ツアーもした。お客に野草の専門家がいると、お客さんを連れて「野草採り天ぷらツアー」を企画したり、青山高校や千歳高校の社研の連中を集めて「政治討論会」などもした。そうすると、お店は若者達の溜まり場になっていった。店は繁盛していった。明日の仕入れの費用に困ることもなくなっていった。(以下、次号へ続く)


 私は今、ラップが静かに流れる新宿のネットカフェで35年にも及ぶロフトの歴史を書き始めている。この原稿がいつ世に出るのかどうかも判らない。面白いのか、つまらないのかもよく判らない。この物語が私の過去の歴史であるのか、それとも“運命”であるのかも判らないまま、ただ淡々と書き連ねている。この“書く”という作業を通して、私は何か知らないことを実は発見したいのかも知れないと思った。

 クソ熱過ぎた異常な夏が過ぎ、家の前にある神社の銀杏の巨木が倒れ、しーんとした寒い冬が静かに終わろうとしている。季節は早いもので、もう沿道の草花はその蕾をふくらまして春の訪れをじ〜っと待っている。


ロフト席亭 平野 悠

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