| 公演詳細 | 悠春風春 | 出演アーティスト紹介 |
3月13日(月) 新宿LOFT 「FUUTA PRESENTS LOFTの春二番2006」
出演 加川良 with すぎの暢 / 斉藤哲夫 / よしだよしこ / センチメンタル・シティ・ロマンス / ハンバートハンバート
時間 OPEN 18:00 / START 19:00
料金 advance-3,200yen (+drink) / door-4,000yen (+drink) *2日間通し券=6,000yen (ぴあ前売りのみ)
*チケットはぴあ、ローソン、新宿LOFT店頭にて発売中
*Pコード:219-298 通券:780-623 (0570-02-9999) / Lコード:37735 (0570-084-003)
3月14日(火) 新宿LOFT「FUUTA PRESENTS LOFTの春二番2006」
出演 中川イサト with 武蔵野レヴュー / 大塚まさじ with 長田 (TACO) 和承 / ハンバートハンバート
時間 OPEN 18:00 / START 19:00
料金 advance-3,200yen (+drink) / door-4,000yen (+drink) *2日間通し券=6,000yen (ぴあ前売りのみ)
*チケットはぴあ、ローソン、新宿LOFT店頭にて発売中
*Pコード:219-298 通券:780-623 (0570-02-9999) / Lコード:37735 (0570-084-003)
↑ このページの先頭に戻る
1970年、東京の平野 悠(1)さんも、大阪の福岡風太(2)(私)も、それまで中途半端な左翼運動をカジっていた割には、大阪の「EXPO '70」をネタにかなり高給取りのサラリーマンをやっていました。
1971年3月、悠さんは貯金を元手にサイドビジネスとして、京王線千歳烏山に当時珍しかった山小屋風デザインのスナック「ロフト」を開店しました。
1970年に私は「EXPO '70」の会場で働く世界中の外国人だけが住む団地の管理事務所で英語の通訳をやっており、給料を注ぎ込んで、春(3)、夏(4)、秋(5)と3つのフォーク&ロック野外コンサートをつくりました。
特に、夏の「ロック合同葬儀」の時は、前年の1969年夏に「ハンパク(反戦のための万国博)」が開催され、「太陽の広場」と名付けられた、ただただだだっ広いだけで1本の木立も建造物もない大阪城公園の一角で、バックに大阪城本丸を見上げる場所にステージを設定。更地の広っぱに丸太ん棒やコンパネベニヤ板を運び込んで、キャストもスタッフも一緒になってステージを組み上げました。ビデオテープもカセットテープも存在しない時代に、フトンのシーツを流用して8mmフィルムを映せるスクリーンまで設置していました。
冬には「演劇センター 68/70, 68/71」(6)の黒テント公演ツアー(7)に参加し、「翼を燃やす天使たちの舞踏」(8)という芝居の前にコンサート(9)をつくっていきました。ちょうど1年間を通して、コンサート制作に関してはドシロートの私が“コンサートごっこ”に没頭して、生まれて初めてばかりの数多い出来事を経験していくことができたワケです。
1971年になって、「EXPO '70」1年間の通訳サラリーマンを終えた後、「黒テント・ツアー」で退職金も使い果たした私は、住所不定無職の状態で大阪なんば元町にあった「ディラン」(10)という喫茶店に入り浸って日夜飲んだくれていました。
その頃の「ディラン」は、私がそれまでに関わってきたコンサートやツアーで知り合った仲間達の溜まり場になっていました。私はカウンターのピンク電話のそばを定席にして、「ディラン」に出入りするすべてのミュージシャン達の電話連絡係のようなことを誰に頼まれたワケでもなくやっていました。自宅(室)に電話を持つ人も少なく、“「ディラン」のピンク電話”はそんな人達の事務所代わりにもなっていました。
夜ごと繰り返される酒飲み話から「春になったら、また天王寺の野音にみんな集まってコンサートやろうやないか!」ということで、「春一番」(11)というコンサートがポロッと生まれたワケです。そのまま毎年続けていくことなど、誰も考えてはいませんでした。
1972年の第2回「春一番」(12)には、日本の音楽業界が「第3回 全日本フォークジャンボリー」(13)('71年8月)の盛り上がりをキッカケに“フォーク・ブーム”到来ということもあって、大勢のお客さんが集まりました。
「春一番」は、東京からも日本語でロックを表現するバンドの参加を得て、ライブ・レコード(14)が制作されるようになり、大阪以外に住む人達にもコンサートの実体が少しずつ知れ渡るようになっていきました。
1973年6月、「烏山ロフト」に集まる、こと音楽には口うるさい常連客に煽られて、レコードの音や雑誌等の情報だけでは満足できない悠さんは、生で演奏を楽しめる場所として第2号店「西荻窪ロフト」を開店することになりました。
1973年5月の第3回「春一番」(15)を無事終えた頃に、東京の悠さんから突然私宛てに電話がかかってきました。 「新しいライブハウスを開店するにあたって、オープニング・シリーズにタイトルとして『春一番』を貸してほしい」という依頼でした。 「かめへんけど、せっかくやったら自分で新しいのん考えはった方がカッコええですヨ」と応えながら、チャッカリ私達の「春一番」に毎年出ている友人達を紹介して、出演を逆にお願いしました。
そして、その時、悠さんがつけたタイトルが「春二番」(16)だったというワケです。今回の「春二番」は、実に33年振りの復活です。
今回は「新宿ロフト」('76年10月開店、烏山、西荻窪、荻窪、下北沢に次いで5軒目)開店30周年記念ということで、悠さんの御依頼をいただき、私、風太が3月13日(月)、14日(火)と2daysのプロデュースを担当することになったというワケです。
第2回「春二番」は、33年前の“ニシオギロフト”の再現でもあります。30年前の「新宿ロフト」だって、出演者の顔ぶれは大阪の「春一番」と共通しています。
1980年代に入って、日本の音楽業界の状況はフォークやロックと称されていた音楽が莫大な利益を生む巨大産業へと化けていきます。しかし、音楽が金を生むただの道具として扱われてしまうことに異議ありです。少数の人達の心にE?しか届かない音楽は聴く値打ちがないモノだと決めつけないでください。
自分で詞を書き、それに曲をつけて歌っている人、それも自分の生き様をそのまま正直に表現しようと思っている人達の「うた」を聴いて下さい。
↑ このページの先頭に戻る
加川 良
大学生時代、G.S.風バンドで遊ぶ。'70年卒業後、URCレコード系アート音楽出版に入社。当時“フォークの神様”だった岡林信康(実家は近江八幡のキリスト教会)と実家が同方向だったこともあり、岡林付運転手を担当したこともあった。岩井 宏さん、高田 渡さんの応援を受けてフォーク・シンガーになる。岡林の前座で歌った「教訓I」は、メイン・スターを喰ってしまうこともシバシバだった。
第1回から今に至るまで「春一番」の常連。手指は短いが正真正銘のロックンローラー。ステージはいつも汗にまみれる。ツアーが終わると必ず東洋医学系の処方でボディとスピリットのケア怠りなく、健康には人一倍“気”を入れている。
古くは中川イサトさんとのイノシシコンビ(2人とも亥年生まれ。来年還暦を迎える。Oh! Yeah!)、次が村上 律、長田 (TACO) 和承とスライド系ギターを得意とするギタリストとの2人旅を長く続けている。ここ5年くらいは、名古屋出身で今も名古屋を拠点に活動するすぎの暢と組んでいる。アルバムも2枚発表。ライブ・ステージは必ず専属のPAミキサー(福井としおさん)を伴い、サウンドに抜かりなし。
斉藤哲夫
'70年、URCレコードからデビュー。'72年、URCからファースト・アルバムを発表、ロフトの各店も常連組。「春一番」は'74年から参加。
'80年6月、「いまのキミはピカピカに光って」というCMソングがヒットしたことがある。その頃センチと東名阪から四国までツアーして廻る。哲夫を含めて6人メンバーのバンドとして、ステージ上にヴォーカル・マイク4本を横一列に並べてセットした。日頃はとりあえず譜面台を置いて歌っている哲夫も、ひとつのバンドのヴォーカル担当としてあえて譜面台なしで歌った。「まるでイーグルスみたいやった」とは誰も言ってくれなかったが、スタッフとしてはカッコよかったと今でも思っている。
'05年11月の「高田 渡 生誕会57」では、渡の曲「鎮静剤」を娘「まりちゃん」のピアノ伴奏で歌った。
よしだよしこ
高校生の頃から歌い出す。大阪のURCレコードに似たようなフンイキのエレック・レコードに在籍、「ピピ・アンド・コット」というフォーク・グループとして数々のレコード作品を残す。
グループ脱退後はソロ活動を続け、'70年代はロフトにも度々出演した。'78年の第8回「春一番」に出演、ライブ盤に「風景」(詞・曲:中塚正人)を残す。「ロフト・セッションズ VOL.1」(※)には、ラストショウの徳武弘文がセッション・リーダーをとるバックを従えた「雨はいつか」(センチメンタル・シティ・ロマンスのレパートリーで、コーラスもセンチが務める)の演奏が収録されている。
その後、約1年間アメリカへ渡るも帰国後20年近く歌うこともなく過ぎ去り、'03年6月にファースト・アルバム「ここから」を発表、うたの旅を再開した。2枚目のアルバム「ア・シ・オ・ト」を'06年1月26日発売、ギターとダルシマーを携えてうたの旅も絶好調。
※ロフト・セッションズ VOL.1:女性ばかり6人のヴォーカル(吉田佳子[よしだよしこ]、上村かをる、大高静子[大高静流]、高崎昌子、竹内まりや、堤 遥子)をライブハウス・ロフトゆかりのミュージシャンがバックアップして創られたオムニバス・アルバム('78年発表。'97年にCD化されたが、現在は廃盤)。1曲ずつセッション・リーダーを設定して、それぞれ曲ごとに独自のユニットを構成して収録。ロフトによく出る若手ミュージシャンが初めてスタジオ・レコーディングを経験できた。
センチメンタル・シティ・ロマンス
'73年、第3回「春一番」でステージ・デビュー。リーダー告井延隆はそれ以前から加藤登紀子さんのバッキングをやっており、他のメンバーも次々とバック・バンドに参加していった。バンド結成当初から関わった私も、ロード・マネージャーからロード・アンド・ステージ・マネージャーへと進化していった('86年6月脱退)。
「ニシオギロフトの春二番」では初日に出演。以来、“オギクボ”“シモキタ”はもちろん、「新宿ロフト」ではまたしてもオープニング・セレモニーに出演した。
'80年代に入って日本のロック・シーンがドンドン“タテノリ化”していく中、名古屋のノンビリ・バンドはアメリカ西海岸風味を変えることなく、新宿ロフトに出演し続けていた。'99年にロフトが歌舞伎町に移って以降も出演している。'06年3月13日の出演メンバーは、告井、中野督夫、細井 豊+野口明彦、瀬川信二。
'75年、CBS・ソニー洋楽部より待望のレコード・デビューを果たすのですが、大金を注ぎ込む宣伝のやり方等をめぐって「ニューミュージック・マガジン」(当時、現「ミュージック・マガジン」)編集長の中村とうようさんの猛攻撃を受けます。その時、新聞広告(文章は「ロッキング・オン」の渋谷陽一さん)まで出して弁護にまわって下さったのが「ロフトの平野 悠さん」だったのです。
中川イサト
御存知、アコースティック・ギターの大家。「五つの赤い風船」('67年結成、高校生の有山じゅんじが参加したこともある)のうちのひとつがイサトさんで、オリジナル・メンバー('69年に脱退し、松田幸一、瀬尾一三、金延幸子らと“愚”を結成)。'70年「演劇センター黒テント・ツアー」に参加。'71年、第3回「全日本フォークジャンボリー」では加川 良のバック・バンド(ジョニー・キャッシュ風味)を結成、初めてステージでエレキ・ギターを弾く(EB: 村上 律、Ds: 福岡風太)。URCレコードよりライブ盤が出るも「そら、アカンど!」と大激怒。ドラムがドシロートですモノ。
'72年、「律とイサト」結成。アルバム1枚発表後に2人で住んでいた三鷹台のアパートで、深夜殴り合いの大ゲンカを演じてアッ気なく解散。'76年から'89年まで13年間ギター・スクールを開校、押尾コータローをはじめ数多くのギタリストを育てた。ソロ活動を続ける傍ら、多くのレコーディングやセッションにも参加。'73年から'77年にかけて5作のソロ・アルバムを発表。中でも、'76年に大阪のオレンジ・レコード(代表は「春一番」のアイカタ・阿部 登)から発表した「鼻唄とお月さん」は、神戸三宮のセンター街にあった「サンダーハウス」というライブハウスで収録された2枚組('75年12月にレコーディング)。加川 良、金森幸介、大塚まさじ、西岡恭蔵、シバ、いとうたかお、長田 (TACO) 和承といった人達すべてのバックを担った。
'80年代はギター・ソロ演奏を中心にツアー。'90年代からは海外に出かけたり、海外からギタリストを招いて国内を廻る。'98年、26年振りに新録の「律とイサト」セカンド・アルバムを発表、「武蔵野レビュー」を組むキッカケとなる。'05年、高田 渡逝去を期に再び「うた」にこだわったライブ活動へ進んでいる。同年11月、高田 渡の作品を後世に永く伝えるべく、「高田 渡 生誕会57」を企画制作。58、59……と続いていくことを願いつつ、来たる'06年には自身の60才を記念して、松田 ARI 幸一さんと「還暦ツアー」を計画している。メッチャ元気!
大塚まさじ
第1回「春一番」の拠点となった「喫茶ディラン」のマスター。喫茶学校で磨いた料理のウデは今も健在。ツアーの先々でも度々そのウデを打ち上げで披露している。
'70年冬、黒テント・ツアーの途中、芝居にエキストラ出演の時にすっころんで前歯を欠いた。以来、黒テント設営の折には障害者を装って重労働を拒否。「サボリの歯欠け」と揶揄されていた。
長田 (TACO) 和承(昔はタコヤキと呼ばれていた)は奈良・法隆寺のそばで生まれ育つ。16才で「春一番」スタッフに参加。酒の味を覚え、生ギターの魅力に取り憑かれて遂に放校。プロのミュージシャンを目指す“大塚ちゃん”とは30年以上のコンビ。
'06年2月25日、“TACO”と2人だけのアルバム「OSAKA LIVE」を発売。ジャケット写真は久し振りに糸川燿史さんが担当。
ハンバートハンバート
佐野遊穂(ヴォーカル、ハーモニカ)、佐藤良成(ヴォーカル、ギター、ヴァイオリン、マンドリン)。
'05年、第20回目の「春一番」に初登場。'99年春の活動開始以来、'06年4月にシングル、8月には5枚目のアルバムを発表する。2枚目のアルバム「アメリカの友人」('02年9月10日発売)では佐久間順平がプロデュース。順平は、大江田 信と組んだ「林亭」として、また、高田 渡、キヨシ小林、大延珍太と結成した「ヒルトップストリングスバンド」のメンバーとして「春一番」に何度も出演している。「林亭」の頃は各地のロフトにも出ている。
ホームグラウンドである下北沢「ラ・カーニャ」では、ツアー等で東京を離れている時以外、毎週木曜日の夜9時過ぎから酔っぱらい客をおちょくりながら歌っている。酔いにまかせて歌い出す常連客(金子マリとか)に無理矢理伴奏をやらされることもある。勉強! 勉強!
↑ このページの先頭に戻る
|