1945年の終戦からこれまで、確かに日本は直接的に戦争をしたことはない。しかし、戦争は常に身近なものとして存在してきた。「平和ボケ」という言葉があるが、それはあまりにも社会情勢に無関心な人の言葉であると思うし、自衛隊という世界でも有数の常備軍を持ち、イラク戦争ではついに自国軍を海外派兵するにまでに至った日本は、もはや非戦闘国とはとてもいえない。「戦後なんて一度もない」と言ったのは『忘れてはイケナイ物語り』等で知られるイラストレーターの黒田征太郎だが、少なくともイラク戦争が始まった2003年以降、日本はアメリカ合衆国同様、“戦時中”と言うべきだろう。
ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』の主人公・奥村和一の人生にも、“戦後”という言葉はまだ訪れていない。あるいはこの先もずっと……
大正13年生まれの奥村は、1944年に少年兵として徴兵され、翌年、中国で敗戦を迎えた。大陸からの引き揚げが進む中、奥村が所属した山西省の部隊はなぜか中国残留を命じられ、日本軍部隊の一員として中国の内戦を戦うことになった。1948年に人民解放軍の捕虜となった後は強制労働で中国国内を転々させられ、6年後にようやく帰国を許される。しかし、奥村にとっての戦争はまだまだ終わらなかった。
長い抑留生活を経て帰国した奥村たちを待っていたのは、“逃亡兵”という扱いだった。さらには“中共帰り”のレッテルを貼られ、公安にまでマークされた。残留を命じられたからこそ、敗戦後も日本軍として戦い、多くの戦友が“天皇陛下万歳”と言って死んでいったのに、なぜ自分たちは逃亡兵と言われなければならないのか? 奥村ら元残留兵は軍人恩給を求め、国を相手に裁判を開始した。それは、死んでいった戦友達の名誉をかけた戦いでもあった。
歴史の闇に葬られようとしているこの“日本軍山西省残留問題”。これを知った映画監督の池谷薫は、メディアでもほとんど注目されていないこの裁判を見て「これは今すぐに撮るしかない」と即座に決意したそうだ。池谷監督の撮影は2年間に及んだが、このような映画にスポンサーがつくことはなく、製作資金の一部は全国の有志から寄せられた支援カンパでまかなった。
裁判は、2001年に13人の元残留兵が東京地裁に提訴したが、一審、二審とも原告側の敗訴に終わり最高裁に上告した。この間に、4人の原告が高齢で亡くなってしまう。それはまるで、あの凄惨な戦争の貴重な証人達が失われていく過程であるかのようだった。奥村は、中国残留が軍の命令だったという証拠を探すため中国を訪れる。そして、山西省の公文書館で衝撃の事実を突き止める。当時、軍司令官は中国国民党とある取引をしていたのだ。
この訪中はまた、奥村にとって、戦争とは一体何なのかを知るための旅でもあった。それは奥村がずっと記憶の中に封じ込めていた忌まわしい記憶──“殺人の記憶”を呼び起こすものだ。かつて奥村は“初年兵教育”の名の下、中国の村人を相手に銃剣で刺殺したことがあった。それはまさに“普通の人を殺人マシーンに変える”狂気の訓練だった。しかし、かつての処刑所を訪れ、中国人の証言者に会った奥村は、予想外の感情に自分が支配されていることを自覚する。それは、自らの中に封印していた軍人としての恐ろしい顔だった。
池谷監督のカメラは、揺れ動く奥村の感情を冷徹に映し撮る。「戦争がなかったら郷里の新潟で平凡な商人になっていた」はずの奥村が、遠く中国の地で、上官の命令に従うままに殺人者となっていった過程。奥村の体には今も無数の砲弾の破片が埋まっている。自分をこんなふうに変えてしまった戦争とは一体何だったのか? 映画の中で奥村は終始問い続ける。
歴史の真実を見極めるのは非常に難しい。なぜなら歴史とはその時々の為政者や権力者の都合のいいように書き換えられ??てきたものだからだ。その過程で都合の悪いことは隠蔽され、そして忘却される。しかし、どんなに隠蔽されようとも、それが真実であれば、事実は忘却の棺桶をつき破って外に出てくるものなのかもしれない。80歳を越えた奥村の執念が白日の下にさらした戦争の真実。“戦時中”を生きる私たち日本人はこのことを何度でも考える必要があるだろう。
この映画は、当初公開の見込みが立たない中、試写を見た人たちがボランティアで普及活動を行い、ついに一般公開に漕ぎ着けたという経緯を持つ。今回の公開を心から喜ぶのと同時に、一人でも多くの人にこの自主映画を観て欲しいと願う。
(文:加藤梅造)
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