人生のピークがまだっていうのは楽しいよ
──SIONさんにとって、この20年間はあっという間でしたか?
SION:やっぱり、過ぎたら全部早いよ。ホントに早い。俺も昨日今日のバカじゃないから、別にスーッとここまで来たわけじゃない。みんなと同じくらいにいいこともあれば、ダメなこともあった。それを一個一個つまんだら距離はあるんだろうけど、今ここにいて20年ってなった時、ホントに早いよ。歳とっていくとドンドンまた早くなってるのかもしれない。だけど、ほぼ毎年ちゃんとアルバムを出せてきたというのが…うん、俺もみんなもよくやった(笑)。ただ、まだまだこれからですよ。人生のピークがまだっていうのは楽しいよ。まだなんだから。まだ上がってないんだから。早く上がったら下り坂だよ(笑)。
──SIONさんのアルバムを聴いていつも思うんですが、例えばボブ・ディランやニール・ヤングがそうであるように、SIONさんの創作姿勢もまた“最高傑作は常に最新作”ですよね。
SION:自分ではそのつもりだけど。でも、それはその人が一番最初にドカンときた曲だろうからね。で、やってる俺達も楽しいし。初期のものも、最近のものも、「いい」って言ってくれる人もポツリポツリといるから、それは嬉しい。…基本的には次ですよ。いつも次。“いいアルバム作ったなぁ”って思っても、聴かないもん。
──ご自身の過去の作品は聴かないですか?
SION:めったに聴かない。今ラジオをやらせてもらっていて(FM愛知、FM仙台、渋谷FM『東京ノクターン』)、わがままなラジオなんで自分の曲しかかけないんだけど(笑)、そこで聴くだけ。
──話は変わりますが、この20年でレコードがCDに、さらに今CDからデジタル配信へと音楽メディアの在り方も変遷を遂げてきましたが、SIONさんには今のこのシーンはどんな風に映っていますか?
SION:俺のアルバムで言うと…2枚目くらいからかな、CDになったの。86年か87年にCDが出てきて、忘れもしない…花田(裕之)といて、2人でCDの開け方が判らなくて一生懸命開けて、「これ、B面に何も書いてないな」って(笑)。当時まだCDプレイヤーを持っているという人もほとんど見かけない時代だから。あと、レコードってあのジャケットが欲しくて買うっていうのがあったけど、CDになって“つまらんなぁ”と思うよ。デザイナーとかもつまらんやろって。レコード1枚2500円とかで必死になって買って、針飛びの場所が判るくらい聴き込んでいたけど、少なくとももうあんな聴き方はできんやろうね…。でも、だんだん人って慣れていくんだよね。どうなんだろうな、俺も実際音楽を聴かんようになったというのもあるかもしれないけど、どっちの思い入れが正しいとは言わないよ。最近自分でやって恐ろしかったのは、誰かに「聴いて下さい」ってCD貰って、俺、人のCDはあんまり聴かないんだけど、せっかく貰ったんで聴いてみて、イントロつまらんかったらピッて飛ばしちゃうんだよね。“ああ、俺もこうやられとるんかなぁ”と。そう思うと、今の音楽とか歌自体がちょっと気の毒な気もするけど、でも時代だから、それは。その中でもガッと耳に留まる音もあるだろうし。
LOFTを目指して来た人達とちょっと違うんだ
──今回、20年前と同じ日にLOFTでライヴが行なわれるということで、少し昔のお話もお訊きしますが。
SION:まぁ、覚えてたら(笑)。
──まず、近況から伺いたいのですが。
SION:何だろうなぁ、これといって…ラジオと、たまにギターを持ったり、そんなもんじゃないかな。
──次のアルバムの構想なども考えつつですか?
SION:まだ、どうなるか判らんね。
──今年は結構ライヴ活動が盛んですよね?
SION:かなり動いたでしょう。今年は…3年分くらい(笑)。
──先日、深夜にテレビでアコースティック・ライヴが流れてましたね?
SION:ああ、夜中やってたね。呑みに行った先で偶然見て、びっくりした。
──ちょうど20年前にLOFTでライヴを行なって、何か印象に残っていることってありますか?
SION:…LOFTでライヴをやったことくらいしか…(笑)。
──それでは少しずつ思い出を掘り起こしていきましょう(笑)。当時はもうデビューしてたんですか?
SION:いや、デビュー前だと思うよ。だからきっとね、インディーズも入れて20周年なんですよ。そのへん少しうやむやなんだよ。話題がないもんだから、事務所が何か20周年、今年と来年2年やろうと(笑)。
──そんなアバウトな感じなんですか!?(笑) そもそも20年前に初めてLOFTに出演された経緯というのは?
SION:昔、新宿の西口に西口会館というのがあって、そこのアクセサリー屋で働いてたんだけど、LOFTと駅の間にあったから、バイトしてるとよく「LOFTはどこですか?」っていうのと「ヨドバシカメラどこですか?」ってよく訊かれてて…その時訊かれる度に1人10円貰っていたら、大した金額になってるよ(笑)。LOFTっていうのは田舎にいた時から有名で…その頃ルイードもあったんだっけ? でも俺、あんまり知らんかったし、ライヴハウスというとLOFTというのがあって…。
──山口にいた頃からLOFTはご存じだったと。
SION:うん。山口にいた頃から知ってたよ。その頃、山口でひとりで唄っていた頃というのが16〜17歳で、東京とかいろんなところをぐるぐる廻って山口に戻って来る先輩達がいて、その人達が「東京だとLOFT、京都だと磔磔というハコがある」と話していて…。
──そういう話を聞いていて、ライヴをやるならLOFTで…となったんですか?
SION:LOFT自体はもちろんよく知っていたけど…その時面倒見てもらっていた人がいて、「どこ行っててもいいけど、俺が連絡したら来い!」っていう乱暴な面倒の見方だったんだけど(笑)。決めたのはその面倒見てくれてた人じゃないかな?
──その当時のことをもう少し詳しく教えて下さい。
SION:俺はもうその頃から松田(文)さんとやっていて、バンドでやっていて…ライヴもファースト・アルバムの曲はもう全部やってたね。
──割と順調に初ワンマンに向けて進んでいったという感じですか?
SION:ただ、そうなるまでが結構長くて、一番最初は自分で録ったデモ・テープをいろんなレコード会社に持って行ってたんだよ。でもそれがどこへ行ってもこんな感じ(ゴミ箱に捨てるジェスチャー)じゃない? 山のようにデモ・テープがあって、「これだけあるから“聴け”って言われても…」とか言われて。でも初めてある人が、ジーッと待ってたら会議室かなんか行ってテープをかけてくれて。電話しながらだったけど(笑)。もうその時は“この野郎…”って。で、曲が終わって、全然聴いてないし、“ああ、もういいや”って思ってたら、巻き戻したんだよ。“あれぇ?”と思って。それが本当の最初のきっかけかな? それでその人が「ある曲どんどん持って来い」って言ってくれて、どんどん持って行ってて、「何とかするぞ」って言ってくれてたんだけど。その人が制作から営業に移動になって、「ごめん」ってなって、それで紹介されたのがさっき言ったLOFTを決めてくれた人で。で、その人が時々思い出したように「ここのスタジオへ来い」とか連絡があって、“何だろうな?”って思いながら行ったりしてて。その時、そこに松田さんがいて、別の時は池畑(潤二)さんがいて。そこから「バンドでやろうか?」って話になって、やっているうちに「LOFT取ろうか?」ってなって、LOFTでやることになった。
──じゃ、結果的に割とあっさりLOFTに出られたと。
SION:そう。だから全くひとりでLOFTのオーディション受けて…というんじゃないんだよ。訳判らんうちに訳判らん人達に囲まれて(笑)。だから“俺はLOFTでやるんだ!”って東京へ来て、LOFT目指してっていう人達とちょっと違うんだよ、きっと。
──LOFTの初ライヴは、その松田さん、池畑さん達とのバンドで出演されたんですか?
SION:いや、一緒にレコーディングとかデモ・テープを録ったりはしたけど、LOFTの最初(のライヴ)は違ったかな? 今や名前も覚えてない人達がメンバーで(笑)。
──なるほど。レコーディングとライヴとではメンバーが違っていたんですね。ところで、今日に至るまで長い付き合いとなる松田文さんとのやり取りは当時どんな感じだったんですか?
SION:まぁ、当時は「こんな感じにアレンジしていい?」とか言われて、俺は「はぁ」とか「ふーん」とか言って(笑)。歳が7つか8つ上で…だから会ったのが、22か? あの人にも20代があったんだね(笑)。
──同じく池畑さんとはどうでしたか?
SION:池畑さんは当時ルースターズを辞めて、九州に帰ってたんかな? 向こうでバンドやってて、こっち来て会って、最初はもう2人とも口きかんよ(笑)。紹介された時、その紹介してくれた人が部屋を出て行って、2人きりになって黙って睨み合って(笑)一言も口きかない。お互いガルルル〜って(笑)。
──でも、実際に音を出してみたら“最高!”だったんですか?
SION:そうだね。
俺が書いた歌だから その歌に俺が縛られることもない
──改めて訊きますが、最初のLOFTのライヴ、何か思い出しましたか?
SION:…おふくろが来てた…(笑)。何で来るんかってそれがもう…またそれも見えるところにおるから、凄くやりづらかった(苦笑)。
──そのライヴはスタンディングだったんですか?
SION:いや、椅子が置いてあったんじゃないかな、多分。記憶が定かではないですが(笑)。
──お母さんは招待していなかったのに来られてたんですか?
SION:何で調べたかは判らんけど…それがあれですよ、「いつもお世話になって」って関係者にちくわを配る“ちくわ事件”ですよ。「その人達、知らん人じゃけぇ」って言っても、「お世話になってます」って配り回って(笑)。何か、ウチの(田舎の)ほうで有名やったんよ。ちくわとか練りもんが。
──実はこんなのがあるんですが…。[と、SIONがLOFT初出演時のRooftopを広げて見てもらう]
SION:(自分の写真を見て)ああ、好青年や(笑)。そうそう、花田こんなんやった、こんなんやった。池畑さんは今とあんまり変わらんね(笑)。へぇ、凄いね…。
──これを見て、何か新たに思い出すことはありますか?
SION:出さんねぇ(笑)。前へ前へ、ですから(笑)。そんな過去のことは、80歳くらいになってから自分が都合のいいように「ああやった、こうやった」とキレイに作ればいい(笑)。
──ワンマン・ライヴ以降もLOFTにはよく出演したんですか?
SION:そうでもないかな? たまにポツリ、ポツリと。
──他のバンドの打ち上げへ遊びに行ったりとかは?
SION:いや、そうでもない。俺がボーっと覚えているのは、LOFTでキース(ARB)と池畑さんと3人で呑んだこと。それは何か妙に覚えてる。あれ、何で3人やったんやろ?(笑) 判らんけど。あの頃はもう大概判らんのよ、何かすべてがぼんやりとしてて(笑)。みんな仲がいいような、悪いような…。
──さて、20周年のライヴの内容ですが、どういう感じになるのか凄く楽しみなんですが。
SION:これねぇ、前のマネージャーが勝手に決めて勝手に辞めてったからさ(笑)。何のことだよ、どうするんだ? ってメチャクチャですよ(笑)。今年の野音が終わったくらいかな? 「どうやら10月何日が20年前にLOFTで初ライヴをやっているから、そこでやりましょう」って。その時、シャレで「20年前のセットリストそのままでやろうか?」って話にもなったけど。
──そのセットリスト、覚えてらっしゃるんですか?
SION:知り合いのバーに何故かその時のテープがあったり、自分でも少しは覚えてるよ。これ、前も言ったけど、おもしろいもんで、昔の歌を唄うのはもうイヤになったりとかあるんだよ。俺の場合は“生活が違ったらもう唄わない”っていうのがあったから、唄っても「潰れかかったスナックの裏にはもう住んでねぇ」って唄ったりしてたんだよ、歌詞を変えて。それもなぁ…って唄うのをやめたりしてたんだけど、30過ぎてちょっとしたくらいから、“俺が書いた歌だから、その歌に俺が縛られることもないな”と思って、唄いたかったら唄うし、唄いたくなかったら唄わない。前に古い曲だけでライヴをやった時も、懐かしむつもりは全然なかったし。今のほうが恰好いいんじゃないかっていう感じでやろうっていうのはあるけど。敵はその時の俺だから。
──今回は2DAYSで、それぞれライヴ形態が違いますね。
SION:1日はMOGAMIで、もう1日は松田さんと2人だけで。松田さんと2人だけのライヴは、何かもうシラーっとさせてやろうかなと(笑)。「お前らどこまで引くか見とけ!」って(笑)。…もう雪降らしたる!(笑)
──2人でやるのは、久しぶりですよね?
SION:今年の春に九州とか京都を2人で廻ってライヴしてて、それ東京でやってないからいいかなって。
──その時のライヴはどうだったんですか?
SION:鹿児島とかはもう15年くらい行ってなかったから、思い出してもらうきっかけとしては良かったかな。松田さんはギター1本でMOGAMIと同じことをやろうとするから、アコースティックなら全部ゆったりやればいいと思うけど、(バンドでやる時と)音圧は違っても人に届くものっていうのがなかったら弾き語りというものは成り立たないわけだから、そうはいかんっていう。音圧は違っても、塊は小さくても、込めてやれば誰かの胸に届きますよ。で、込めてやるから疲れるんだよなぁ(笑)。つい一生懸命になってしまう(笑)。興奮しちゃって。
──LOFT以降もライヴがたくさん決まっていて、ファンとしては嬉しい限りです。
SION:唄ってなきゃ生きていけんようになったからね。この前の野音とか虹が出たりするわけじゃない? 金かかったけどさ(笑)。ああいう何か楽しい思いをするとやりたくもなる。ただやるってなると、もう1回最初からっていうのが面倒くさいだけで(笑)。そりゃやっぱり大きかろうが小さかろうが、ライトが当たって、聴いてくれる人がいたらいいなって歌を作り始めたんだから。誰かに聴いて欲しくて…要は恰好つけて始めたわけだから、俺も嬉しいよ、ホント。
自分を助ける歌、自分を蹴飛ばす歌
──話は変わりますが、最近は福山雅治さんとCDを共作されて(『たまには自分を褒めてやろう』)話題になりましたよね。
SION:世話になったよ。初めてかもしれない、人にあれだけ力を貸してもらったというのは。福山はそんなつもりないかもしれないけど、俺は…助けられた。まぁねぇ、顔もいい、スタイルもいい、ギターまで巧い…ってちょっと許せんけど(笑)。何か俺とは生きてきた場所とか違うから、よく「どうなの?」とか言われたり、福山が「SORRY BABY」をカヴァーした時とかも、ロックだぜぇって髪伸ばしたり、立てたりしてる奴らから「えー」って言われたりもしたけど、俺が昔から言ってんのは、呑み屋行って大暴れして、ワーワー毎日やってる奴らより、あの忙しい中、ちゃんと歌を書いてやってるあいつのほうが、動き見てるとよっぽどロックだぜって。できるもんならやってみろよって。…もう、福山の養子になりたい(笑)。この前、たまたま利重(剛)監督[映画監督:テレビドラマ『私立探偵 濱マイク』でSIONを起用]と話したんだけど、「あいつが人殺ししたとしても、俺はあいつが好きなまんまやろ」って。何かそういうのあるんやろうね。…まぁ、養子に行く身としては(笑)。
──今後の活動で何かこんなことやろうとか、イメージはありますか?
SION:ないねぇ…。鶴(前任マネージャー)が20周年記念のパンフレットで俺に教わったって言ってるんだけど、“人はひとりじゃない”っていうのと、“誰かは自分じゃない”っていう。難しいところだけど…ただ、『東京ノクターン』もそうだけど、1枚1枚のアルバムを大事にしていって…だからって誰かになれるわけじゃないから、俺は俺のできることしかできんから。アルバムを出せる状況にいて、レーベルから出すことで、俺の後ろのほうに一杯いる奴らに“SIONのやり方でまだここにいられる”っていうことを1年でも長く見せていきたいっていうのはあるけどね。
──最後に、改めて20年という節目にあたり現在の心境を聞かせて下さい。
SION:単純に20年やってこれたというのが、凄い嬉しい。30過ぎくらいまで「レコーディングは曲が10何曲できたから、これ出したい」と言ってディレクターのところに持って行って、「誰とやる?」ってなって「あの人、この人」って選んで。ずっとそういうレコーディングを当たり前のようにやってたんだよ。で、「アルバムが出せません」って言われたり、「ちょっとウチでは…」って、それが当たり前じゃなくなった時、“申し訳ない、贅沢なことをしてたんだな”って思った。随分といろんな人にお世話になってたんだな、とか。だからって感謝おやじになってるわけじゃないよ、すぐ忘れるし(笑)。こういう時に言っとかないと(笑)。たまに思い出した時に。
──20年といっても、まだまだ通過点ですよね?
SION:うん。だってまだまだ30年、40年やってる人が一杯いるんだから。できたら、毎年は無理でも2年に1枚とかリリースしていきたい。何もしないで10年経っても30周年なんだけど、やっていたいんだよ。ずっと出していたいんだよ。そういう年の重ね方はしたいと思う。「もうやめろ」と言われてもやってやる。耳元に向かって唄ってやる。「ア〜!」って(笑)。最後はあれかな、迷惑おばちゃんみたいに布団叩きながらとか(笑)。
──そこまで(笑)。
SION:そうなったら撃ち殺してくれ、遠くから(笑)。…結局いつも言うんやけど、自分がダメな時に自分を助けるのは自分の歌しかないから。だから笑って外に出るには、自分を助ける歌が、あと自分を蹴飛ばす歌が必要なんだよ。
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