内申書裁判、祭り、フリースペース
保坂展人のプロフィールの初めに登場するのは、いわゆる「内申書裁判」だ。政治・社会問題に対して早熟だった保坂は、千代田区立麹町中学校在学中に社会問題を扱う新聞を発行する。しかしそれが学校側から校則違反とみなされ対立。学校は高校受験時の内申書に「政治・社会運動」の記載をし、そのため5つの高校に不合格となる。そこで保坂はこの内申書の運用は憲法違反であると訴え、16歳から内申書裁判の原告として闘ったのだ。
そして、保坂は裁判闘争をしながら、普通の十代とは少々異なった人生を歩み始める。沖縄で喜納昌吉と出会い意気投合した保坂は、彼と一緒に沖縄の島々を周り、たくさんの祭りを興した。それは「魂を起こす旅」として当時の『宝島』に紹介され、沖縄文化がサブカルチャーとして若者達の間に浸透するきっかけになった。
また、保坂はフリースペース運動を展開し、そこに多くの活動家やアーティスト達が出入りした。ちなみに、1984年から開催された反核反戦のロックフェス「アトミック・カフェ・フェスティバル」は、保坂が主宰していたフリースペースにその事務所を構えていた。
保坂「日本の全共闘運動がポシャった後、つまんない時代になってしまった。彼ら団塊の世代は良くも悪くも自己中心的だから、若い世代のことなんか全く考えもしないわけですよね。そんな時、ドイツで若者達の空間利用運動があるのを知った。そこでは、オルタナティブな空間として、アート、音楽など様々なものが生まれいて、そこから緑の党などが生まれていた。僕はそういうことが日本でもできないかと思い、代々木アニメーション学園の隣に3LDKのマンションを借りて、そこを若者のために開放したんです」
教育ジャーナリスト、そして政治家に
内申書裁判を闘う過程で学校問題のルポを次々と発表し、保坂は教育ジャーナリストとして学校・教育関連の本を数多く出版した。特に80年代前半、ちょうど校内暴力が問題になっていた頃には、『月刊明星』に「元気印レポート」、『セブンティーン』に学校現場レポートを連載。現役中高生から多くの支持を受けた。当時、保坂は「82,3年頃、日本で最も多くの中高生の悩みを聞いていた」と言う。
保坂「自分がそうだったからかもしれませんが、ドロップアウトしたり、アウトサイダーになっていく子に対して親近感があるんでしょうね。だからバッシングする側よりは、される側になるべく立ちたいという気持ちがずっとありますね」
成城駅前の小さな事務所で、いじめや不登校で悩む子供のための電話相談を続けていた保坂は、やがて市民運動家という立場から土井たか子を支援するようになる。その後、1996年、社民党東京比例区で当選。政治家としての歩みを開始した。保坂がジャーナリズムという世界から政治という世界に飛び込んだ理由は一体何だったのか?
保坂「確かにジャーナリズムというのはやりがいのある仕事だと思います。ただ僕がやっていたのは、子供がいじめの問題で自殺したりとか、暴走族同士の乱闘で子供が死んだりとか、かなり深刻なテーマが多かった。もし僕が議員でなかったら、神戸の酒鬼薔薇事件みたいな問題にも取り組んでいたと思うんです。ただ、そういう事件というのは、こんなにひどい状況だとは書けるんだけど、その問題を解決できないまま書いていくという面があるじゃないですか。だからもっと違う形で状況に関わりたいと思った。
例えば、児童虐待という問題に対して、それを本にしたら売れるかもしれないし、あるいはテレビドラマになるかもしれないけど、それで現実は何も変わらないんです。だったらむしろ制度を変えて、そこにきちんと税金が使われていくような法律を作ることで、ひどい状況に置かれていた子供がレスキューされるしくみを作る方がいいのではないか。それはやっぱり政治の仕事なんです。実際長い期間、児童虐待はそれほど大きな問題ではないと言われてきたんですが、実はそんなことはなかった。それで児童虐待防止法という法律を作りました。ただし、僕は完全にジャーナリストを辞めたつもりはなくて、どこにでも入っていってそれをわかりやすく伝えることをこれからもやりたいと思っています」
憲法9条
政治家・保坂展人は、学校・子供の問題を中心に平和、環境、年金、交通事故捜査などあらゆる問題を追及し、国会の質問王と呼ばれるようになる。多くの批判を巻き起こした盗聴法が審議された時は、反対運動の先頭にも立ち、そのため自らの電話が盗聴されるということもあった。
今国会では憲法改正問題が大きなテーマだと言われている。保坂は護憲の立場をとっているが、自民党が目指す憲法改正の動きに対してどのように闘っていくのだろうか?
保坂「ネイキッド・ロフトでトークイベントを始めたのもその理由の一つなんだけど、従来、憲法を護れという集会で集まる人の多くは50代以上が多く、40代以下は少ないんです。でも憲法が変わることで一番影響を受けるのは20代、あるいは10代なわけで、そういう人たちがこの問題を考えることができる入り口が必要だなと感じています。
今年の国会で問題になっている、耐震偽装事件の原因になった建築基準法の規制緩和、ライブドアを持ち上げた郵政民営化、牛肉の輸入再開、どれもアメリカからの要求でした。つまりアメリカの要求をなんでも飲み込んでいく政府が、今度もアメリカの要求だからと憲法を変えていくというのは、果たしてこれでいいんだろうかと。憲法を議論する時に、単に“憲法を守れ”という言葉だけを叫んでも全く広がらないと思っているんです。対震偽装問題、BSE問題、あるいは子供の事件の問題といった、私たちの日常に起きていることと関連づけて憲法のことを語らなければ説得力を持ち得ないと思います」
確かに対米従属路線に疑問を持つ人も多い。その一方で、北朝鮮との軍事的緊張やテロの驚異から日本を守るにはやはり軍隊が必要だという意見もあるが。
保坂「そもそも今の改憲論は日本を守るためという主張ではないんですよ。現状、日米同盟があって、自衛隊があれだけの装備を持っている。冷戦時代はソ連が北海道に攻めてくるというシナリオも想定もされていたけど、例えば今、北朝鮮軍が日本に攻めてくるというのはほとんどありえないでしょう。その場合は38度線で韓国との軍事衝突になりますから。もしやるとしてもミサイルでしょうけど、それこそ日米同盟の懸案であり、憲法の問題ではない。つまり今、憲法を変えたい理由は、日本の防衛ができてないからではなく、自衛隊をアメリカ軍と一緒にイラクやイランなど広範囲に動かしたいというのが本当の理由であり、それこそがアメリカの要望なんです。
今回のイラク戦争が正義の戦争じゃなかったというのは多くの若者が感じていることだと思うけど、そういう戦争にも協力しなければならなくなる。もちろん今でも協力していると言えるんだけど、少なくとも自衛隊がサマワでせっちん詰めになっているのは憲法9条があるからで、もし9条がなければ、当然ファルージャのような市民に銃口を向ける作戦にも行くことになります。そうなった時、日本は本当の意味で戦闘国そのものになるし、人も大勢死ぬでしょう。今は9条があることで日本は戦争ができないんですが、改憲して戦争ができる国になることで日本はより危険な状況になる確率のほうが高いと思います。実はこの前『TVタックル』で同じことを言ったんだけど、放送ではそれが全部カットされて頭にきてるんです(笑)」
子供達に希望はあるか?
村上龍は、2000年に書いた小説『希望の国のエクソダス』で、主人公の中学生に「この国にはなんでもある、ただ希望だけがない」と言わせている。ジャーナリストとしても政治家としてもずっと子供の問題に取り組んできた保坂展人は、子供達の未来をどう考えているのだろうか?
保坂「今、国会で話題になっていることも、偽装だったり粉飾だったり嘘だったりが多くて、それは子供から見れば嫌気がさすような話題です。そういう大人の現実を見た子供が、バーチャルな世界に住みたいというのもよくわかるけど、そこには巨大な隙間が生まれている。つまり社会が壊れ始めていて、いろんな悪いことが起きるんだけど、一方ではチャンスも生まれているんです。不透明な社会では、大きなものに頼った方がいいとか、成功した人の後ろをついていけばいいと思う人が増えますが、逆に、自分の力で挑戦してみたい人にとっては未だかつて無いぐらいのチャンスの時代がやって来たんじゃないか。それは1945年のように古い価値が崩れ徒手空拳でいろんなことがやれた時代、あるいは、1960年代後半の大学闘争の頃のように既成の秩序が世界的に揺らいだ時代、今はそれに続く第三の波が来ている。例えば、会社において団塊の世代が大量退職することは大きな変化のきっかけになります。
そこで僕の役割は、ポスト団塊の世代として、若い人達が心おきなくエネルギーを燃焼できるような環境を作ること。たとえ失敗してもまた新しいことにチャレンジしていけるような社会にしていきたいと思っています。日本はフランスやイギリスほどきっちりとした学歴社会ではなく、いわば裏技アリの学歴社会。田中角栄も総理大臣になれるし、僕みたいな人間も学歴がないから引っ込んでろとは言われない。だから若い人には、自分で自分を差別せずに、堂々といろいろなことに挑戦してみて欲しいなと思いますね」
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