ダチャンボに初めて遭遇したのは、いつだったろう? あれはたしか、アメリカン・ジャムバンドの代表、ストリングスチーズインシデントが来日したと き、ベイエリアのクラブで行われたアフターパーティーだったと思う。 いや!? それとも同じ頃にあった代々木公園の「アースデイ」だったかもしれな い。バイオグラフィを頼りに記憶の糸をたどれば2004年の4月あたり。1年半ほど前だが、もっと前のような気がしてしまう。いずれにしろ、その後、彼らとはいろんなところで遭遇している。
渋谷の雑踏で、ギターのAOちゃんが向こうから歩いてきたこともあった。下北沢を歩きながら偶然迷い込んだ商店街のお祭りの小さなステージの上で、彼らが演奏していたこともあった。そのときAOちゃんは、青空を眺めながらギターを弾いていた。笑いながら...。
頭がカラッポになって大空とひとつになる、覚醒にも似たあの感覚のなかでギターを弾いていた。あるいは、刻々と変化しながら上空を行き過ぎる、名づけようもない大きな存在とチャネリングしながら、というべきか?
そんな風にいろんな場所でダチャンボと出会ってきたけれど、たいていの場合は山の中だったりした。今やダチャンボは、野外フェスの常連バンドのひとつなのだ。ステージの前で大観衆がユッサユッサ揺れていたこともあったし、ほんの数人だけがクルクル回っていたときもあった。ただ、どんなときも彼らの演奏は、空間とひとつだった。客がいてもいなくても、その場所を支配していた。
ダチャンボを知らない人たちのために、サクっとプロフィールに触れておこう。
そもそもの始まりは2001年頃。それまでオーティス・レディングみたいな歌中心のR&Bバンドで、メインボーカルとサイドギターを担当していたAOちゃんが、ベースのEIJI君と出会って結成。以前のバンド活動は休止に向かう一方で、ドラムスやサンプラーを扱うhdちゃん、ディジリドゥを抱えて世界を旅するバックパッカーのOMI君など、新しいメンバーがいつの間にか集まってきた。BUKKABILLYさんはメンバー募集の貼り紙で。キーボード とコンピュータを操るHATAさんは、AOちゃんの大学の先輩だったとか。
「バンド休んで、生まれて初めてクラブへ行ったり山の中のレイヴにいったり、いろんな場所に行ってだいぶ変わりましたね。ヒデちゃんやブッカ(ビリー) さんも入って、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやって来ては、一緒に音を出すという感じ...」(AO)
そんな、ほとんどジャムセッションのようなライブを繰り返しながら、インプロビゼーションがメインの今のダチャンボの基本形が自然と整ってゆく。 2002年の秋頃の話だ。
以来、休席中のYAOを加えたトリプルドラムスのときもあったが、現在はダブルドラムス(BUKKABILLY、YAO)、ギター(AO)、ベース (EIJI)、シンセ(HATA)、ディジリドゥ(omi)の6人編成で落ち着いている。ライブではたいてい、これにパーカッションやなんやらが加わっ て、さらに大所帯になる。
「その場にいるミュージシャンを呼び込んだり、その辺は自由ですね。知らない人が勝手に隣で演奏してるときもあった(笑)」(BUKKABILLY)
強烈な縄張り意識と上下関係に縛られた、芸能ロックの世界とは違って、彼らの関係性はとてもフラットだし、PEACEだ。
そして彼らのステージは、観客のノリ、その場所の空気、地場、バイブレーション、そんな言葉では表現困難なものにビビッドに反応しながら、どんどん変化してゆく。それを評するなら、最近定着しはじめたジャムバンドという言葉がまさにあてはまるだろう。しかも、めちゃくちゃダンサブル。アゲてくれる。とっても楽しい(もっともジャムバンドのコンセプト自体は新しくはない。60年代末のサンフランシスコのバンドなんか、ぜんぶジャムバンドだったということもできる)。
ためしにグーグルで「Dachambo」検索をかけてみれば、「ジャムバンド」の他にも「トランス」や「エスニック」といった形容詞があふれている。 でも、結局のところ、どんな言葉も実際に聴いてみることにかなわない。IT革命後の現在では、ネットで簡単にライブ音源が聴ける【http://dachambo.com/pcindex.html】。「百聞は一聴にしかず」だ!
そんなダチャンボが、新しいアルバムを出した。ロフトプロジェクトのレーベルPLEASURE-CRUXから、都合3枚目となる。タイトルは『A Live Fool On The Moon』。60分を越えるフルアルバム並みのボリューム。なのに、なぜかミニアルバム扱い。なぜ...?
「プライドの問題ですね。時間もなければ金もない状況のなか、9月ぐらいに1枚という話だけが先にあった。」(BUKKABILLY)
結局、新譜のスタジオ録音は1曲だけ。あとの新曲は、ライブやセッションの音源を、コンピュータにぶち込んで再構築した。
「曲作りは、スタジオに誰かが(曲の)ネタを持ってきて、それをもとにセッションしながら練り上げてゆく。で、結局、最初のネタはどこ?みたいな感じ になる(笑)。ものすごく時間がかかるんですよ」(HATA)
その時間と予算を組む余裕が、なかったということか?といって今回の新譜がハンパなわけじゃない。むしろそのバラエティ感が、「ダチャンボのおもちゃ箱という感じ?」(AO)で楽しめる。
「1枚目は完全に作り込んだ、2枚目はスタジオライブのアナログ一発取り。今回はライブ音源を元に思い切り遊んでみました。1〜3枚目まで、それぞれに いいものが出揃ったという感じ。それぞれ聞き比べて欲しい」(HATA)
とくに、昨年解散したPHISHに捧げた3曲目の「サルビア・オリビア」は、唯一のスタジオ録音だけあって、みごとに構成された名曲。今後、ステージ 上でどんな風に料理されるかが、楽しみな1曲でもある。
あと楽しみといえば、新譜のグラフィックだ。1960年代、ジャムバンドなんて言葉がいらないくらい、ロックという生き方自体がジャムだった頃、話題のアルバムのグラフィックを飾っていたのは、たとえばリック・グリフィンやスタンリー・マウス、アルトン・ケリーといったアーティストたちだった。ロンドンのパンクシーンにはジェイミー・リードがいたし、西海岸のグランジェシーンには、KOZIKやCOOPといったローブロウ系のペインターたちがいた。つまり、ただの商品ではない音楽のシーンには、それぞれ専属のお抱え絵師がいるものなのだ。
前作『Dr. Dachambo in Goonyara Island』のジャケを描いたのは、70年代から続く日本のカウンターカルチャー&デッドヘッズ・シーンで、知らぬ者なしの伊藤清泉画伯。で、今回の 3枚目は、その清泉画伯と忍野デッド(コアなデッドヘッズ・フェス)で、今年一緒にライブペインティングを披露したアメリカ人のNEMO。ジャケを見ればわかるように、もうグニョングニョン。サルビアも12倍ぐらいだ。
「郡山のアースデイで知り合って、3Dメガネで彼の絵を見るとすごいんですよ。で、メンバーへの相談も忘れて、気がついたらジャケットのデザインをお願 いしてた(笑)」(OMI)
他にも忘れてならないのが、1枚目から3枚目まで、ずっとクレジットされているVJ&Light Show:OVERHEADSの存在。OVER HEADSといえばオイルプロジェクター、ビデオプロジェクター、スライドを多用したサイケデリックなライティング・ワークで知られる照明集団。先の清 泉画伯同様、日本のカウンターカルチャー・シーンの重鎮だ。
「僕たちが最初のアルバムを手がけた頃から、OVERHEADSは有名だった。頼み込んでステージの照明をお願いしたんです。今では、この人たちがいるから私たちがいる、というくらい、ダチャンボ村の中では重要な人たち」(AO)
〈ダチャンボ村〉...、バンドを取り巻く人と人とのつながりを称して、メンバーたちはそう呼んでいる。ファン、ヘッズ、スタッフ、関係者、仲間たち、つまりファミリーは、〈ダチャンボ村〉の村民=ヴィレッジ・ピープルということらしい。
「いずれは、みんなで一緒に住むのも面白いな、とは思ってますよ。伊豆あたりでスタジオでもやりながらというのも理想。まだまだ無理ですけどね。それで デッドじゃないけど、年に何回か民族大移動みたいに〈ダチャンボ村〉の村民たちを引き連れて、世界中いろんなところに行けたらいいですよね。夢ですね」(AO)
もしも彼らが大ブレイクして、日本のヒットチャートを賑わすようになっても、たぶん彼らはロールスロイスに乗ったりはしないだろう。高級ブランドを買い漁ったりしないだろう。高級住宅街に趣味の悪い大邸宅を建て、高級レストランに出入りしたりはしないだろう。そしてなによりも、もしも彼らの音楽が日本のメインストリームになったとしたら、それは日本のオーディエンスが、日本の社会が変わったということに他ならない。
想像してほしい。日本中がダチャンボの音楽にのって踊りまくるのだ。その空想はボクに、グレイトフル・デッドのスピリチュアル・アドバイザーでもあったネイティブ・アメリカンのメディシンマン、ローリングサンダーの言葉を思い起こさせる。彼はこう予言しているのだ。
「人々が、残らず馬鹿のように振る舞いはじめるとき、世界がバランスを取り戻し、すべての生命を救う虹の戦士が現われる」
ダチャンボで踊れ、バカになれ!
Interview & text : 久信田 浩之
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